初夏の花嫁

文字数 1,985文字

 おさがしものですか。
 投げかけられた呪いの言葉にぞっとする。黒いブラウスにロゴ入りのショートエプロンを巻いた若い店員が、わたしの前に立ちはだかる。
 表参道。十三時半。明治通りからはずれた裏路地にある石鹸専門店は、先週オープンしたばかりで賑わいを覗かせていた。店内はカントリー調に統一され、中央に積まれた切り株のオブジェが陳列棚の役目を果たしている。
「肌トラブルに合った商品を多数用意しております。お気軽にお申しつけください」
 ネームバッジに『おぐら』と書いたその人は職務に忠実な様子で辛抱強くこちらの出方を窺っている。わたしからすれば彼女こそがトラブルなのだけど、スマートな躱し文句も悪態も出てこないので愛想笑いに留めておく。
 昔から近づいて来る店員が苦手だった。急かされているような、鼻で笑われているような威圧感を覚えてしまうからだ。売り上げのためということを充分に理解していても、だめなものはだめだった。来店者を決して逃さない彼女らは生粋のハンターで、気弱なわたしは狩られるだけの羊でしかない。
「どういったものをお求めでしょうか」
 三十年間寄り添い続けた人見知りが喉を絞めつける。頬が熱いのは空調のせいだけではないだろう。膝裏に何かが染みて、引っ張られるように背筋が伸びる。せめて知人を誘えばよかったと居た堪れなさから目を逸らす。
「お客様?」
「あっ、いえ……えと」
 取り繕う声さえ弱々しい。だって家のボディソープは新しくしたばかりだし、シャンプー類はまだ残っている。ガラスボウルいっぱいに盛られた泡にほかの女の子たちが諸手を叩いて跳ねまわる。見渡してみればよそ行きに着飾った若い子ばかりだ。華やかな外観に惹かれたはいいものの、わたしなんかが来てはいけない店だったのかもしれない。
「でしたらお勧めの商品をご案内してもよろしいでしょうか」
 おぐらさんはにこりと笑うとわたしをレジ脇の小さな流し場に連れて行った。白と褐色のタイルを敷き詰めた流し場にはさまざまなサンプル品が並び、デパートみたいな香りが漂っている。足もとにはブリキバケツが重ねて置いてあり、これではいよいよ逃げられない。おぐらさんはチューリップ型の固形石鹸を選び取ると水を加えて泡立て始めた。
「お手を失礼いたします」
「あ、はあ」
 招かれるままに右手を伸ばしてから、わたしははっと身を竦ませた。失敗した。無駄毛を剃り忘れている。冬が訪れるたびにくり返すひび割れは皺になっていて、爪だってがたがただ。おぐらさんの手はふっくらと整っているのに。なんてみっともないんだろう。一度した後悔がのしかかる。
「こちら、季節の変わり目に不安定になりがちなお肌をケアできる商品としてご好評いただいております。スクラブを配合しているので古い角質を優しくオフできますし、洗い上がりもしっとりですよ。砕いてお湯に入れればバスバブルとしてお楽しみいただけます」
 おぐらさんは細い眉ひとつ動かさずによくわからない呪文を唱えている。わたしの手の甲を宝物にするみたいにそっと撫で、そうかと思えば掌や指のつけ根を強く押した。関節に滞っている皮膚を揉み解し、何度も泡をすべらせる。手洗いというよりもマッサージに近い。
「流しますね」
 丁寧に洗い流し、ペーパータオルで拭かれた右手にクリームがすり込まれる。触ってみてくださいと解放された掌は張りとすべらかさを取り戻していて、私は執拗にそこを撫でまわした。肌のトーンも一段階上がったような気がする。
「すごい、全然、違いますね」
「ありがとうございます」
 前歯を覗かせるおぐらさん。わたしはまじまじと彼女を見た。二十代前半くらいだろうか。凛とした容貌ははにかむだけで幼く崩れ、白い歯の隙間に緑色の異物が貼りついている。
「あ、あの、これにします。ください」
「え、よろしいのですか」
 おぐらさんは驚いた表情を見せ、慌ただしくレジへとまわっていった。心臓がどきどきと高鳴っている。これ以上はこちらの身が持たない。
「お買い物袋はご利用ですか」
「あ、はい、お願いします」
 リボンが持ち手の紙袋に新しい石鹸を入れて銀色のトレイを前に出す。千二百円。石鹸にしては手痛い出費だ。
「出口までお運びいたします」
 結構です。喉までせり上がった断りは、やはり表に出すことはできなかった。品定めに勤しむ女の子たちの傍をすり抜けて出入り口に立つ。
 ありがとうございました。背中に視線を感じながら店を出た。歩くたびに紙袋の中で石鹸が動いていた。
 おぐらさんのことを考える。あんなにも綺麗な顔をしているのに、ほかの店員たちは誰も彼女に教えなかったのだろうか。貼りついた海苔のこと。完全ではないことを。
 体はまだ火照っている。いつかまたあの店に寄ろう。おぐらさんの前歯を思えば悪くはなかった。彼女がいて、店が潰れていなければの話だけれど。
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