校歌

文字数 2,203文字

「はじめまして、美園といいます。下から読むとね、のぞみです。
 ここは田んぼに囲まれてて。近くに川も流れてるし。みなさん揃って礼儀正しい。良い中学校だなって思います。よろしくお願いします」
 逆はのそみじゃん。ガハハハ。一部の男子が盛り上がっても美園先生は笑顔を崩さず、ピアノ椅子の高さをきゅ、きゅと調整した。
隣の席のめーたんに、美人さんだね、と思わず言うと、教科書の端に癖のある字で「かりん、こういう顔好きだよね」と書いてきた。人に言われると悔しい気がして頬を膨らます。めーたんは嬉しいようにも困ったようにも見える口と眉の微妙な傾きをつくった。それはもともと私の表情だったけど、いつのまにか二人のものになっている。
 前方の席の子が、譜面台に置かれたインコのポーチを指さして何か言った。柄が、とかではなく形がインコそのものの変わったポーチだ。ああこの子ね、捨てられてたの、可哀想で拾っちゃった。先生はすらすら答えた。男子たちの、じゃあゴミじゃん。きったねー!という声を気にもとめず、ハイじゃあみなさん歌いましょうと言いながら先生が弾きはじめた前奏が校歌だとは気づかなくて、私は歌い出しそびれた。途中の、薫る三年をすこやかに、から歌いはじめた。美園先生がこっちを見た。
 美園先生は最初に勤めた中学を一年で辞めてうちへ来たらしい。新しい音楽の先生が来たと家で話したら、お母さんが色々教えてくれた。有名な音大の卒業生で、学生結婚をしている。旦那さんは外国のオーケストラでオーボエを吹いている。どうして学校に通っている私より、通っていないお母さんのほうが学校について詳しいのか不思議だ。
 環境委員の活動がないかぎり、私は四時には家について、小学生の弟と一緒に〈にほんごであそぼ〉や〈おじゃる丸〉などを見る。めーたんに話すと「あなた何歳よ」と言われるけど、何歳になっても他の番組よりかずっと面白いんだからしょうがない。めーたんは陸上部の練習で忙しいから、この時間のテレビ事情に詳しくないのだ。
 夏休み明けから弟が塾に通うことになった。月謝が何万円とかかるから、お母さんはパートの回数を増やさないといけないそうだ。
 四時に家に帰っても誰もいない。誰もいない部屋で、じゅげむじゅげむごこうのすりきれを聞く。ちっとも面白くない。チャンネルを変えてみる。よくしゃべる人が、よく眠れるという枕を売っている。芸人さんが試しに、と言って横になる。そのうち本当に寝てしまった。出演者から笑いが起こる。
 テレビを消し、いつものビニール袋とトングを持って外に出た。
 ポイ捨てする人を私は見たことがない。なのにこんなにたくさんのゴミが落ちているのは、いったいどういうわけだろう。夜中に誰かが町じゅうのゴミ箱をひっくり返して歩いているとしか思えない。
 道ばたに鮮やかなインコのポーチが目に付いて、やっぱり美園先生だった。コンビニの駐車場の車止めでしゃがんで、コンビニの蕎麦を啜っている。
 先生のほうでも私に気がついて、かりんちゃーん、と手を振って名前を呼んだ。学校では苗字で呼ばれるから妙な感じだ。
 私は「いやあどうも」という感じで、隣の車止めに腰を下ろした。適当な私服なのが照れくさい。先生は学校と同じ淡い黄色の服を来て、足だけサンダルに変えている。
 コンビニからカップ麺を持った男の人が出てきて、美園先生の前に立ち、私のほうを見た。髭が生えているけど雰囲気は大学生という感じ。「この子、勤務校の生徒さん」先生が私を紹介しても、大学生は一瞬目を合わせただけで、鳥のように首を揺らして少し離れた。カップ麺は立ったまま食べるようだ。
「ここ座ると、稲の波がよく見えるよ、ほら」
教室の何倍も広い駐車場の隣はずっと奥まで田んぼで、その上を新幹線の高架が横切っている。田んぼの稲はたしかにふさふさと実っていたが、別に私は毎年見ている景色だった。先生はここに来たばかりだから珍しく思うのだろう。
委員会の仕事?と訊かれて、いえ、家にいてもすることがなくて、と答えた。先生は少し考えてから「ポイ捨てする人の気持ちとか、想像したことある?」と変なことを訊いた。
「ない」と言うと、先生は食べ終わっていた蕎麦の容器をフリスビーみたいに構えて、田んぼの方に投げた。それは汁をまき散らしながら優雅に空中を浮遊したあと、縦になって駐車場の隅に転がった。「こういう人がポイ捨てするの」と言って美園先生は自分を指さして、私の袋を持って歩いていき、蕎麦の容器を拾いあげた。
「なんでそんなことするのか、分かりません」
 私が悪いはずないのに、答えられない私が悪いみたいな気がした。先生は、全部の中学生がかりんちゃんみたいだったらいいのに。と言い残して、大学生と車で帰っていった。
美園先生が逮捕されたのはその二ヶ月くらい後だった。学校中大騒ぎだったけど、先生たちは詳しいことは何も教えてくれない。お母さんに訊いて分かった。自動車の免許を一度も更新していなくて、三年間無免許運転だったのだ。お母さんは、弟こそ私立の中学に入れると断言した。

 週末の陸上の大会でめーたんが走るので、応援に来た。
人形みたいに小さいめーたんがグラウンドでアップをしている。今から一〇〇メートルを走る。手を振ったら振り返してくれためーたんは、困ったような嬉しいような、あの表情を作った。そしてスタート位置に着く。
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