第1話

文字数 1,819文字

 深夜三時を過ぎたサービスエリアに停まっている車は、仕事中か訳ありかのどちらかだ。両側を高い山に挟まれた暗闇の底に、線香花火の先端のような微かな光を放つそのサービスエリアがあった。四十台は停車できそうなパーキングには、今は僅か五、六台が周囲を気遣うように音を潜めている。
 男が買ったばかりのカップのコーヒーを手に、ゆったりとした足取りで外に出て、そのうちの一台に近づく。ワインレッドの日産セレナ。カップから微かな湯気がたつ。男は口をすぼめ、一口すする。急いでいる様子はない。ふと夜空を見上げると、子どもが思うままに巻き散らかしたような一面の星の瞬き。だが男は、首をひとひねりしただけで、そのまま運転席のドアを開いた。
 運転席に座った男の頭は醒えていた。まったく眠気はない。用心のためにブラックのコーヒーにしたが杞憂だったようだ。ただ行くべき方向さえ決まれば、朝までは走り続けることが出来るだろう。行けるところまで行ったら、ファミリーレストランで軽い朝食を食べ、海沿いの駐車場を探して車を停めて眠りにつこう。悪くないアイディアだと男は感じだ。エンジンをいれ、ハンドルを握った。
 
ラジオから大袈裟なイントロのヘヴィメタルが流れてきた。おれはボリュームをあげる。スコーピオンズかホワイトスネイクか、要するにあの頃の、あの辺のバンドだ。兄がしょっちゅうコピーしていた。部屋が隣だったから、ずいぶん騒音に悩まされたものだ。始終音を外すし、速度も鈍いのでほんとうはどんなメロディなのかさっぱり分からない。飽きっぽい人間だったが、ギターだけは随分長い間執着していた。結局モノにはならなかったが。
 兄がおれのことを一度もバンドに誘ってくれなかったのは、今でも歯痒い思いがする。どっちにしてもおれに音楽の才能はなかっただろうけど、それでも仲間に入れてほしかった。もっと幼い頃は、野球でも自転車でも兄のやることには何でも参加させてくれたのに。音楽だけは、弟とは違う自分だけのものだと思ってたんだろうか。 
 学校の成績はさっぱりで、親父と殴り合いの喧嘩をすればおれが止めに入って代わりに何発か親父のパンチを食らった。結局兄が高校を途中で諦めた時は、母親が大泣きした。好きなことだけやり放題で、家の中をめちゃくちゃにして出ていった兄を、当時は恨んだものだった。
 それでも東京でバンドを組んだという連絡を寄こしてきた時は嬉しかった。心から応援しようという気になった。母親にも知らせた。無事生きていたというそれだけで、母親は笑った。おれからは親父には知らせなかった。
 兄が出ていったあと、おれは高校を卒業し、そのまま県内のハウスメーカーに就職した。別にぬくもりのある家庭になんてものに憧れなんてなかったが、兄とは違ったかたちで自分なりに成功したかった。その年に親父が死んだ。糖尿病が悪化した。振り返れば、働き詰めの人生だった。昔気質で、手を抜くということを知らなかった。仕事も、生き方も。放埓な兄のことは正直、手を焼いていたし、戸惑ってもいただろう。最期まで二人は和解することはなかった。ただ結果的には、それで良かったのかもしれない。兄の死を知らずにすんだ。
 兄は東京で、独りで死んだ。通報を受けた警察官が、アパートの部屋で兄の死体を発見した。違法薬物が原因だと言われた。自業自得だよ、と言われている気がした。そうですか、すいません、としか言えなかった。誰が通報したのかも分からない。母親と二人で新幹線に乗って東京へ行き、兄を焼いて骨だけ持って帰ってきた。
 おれが職場の同僚と結婚して、子どもが出来た時、母親は心から喜んでくれた。初孫を母親に抱かせながら、おれはようやくひと仕事果たしたような気がした。母親はその年、穏やかに亡くなった。
 おれは、自分なりに努力した。せっかく手にした家族を維持しようと試みた。それでも、ちょっとずつ歪みが広がっていった。おれの嫁は予想外に金遣いが荒く、頻繁に飲みに出掛けた。子育てについても意見が合わなかった。そして子どもは、成長するにつれて、どんどん違和感だけが募っていった。思い通りに育ってくれない。おれとの共通点が見いだせない。可愛いと、思えない。
 兄は、好きなようにやって、そのまま死んでいった。兄のヘタクソな歌声が羨ましかった。

 車は、二百キロに迫る速さで角を曲がり、山の向こうに消えていった。
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