第1話

文字数 3,248文字

 コンビニ前の道路に、彼女のさえずりが落ちていた。
 子供が路面に白墨で大きく描いたように、それは道路のアスファルトに不確かな描線で書かれて、私の足下にあった。
 出勤途中に唐突に、それを偶然見つけた私は、それが彼女のさえずりだと気がつくと、まるで高額紙幣が落ちているのでも見つけたかのようにそのそばにしゃがみこんだ。
 そのさえずりは、彼女が飼っている熱帯魚に関するものだった。五十字にも満たない。写真がついている。ひとつの水槽に、三匹の同じ種類の熱帯魚を入れている。鱗が虹色の魚だ。
 彼女は会社ではプライベートな事柄はあまり話さない。堅物というほどでもないが、軽薄でもない。ごく常識的な女性社員の立場を弁えている。
 だが会社の外では、彼女はそういった事柄も割とフランクに語る。気心の知れたひとたちと、彼等専用の車両に乗ったときは。
 彼女は普段、さえずりに鍵をかけている。
 私は以前、そこに入るための鍵を持っていた。彼女から許され、その鍵を持っていた。社内でその鍵を持っていたのはごくわずかな人間だけだった。鍵のかかった彼女の扉の場所を知っている者自体がそもそも少なかった。
 そんな彼女のさえずりがなぜこんなところで開かれているのか。たまたま、何かの手違いで扉が開いたり、鍵をかけ忘れたのだろうか。
 彼女が自身の迂闊さにいつ気づき、いつまた鍵がかかるかわからない。私は道路に四つ這いになり、ざらついたアスファルトを指でなぞる。さえずりに、コメントが十五件くらいついている。
 手品師に似た手つきで私がさえずりの下辺をなぞると、その十五件のコメントが開いた。彼女のさえずりの下に、線路が伸びるように、コメントが道路上に次々開いていく。私は四つ這いの恰好のまま、後ろに退りながらそれを一件ずつ読んでいく。舐めるように読み、彼女の友人知人の感想のそのなかから、彼女の現在の生活の臭いを嗅ぎ取ることができないか確かめる。
 彼女は二年前、〈遠い町〉に引っ越していった。支社に転勤になったのだ、彼女の恋人である男ともども。彼の転勤がまず先に決まり、それについていく形で彼女も同じ支社への転勤を願い出た。そして彼女は私の前から消えた。〈遠い町〉は私にとって異国も同然の土地だった。おそらく一生、訪れることはあるまい。旅行で行くような場所でもない。〈遠い町〉に行ってしまった彼女は、もはや私にとって、死んだ人間と変わりない。生きていようと死んでいようと変わりはない。私の錆びついた日常の窓からは見えない存在になってしまった。
 そう割り切ってこの二年、過ごしてきたのだけれど。ほとんど彼女のことを思い出す機会もなく、かつて彼女とともに働いたオフィスで毎日仕事をした。
 それが今朝、いまこのとき、こんなところに彼女のさえずりが私の前に現れた。
 未練などなかったつもりでも、私はそれを夢中になって読んでしまう。彼女の影を追ってしまう。
 春の陽射しに照らされたアスファルトに長く伸びたコメントを半分くらいまで読んだところで、私は気配を感じた。肩越しに後ろを振り返る。目を見開く。彼女がこちらに歩いてくる。
 彼女は会社に行くときのいつもの恰好で、センスのいい女性特有の空気をまとって、何事もない顔つきで歩いてくる。
 なぜここに彼女がいるのか。その疑問を感じると同時に、私は自分のいまの姿に気づく。道路に犬のような四つ這いで、彼女のさえずりを読み漁る自分。
 だが慌てて立ち上がる暇もなく、彼女が私の横を通り過ぎる。彼女は私のほうをまったく見向きもしない。私のことに気づいているのか、いないのか。一瞬、こちらを見たかもしれない。しかし微塵も表情を動かさなかった。それは関心のないものに対してとる態度であり、生活の何にも不満のない軽やかさに満ちた表情だった。
 立ち上がりかけた姿勢で私は、通り過ぎる彼女の背中に声をかける。振り向きも立ち止まりもしない彼女に追いつき、いくらかへりくだった声で話しかける。日帰りの出張か何かでこちらに戻ってきたのかだとか、彼女との会話の勘を取り戻そうとするかのように、そういったことを話す。彼女は私に一言も応えない。まるでこちらの声が聞こえていないかのようだった。生者にまとわりつく(かす)れた霊的存在か何かのように、存在の希薄な私は彼女に追いすがり、話しかけつづける。
 私たちは以前のように話せるはずだった。彼女と趣味が合うのは私のほうなのだ、彼ではなく。肉体的な魅力は彼のほうが優っていて、彼のほうが私より先に彼女と出会っていただけで、彼女と本や映画の話ができるのは私のほうなのだ。
 お互いの気持ちが通じ合っていたのは、間違いない。暗黙の共犯関係が、その島影がおぼろに水平線上にゆらめいていたのを、私たちはいつの頃からかずっと見ていた。お互いがその先にさらに一歩踏み出さなかったのは、彼女の恋人である彼が私たち二人と同じ職場にいたからにすぎない。私はそう考えている。決して独りよがりな思い込み、私だけの妄想ではない確信がある。
 しかし彼女は二年前、〈遠い町〉に行ってしまった。私の世界から去ってしまった。
 二年が経ち、また春が巡ってきて、彼女が私の前を歩く。いまから仕事に出かけるという歩調で、颯爽と街を歩く。
 駅に入り、ホームに上がる。彼女につづいて私がホームに上がると同時に、陽射しにきらめいた電車がすべりこんでくる。
 彼女は女性専用車両に乗った。声をかけそびれた私は仕方なく、そのとなりの車両に乗る。
 座席に腰を下ろし、息を吐く。安堵なのか、わずかな緊張なのか、自分の心がこれからなにか企んでいる気炎なのか。感情の広がりが捉えきれない。
 私たちはやり直せるかもしれない。まだ何も始まっていなかった二人の物語。それを今度こそ始められるかもしれない。きょう、この日から。
 となりの車両にいるはずの彼女のことを考える。そしてふと、車内がやけに空いていることに気づく。ラッシュの時間は過ぎているが、それにしても人が少ない。もしかして、きょうは祝日だっただろうか。
 と、そこで車内放送が流れ、私は会社と反対方向の電車に乗ってしまったことに気づく。気づいたが、私は座席から腰を浮かせることをしなかった。彼女と同じ電車に乗れたのなら、それがたとえ逆方向の、会社にもどこにも辿り着かない電車であっても別に構わなかった。入社以来一度も会社を休んだことのない私がきょう一日、彼女と街をさまよっても、それは許されるはずだった。彼の影はない。きょうここには、邪魔者はいない。
 電車が街から離れていく。のどかな春の陽射しが午前の車窓に差す。窓がすべて一瞬きらめき渡り、次の瞬間、カメラロールに変わる。あたたかい海辺。会社の保養所に皆で行ったときに携帯に撮った写真が、窓に並んで映る。磯釣りの真似事、バーベキュー、晴天と青い海、雑談に興じる彼女。記憶の補正がそれらを美しく映し出す。美しく私の目に映る。記憶の波は寄せて、返し、淡い水沫(みなわ)となり、消える。窓はまた、退屈な郊外の風景に戻る。
 ゆるく開いた膝の上に携帯を持った手を力なく置いたまま、私はその小さな端末の画面を点ける気が起きない。携帯を開けばきっと、私は知ることになってしまう。彼女が〈非常に遠い町〉に行ってしまったことをまたふたたび認めなければならなくなる。彼女の最後のさえずりが、彼女の家族によって代理で記されたこと。粛々と哀しい報告がなされたこと。それ以降の新しい羽ばたき、さえずりは永遠に更新されないことを、私はまたきっと確かめに行ってしまう。
 線路をたどるように彼女の過去のさえずりを遡っても、どこにも辿り着かず、私に向けられた最後の言葉も見つけることはできない。ガラスが割れて水がすべて流れ出した水槽には、共喰いをする虹色の魚の影はない。彼は塀の中で丹念に羽づくろいしている。
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