第1話
文字数 1,982文字
「……今日も、空気中の塩分濃度が非常に高くなるため、しょっぱい天気になるでしょう。必ず、防塩マスクを装着してください。続いては……」
肩に下げたラジオから流れる声に、男は足を止めると、被っていたマスクを脱ぎ、舌を出した。
空気に触れた舌が口の中へと戻った瞬間、男の顔が歪む。
「……ッ、何だ、これは。喉が焼けちまう」
男は、唾を吐き、慌ててマスクを被りなおした。
しかし、すぐに、血を吐くかのような激しい咳に襲われて、思わず握っていた探知機を落とし、両の膝と手を地面につけた。
「何て馬鹿なことをしたのだ」と、遠ざかる意識の中、自分の愚行を後悔する。
しばらくの地獄が過ぎ、ようやく立ち上がることができた男は、流れ続けていたラジオの電源をオフにすると、耳を澄ませた。
「ジジッ……、ジジジッ……」
落ちた探知機から僅かに発せられる機械音。
無音で無機質な底知れぬ漆黒の空間に、ただ、それだけが鳴いている。
地表を遥か彼方に望む地下の世界。
人類の子孫はソコにいた。
永い年月の末、すでに、彼らの中に地上の記憶は無く、人類の住処は、完全に地底へと移っていた。
もはや、地底人とも呼べる彼らに残された人類の面影は、かつての文明の残り香だけである。
その一つである天気の概念は、空が望めぬ地下世界においては、『味』として、受け継がれていた。
そして今、その『天気の味』が彼らの脅威となっている。
「ジッジッ……ジジジッ……」
探知機の音が、地下の漆黒に響き続けている中、男は一時の集中を終えると、真っすぐに手を伸ばした。
伸ばされた手は、一寸の狂いもなく、落ちている探知機を捉え、拾い上げる。
そのまま耳元へと近づけられた探知機は、確認をするように、二回、三回と軽く振られた。
「よし、壊れてないな……ふぅ」
ふと漏れ出た溜息とともに、男は再び歩き始めた。
暗闇の中、男の歩みには一切の躊躇がない。
足の裏から伝わる感覚と、肌に触れる空気の流れのみを頼りに、迷わず進んでいく。
しばらく間歩き続け、一息の間隔が短くなり始めた頃、男はその違和感に気が付いた。
「……しょっぱい……」
マスク越しに感じた塩味に、男の胸が鳴る。
フィルターに傷がついている。
恐らくは、先ほど激しく咳き込んだ時。
替えのマスクはない。
男の背筋に冷たいものが走る。
すぐに戻らなくては、と慌てて踵を返そうとしたその時だった。
「ビィィィッビィィィッビィィィィィッ」
突然鳴り響いたその異常な音に男の動きが止まる。
「何だ、この音は――」
初めて聞く音に、男はすぐさまその出所を探ろうと神経を尖らせた。
低く反響する音を執拗に捕えようとしたため、手から伝わる音の振動に気が付いたのは、少し経った後だった。
ようやく、音の正体が探知機であることを知った男は、ハッと思い出したかのように、右手に持った探知機を辺りの岩壁に近づけた。
上下左右。まるで、大きな円を描くように、振られる探知機は、位置を変えるごとにその鳴き方を微妙に変える。
「……ビビッ……ビビィィィィィィィィ」
「――ここだ」
探知機の音がこれまでよりも明らかに強くなったその場所に、男は、そっと手を当てた。
ひんやりと冷めた岩壁の触感。その先に微かに伝わるまるで呼吸のような空気の対流。
間違いないと確信した男は、腰に巻いた袋から鉄の棒と金槌を取り出すと、手を当てていた場所にゴンッと打ち付けた。
その瞬間――。
解き放たれるような爆風が、男を襲った。
一瞬にして、男の体は、綿のように吹き飛び、衝撃波が命綱であるマスクを引き裂いた。
背中から叩きつけられるように地面へと落ちた男は、仰向けに横たわる。
全身を走る激しい痛み。
男の顔は苦痛に悶え、思わず、大きく息を吸い込んだ。
「マスクがない――」と、脳裏によぎったその刹那――。
男は、確かに味わった。
殺人的な塩分が空気を支配するこの世界で、男は、ずっとそれを求めていた。
息も出来ぬほどの塩味に、やさしく溶けて混ざる芳醇な甘味。
融合する二つの味は、新たな味へと変化する。
生まれて初めて味わうはずなのに、自然と言葉が出た。
「……甘じょっぱい」
男はそう呟くと、それ以上、ソレを味わうことはなかった。
――地上にまだ文明が存在していた時代。
かつて、人類は罪を犯した。
破壊と殺戮を願う罪。
その罰を背負ったのは、地球であった。
地表は灼熱に覆われ、海は干上がり、巨大な塩の塊となった。
地球上の生命のほとんどが失われ、僅かに残った人類のみが、地底へと逃げていった。
地球を焦がし汚したのは、たった一つの兵器。
その凶悪さからは想像もできない甘美な香りの毒を発することから、兵器は、皮肉を込めて『悪魔の砂糖』と呼ばれた。
砂糖の毒は、今もなお、地球を侵し続けている。
肩に下げたラジオから流れる声に、男は足を止めると、被っていたマスクを脱ぎ、舌を出した。
空気に触れた舌が口の中へと戻った瞬間、男の顔が歪む。
「……ッ、何だ、これは。喉が焼けちまう」
男は、唾を吐き、慌ててマスクを被りなおした。
しかし、すぐに、血を吐くかのような激しい咳に襲われて、思わず握っていた探知機を落とし、両の膝と手を地面につけた。
「何て馬鹿なことをしたのだ」と、遠ざかる意識の中、自分の愚行を後悔する。
しばらくの地獄が過ぎ、ようやく立ち上がることができた男は、流れ続けていたラジオの電源をオフにすると、耳を澄ませた。
「ジジッ……、ジジジッ……」
落ちた探知機から僅かに発せられる機械音。
無音で無機質な底知れぬ漆黒の空間に、ただ、それだけが鳴いている。
地表を遥か彼方に望む地下の世界。
人類の子孫はソコにいた。
永い年月の末、すでに、彼らの中に地上の記憶は無く、人類の住処は、完全に地底へと移っていた。
もはや、地底人とも呼べる彼らに残された人類の面影は、かつての文明の残り香だけである。
その一つである天気の概念は、空が望めぬ地下世界においては、『味』として、受け継がれていた。
そして今、その『天気の味』が彼らの脅威となっている。
「ジッジッ……ジジジッ……」
探知機の音が、地下の漆黒に響き続けている中、男は一時の集中を終えると、真っすぐに手を伸ばした。
伸ばされた手は、一寸の狂いもなく、落ちている探知機を捉え、拾い上げる。
そのまま耳元へと近づけられた探知機は、確認をするように、二回、三回と軽く振られた。
「よし、壊れてないな……ふぅ」
ふと漏れ出た溜息とともに、男は再び歩き始めた。
暗闇の中、男の歩みには一切の躊躇がない。
足の裏から伝わる感覚と、肌に触れる空気の流れのみを頼りに、迷わず進んでいく。
しばらく間歩き続け、一息の間隔が短くなり始めた頃、男はその違和感に気が付いた。
「……しょっぱい……」
マスク越しに感じた塩味に、男の胸が鳴る。
フィルターに傷がついている。
恐らくは、先ほど激しく咳き込んだ時。
替えのマスクはない。
男の背筋に冷たいものが走る。
すぐに戻らなくては、と慌てて踵を返そうとしたその時だった。
「ビィィィッビィィィッビィィィィィッ」
突然鳴り響いたその異常な音に男の動きが止まる。
「何だ、この音は――」
初めて聞く音に、男はすぐさまその出所を探ろうと神経を尖らせた。
低く反響する音を執拗に捕えようとしたため、手から伝わる音の振動に気が付いたのは、少し経った後だった。
ようやく、音の正体が探知機であることを知った男は、ハッと思い出したかのように、右手に持った探知機を辺りの岩壁に近づけた。
上下左右。まるで、大きな円を描くように、振られる探知機は、位置を変えるごとにその鳴き方を微妙に変える。
「……ビビッ……ビビィィィィィィィィ」
「――ここだ」
探知機の音がこれまでよりも明らかに強くなったその場所に、男は、そっと手を当てた。
ひんやりと冷めた岩壁の触感。その先に微かに伝わるまるで呼吸のような空気の対流。
間違いないと確信した男は、腰に巻いた袋から鉄の棒と金槌を取り出すと、手を当てていた場所にゴンッと打ち付けた。
その瞬間――。
解き放たれるような爆風が、男を襲った。
一瞬にして、男の体は、綿のように吹き飛び、衝撃波が命綱であるマスクを引き裂いた。
背中から叩きつけられるように地面へと落ちた男は、仰向けに横たわる。
全身を走る激しい痛み。
男の顔は苦痛に悶え、思わず、大きく息を吸い込んだ。
「マスクがない――」と、脳裏によぎったその刹那――。
男は、確かに味わった。
殺人的な塩分が空気を支配するこの世界で、男は、ずっとそれを求めていた。
息も出来ぬほどの塩味に、やさしく溶けて混ざる芳醇な甘味。
融合する二つの味は、新たな味へと変化する。
生まれて初めて味わうはずなのに、自然と言葉が出た。
「……甘じょっぱい」
男はそう呟くと、それ以上、ソレを味わうことはなかった。
――地上にまだ文明が存在していた時代。
かつて、人類は罪を犯した。
破壊と殺戮を願う罪。
その罰を背負ったのは、地球であった。
地表は灼熱に覆われ、海は干上がり、巨大な塩の塊となった。
地球上の生命のほとんどが失われ、僅かに残った人類のみが、地底へと逃げていった。
地球を焦がし汚したのは、たった一つの兵器。
その凶悪さからは想像もできない甘美な香りの毒を発することから、兵器は、皮肉を込めて『悪魔の砂糖』と呼ばれた。
砂糖の毒は、今もなお、地球を侵し続けている。