第三話 悲痛なる叫び

文字数 2,023文字

 今日もまた、結理恵が泣いている。
 ベッドの上に座り、うつむいて肩を震わせている。長い髪にさえぎられて表情を伺う事ができないが、窓からの風が髪を揺らした時、隙間から頬を伝う涙が光った。病室に差し込む柔らかな陽の光の中、結理恵は泣き続けている。
 春一番にはまだ早いというのに、今日はやけに風が暖かい。明日にはまた、寒さが戻ってくるはずだ。病室の窓からは、ソメイヨシノの老木が見える。二ヶ月もたてば、この大木も桜色に染まるだろう。満開の桜を見て、悲しみに沈む気持ちも和らいでくれれば良いと思う。

 一ヶ月前、結理恵は左手の手術を受けた。白蝋化の進行を食い止めるため、手首から先の切除を行った。
 結理恵にとって左手を失うという事は、ジュエリー職人としての生き方を失うという事だ。手術前に、「クラフトは無理でも、デザインで生きていけるもん。まだ右手があるんだし」なんて言っていたけど、十年以上修行を積んだ職人の道をあきらめるのだから、簡単には受け入れられるような事ではないのだと思う。

 手術の後、包帯で巻かれた手首を、かつて左手が在った場所を、結理恵は何も言わずに見つめていた。寂しそうに表情が曇っていたけど、それでも泣く事はなかった。泣けば気持ちが折れてしまう……そんな風に思って耐えていたんじゃないか思う。何日もかけて、少しづつ失くした左手の事を受け入れていった。
「早く仕事に戻りたいな。ちゃんとデザイン、できるかな……」
「焦らなくたって。ゆっくりで良いんじゃないの?」
「オーダーのデザイン、テルミさんがやってるんでしょ? いいなぁ、早く私も復帰して、たくさんデザインしたい」
「最近お客さんが増えてきてるから、復帰する頃は忙しいかもよ?」
「忙しい方がいいわ。ここに居ると暇だから、余計なことばかり考えちゃうのよね。本当、早く仕事に戻りたい……」
 手術後の経過が良かった事もあり、結理恵は何度も仕事への復帰を口にするようになった。右手の白蝋化に気づいたのは、こんな風に元気を取り戻した矢先の事だった。今まで異常の無かった右手にも、白蝋化の兆候が見える。そして左手の包帯の下で白蝋化が再発している事が判った時には、結理恵はひどく取り乱した。悲鳴をあげながら枕を掴んで、壁に投げつけた。そして「どうしてなの!」と叫びながら、握りしめた右の拳を何度もベッドに打ち付けた。こんな結理恵を見るのは初めてだったから驚いてしまい、ただただ狼狽える事しかできなかった。

 今日もまた、結理恵が泣いている。
 少しだけ蝋に変わった、右手の指先を見つめて泣き続けている。今はまだ、手荒れの様にも見える。だけどボク達は知っている。左手を見てきたボク達は、これが白蝋化なのだと知っている。左手は、進行を食い止めるために切除された。右手もまた、切除しなければならないのだろうか。今ならまだ、指の切除だけで済むのかもしれない。いや、左手の白蝋化は、再発したのだ。包帯の下の皮膚は、再び白蝋に変わりつつある。もしかすると指を切除しても、進行は止まらないのかもしれない。
 医師たちはきっと、「再発の可能性がありますが、どうしますか」と問いかけてくるだろう。結理恵は、どんな決断を下すだろうか。「できる限りの事はしたいんです。切って下さい」と言うだろうか。それとも、「もうこれ以上、切らないで下さい」と言うだろうか。

 泣き続ける結理恵の肩を抱き、そっと声をかける。
「大丈夫。大丈夫だから」
 ポンポンと肩を叩きながら、何度も何度も繰り返す。我ながら、こんな状況で「何が大丈夫なんだ」と思うけど、もしかすると結理恵だって同じように思っているのかもしれないけど、他にかけるべき言葉が見つからない。
「なんで右手まで、蝋になっちゃうんだろう」
 力なく結理恵が問いかける。
「なんで左手切ったのに、また再発するんだろう」
 言葉が見つからないボクは、優しく肩を抱いて応える。
「切っても切っても、きっとまた再発するよね。蝋になるの、止まらないのかな。手だけじゃなくて、腕全体が蝋になっちゃうのかな。もしかして、脚も蝋になったりするのかな。もしかして、全身が蝋になって死んじゃうのかな……。いやだな、死にたくない。死ぬの嫌だな。なんで私が死ななくちゃいけないの? なんで私なの? カズくん、死にたくないよ。死にたくない。やりたい事、まだまだ沢山あるのに。カズくんと結婚したいし、カズくんの子供だって欲しいし、仕事だって新しいブランド立ち上げたばっかりだし。まだデザインだってしたいし、ジュエリーだって造りたい。後どれ位の時間、生きていられるのかな……いや、死ぬ前提になってるけど、治ったりしないのかな。無理かな、治るの。せめて蝋になるの、止まったりしないのかな。死ぬのだけは嫌だな。カズくん、死にたくないよ……」
 あふれ出す悲痛な叫びに何も応えられず、ただただ肩を抱いて共に涙を流す事しかできなかった。

(つづく)
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