憶う

文字数 1,087文字

夢を見た。
月の隠れた仄暗い闇の中、切り株の横に一人の青年が佇んでいる。青白い光を揺らしながら。
彼は俯いたまま切り株の根元にゆっくりと腰を落とし、周りより少し柔らかい土を優しく撫でる。
とても、とても愛おしいものに触れるように。
静かな空気は心を悲しく、優しく締め付ける。
どれ程の深い想いがそこにあるのか。
ただ、見ているだけの私には分からなかった。
居たたまれなくなり、外した視線の先に一羽の白い蝶が現れた。
微かな空気の流れに押され、フラフラと力無く、漂うように飛んでいる。
蝶は時間をかけて彼の肩の上に辿り着くと、そのまま動きを止めた。
僅かに光るその存在に彼は気付かない。
私は、それをが何かを知りながら見ている。
体は動かない。声も出ない。
ただ、それを見せられている。
今にも消えてしまいそうな頼りない存在は、不意に強く吹き付けた風に耐える事無く、青年の前にふわりと舞い落ちた。
儚い光が消え、白いその身を横たえた蝶を見つけた彼の表情は分からない。
ただ、そっと手で掬い上げた。
その時ふっと、月が雲間から顔を出し、白く辺りを照らす光が朧気だった彼の輪郭を柔らかくなぞった。
私はその姿を、彼を知っていた。
私がまだ私ではない、記憶とも呼べない遠い昔の感覚の中に彼が居た。
私は彼の友人であったのだろうか。
全ては分からない。
ただ。
最後の瞬間は憶えている。

身分違いの恋など認められなかった時代。
二人の関係は屋敷で働いていた私が運ぶ文だけが知っていた。
家人の目を盗み、そっと届けた瞬間の二人の幸せそうな顔を見るのが好きだった。
ある日、彼女がいつもの様に私に文を託しながら、これが最後だと言った。
『……そこで待っていると伝えて』
泣きそうな顔で微かな声を絞り出し、そう耳打ちする。
誰かが言っていた目出度い話が来たという言葉を思い出し、彼女の覚悟に気付く。
私はその文を懐にしまい、彼の元へと急いだ。
……付けられている事に気付かないまま。

待ち合わせの丘の上に彼は居た。何時もの様に少しそわそわしながら。
こちらに気付き、周りの空気を和らげる彼の笑顔に心の奥が痛む。
彼はまだ彼女の覚悟を知らない。
この時間が最後だという事も。
私は託された思いをもう一度握り締め、足を急がせる。
その時突然、彼の表情が強張り、私に向かって何か叫んだように見えた。
同時に背中に酷く熱い衝撃が走り、自分の意思と関係なく体が崩れ落ちていった。
そして。
私の意識はそこで永遠に途絶えた。
最後に目に写ったのは、此方へ駆けてくる彼とその後ろで反射する刃だった。
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