第1話
文字数 1,994文字
「だから、私は何も知らないって言ってるじゃないですか! 捏造ですよ、こんなもの!」
「でも、これだけしっかり顔が映っちゃってるからね……俳優はイメージが何より大切だっていつも言ってるでしょ?」
机の上の写真の中から一枚を取り上げ、社長はため息をつく。
数日前に事務所に送りつけられたそれは、私らしき人物を隠し撮りしたものだった。
私だ、と断言できないのは、その写真の場面にちっとも心当たりがないからである。
そこに映っている私は歯を剥き出しにし、目を嗜虐的に歪ませた恐ろしい表情をしている。何よりも目を引くのは、どす黒く顔の半分以上を染めている血だ。今まさに振り下ろされようとしているかのように高々と掲げられたビール瓶も写っている。
引き延ばして街中に飾れば、暴力犯罪防止に一役買いそうなほどの凶悪さだった。
「本当かどうかはともかく、出回っちゃった時点でもう評判はがた落ちなんだよ」
「で、でも、場所も被害者すらも分からないこんな写真で……!」
「そうなんだよね……スキャンダルなんて過激なストーリーが一番の売り物なのに、写真だけが話題になるなんて聞いたこともないよ。本当に心当たりはないの?」
「何度もそう言ってます!」
「残念。これだけの写真家ならすぐにでも仕事を依頼するのに」
と、社長はまんざらでもなさそうに写真を机に置く。
「とにかく、週刊誌相手の訴訟は進めてるから安心してよ。君はゆっくり休んでて」
「……結局は謹慎処分というわけですか」
「まあまあ、ちょっと遅めの夏休みだと思ってさ……大丈夫、みんなすぐに飽きるって」
黙り込む私に構わず、話は終わったとばかりに社長は席を立った。
*
決まっていた仕事はすべて延期になり、私が出演するはずの秋の新作ドラマにはいけすかない新人が出ることになった。
いつまでたっても事務所から謹慎解除の連絡は来ない。匿名の脅迫めいたメッセージだけは山のようにやってくるのに。
自宅に閉じ込められてから、どのくらいの時間がたったかもわからなくなってきた。髪の毛がずいぶん伸びてしまったので、これでは人前に出ることもできない。
しかし逆に言えば、この格好なら私だと気づく人間もいないのではないだろうか? そうだ、こんなにみすぼらしく、薄汚く、不摂生によってやつれた姿を、誰が話題の人気俳優だと思うだろう?
ふらふらと立ち上がって外へと続く扉を開けると、途端に飛び込んできた針の様な光に思わず目を閉じてしまう。すっかり時間の感覚を忘れていたが、今はどうやら昼間らしい。
扉に体重をかけて押し開ける。その途端に浴びせられるフラッシュや、人々からの罵声。想像していたようなことは何も起こらなかった。午後の柔らかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ時、私は香ばしい匂いに気が付いた。
そうだ、この近くには小さなパン屋があった。そこで焼き立てのパンを買い、公園にでも座って食べたらどんなに気持ちがいいだろう。
*
私が顔を伏せながら購入したのは、小さなクロワッサンだ。小さな公園の中、芝生の隅に腰を下ろしてさっそくかぶりつく。焼き立てのパンの食感は、引きこもりの通販生活では決して得られない悦楽だ。
「やだ、何あれ」
「うわキモ、ってか野人?」
遠くで誰かが話しているのが聞こえる。心配するな。何も悪いことをしてるわけじゃないんだ。
「あれさ……じゃない?」
「マジで? ……あー、確かにそれっぽい」
手のひらに嫌な汗が出てくる。大丈夫だ。私がここにいることに、何の問題があるって言うんだ?
それでも、声はだんだんと近づいてくる。
「なんか食ってるし」「え、どこどこ?」「逮捕されたんじゃなかったっけ」「犯罪者がなんでここにいるの」「俺も見たいんだけど」「いや、近寄らないほうがいいって」「通報したほうがいいんじゃない?」
ざわめきはだんだん大きくなる。もう駄目だ、気づかれてしまう前に逃げなければ。
急いで残りのパンを口に詰め込もうとした瞬間、側頭部に殴られたような衝撃を受けた。
「お、命中!」
続いて笑い声がさざ波のように響く。投げつけられたのは、ビールの空き瓶だ。こめかみから生暖かい血が流れだし、土に落ちた私のクロワッサンをゆっくりと汚した。
いったい私が何をしたというのだろう? どうしてこんな目に合わなければならないのだろう?
笑い声はやまない。輪唱のように重なり合い、とめどなく頭の中へ染みこんでくる。
私は何を手に持っているかも考えず、彼らのもとへ歩き出した。この笑い声がやめば、きっと自由になれる。そうなったら、どんなに幸せだろうか。私はそれを想像し、思わず微笑みを浮かべてしまう。
生ぬるく濡れる耳のすぐそばで、嘲笑うようにシャッターの音が聞こえた。
「でも、これだけしっかり顔が映っちゃってるからね……俳優はイメージが何より大切だっていつも言ってるでしょ?」
机の上の写真の中から一枚を取り上げ、社長はため息をつく。
数日前に事務所に送りつけられたそれは、私らしき人物を隠し撮りしたものだった。
私だ、と断言できないのは、その写真の場面にちっとも心当たりがないからである。
そこに映っている私は歯を剥き出しにし、目を嗜虐的に歪ませた恐ろしい表情をしている。何よりも目を引くのは、どす黒く顔の半分以上を染めている血だ。今まさに振り下ろされようとしているかのように高々と掲げられたビール瓶も写っている。
引き延ばして街中に飾れば、暴力犯罪防止に一役買いそうなほどの凶悪さだった。
「本当かどうかはともかく、出回っちゃった時点でもう評判はがた落ちなんだよ」
「で、でも、場所も被害者すらも分からないこんな写真で……!」
「そうなんだよね……スキャンダルなんて過激なストーリーが一番の売り物なのに、写真だけが話題になるなんて聞いたこともないよ。本当に心当たりはないの?」
「何度もそう言ってます!」
「残念。これだけの写真家ならすぐにでも仕事を依頼するのに」
と、社長はまんざらでもなさそうに写真を机に置く。
「とにかく、週刊誌相手の訴訟は進めてるから安心してよ。君はゆっくり休んでて」
「……結局は謹慎処分というわけですか」
「まあまあ、ちょっと遅めの夏休みだと思ってさ……大丈夫、みんなすぐに飽きるって」
黙り込む私に構わず、話は終わったとばかりに社長は席を立った。
*
決まっていた仕事はすべて延期になり、私が出演するはずの秋の新作ドラマにはいけすかない新人が出ることになった。
いつまでたっても事務所から謹慎解除の連絡は来ない。匿名の脅迫めいたメッセージだけは山のようにやってくるのに。
自宅に閉じ込められてから、どのくらいの時間がたったかもわからなくなってきた。髪の毛がずいぶん伸びてしまったので、これでは人前に出ることもできない。
しかし逆に言えば、この格好なら私だと気づく人間もいないのではないだろうか? そうだ、こんなにみすぼらしく、薄汚く、不摂生によってやつれた姿を、誰が話題の人気俳優だと思うだろう?
ふらふらと立ち上がって外へと続く扉を開けると、途端に飛び込んできた針の様な光に思わず目を閉じてしまう。すっかり時間の感覚を忘れていたが、今はどうやら昼間らしい。
扉に体重をかけて押し開ける。その途端に浴びせられるフラッシュや、人々からの罵声。想像していたようなことは何も起こらなかった。午後の柔らかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ時、私は香ばしい匂いに気が付いた。
そうだ、この近くには小さなパン屋があった。そこで焼き立てのパンを買い、公園にでも座って食べたらどんなに気持ちがいいだろう。
*
私が顔を伏せながら購入したのは、小さなクロワッサンだ。小さな公園の中、芝生の隅に腰を下ろしてさっそくかぶりつく。焼き立てのパンの食感は、引きこもりの通販生活では決して得られない悦楽だ。
「やだ、何あれ」
「うわキモ、ってか野人?」
遠くで誰かが話しているのが聞こえる。心配するな。何も悪いことをしてるわけじゃないんだ。
「あれさ……じゃない?」
「マジで? ……あー、確かにそれっぽい」
手のひらに嫌な汗が出てくる。大丈夫だ。私がここにいることに、何の問題があるって言うんだ?
それでも、声はだんだんと近づいてくる。
「なんか食ってるし」「え、どこどこ?」「逮捕されたんじゃなかったっけ」「犯罪者がなんでここにいるの」「俺も見たいんだけど」「いや、近寄らないほうがいいって」「通報したほうがいいんじゃない?」
ざわめきはだんだん大きくなる。もう駄目だ、気づかれてしまう前に逃げなければ。
急いで残りのパンを口に詰め込もうとした瞬間、側頭部に殴られたような衝撃を受けた。
「お、命中!」
続いて笑い声がさざ波のように響く。投げつけられたのは、ビールの空き瓶だ。こめかみから生暖かい血が流れだし、土に落ちた私のクロワッサンをゆっくりと汚した。
いったい私が何をしたというのだろう? どうしてこんな目に合わなければならないのだろう?
笑い声はやまない。輪唱のように重なり合い、とめどなく頭の中へ染みこんでくる。
私は何を手に持っているかも考えず、彼らのもとへ歩き出した。この笑い声がやめば、きっと自由になれる。そうなったら、どんなに幸せだろうか。私はそれを想像し、思わず微笑みを浮かべてしまう。
生ぬるく濡れる耳のすぐそばで、嘲笑うようにシャッターの音が聞こえた。