文字数 11,242文字

 吐かれた息が、視界を染める。
 脆弱に繰り返される呼吸音は、しかし石牢の中では、まるで餓えた獣のように荒々しく反響している。
 一糸まとわぬ姿で石畳の上に正坐させられている少女――そう、彼女はまだ年端もいかぬ年齢だった――の消耗は、だれの目にも明らかだった。無理もない、荒縄できつく縛められ、柱に括りつけられたまま、地下という屋内とはいえ、季節は冬、氷点下まで下がりそうな室温の中、もうどれだけの間、放置され続けていたのだろうか。彼女の意識からは、もはや飢餓感すら、消失していた。あるのはただ、圧倒的な肌寒さ。刃のような冷気は、身を縮ませ、(かた)く強張らせていないと、容易に彼女を刺し責める。苦悶に呻吟が、断続的に零れ落ちる。今や少女は、生死の危機に瀕していた。このままもう一昼夜すごしていたら、まず間違いなく生を終えていたであろう。
 だがしかし。
 実のところ、まだ始まってもいない(・・・・・・・・・・)のだ。
 彼女の、受けようとしている責め苦に比べたら、これはまだ、戯れのごときものであった。

「……どうじゃ、お雪」
 問う声は、項垂れた彼女のはるか上空で発せられ、曖昧模糊とした五感では、それが自分に向けられているということにさえ、暫時かのじょは、気づけずにいた。不意に、暴力的に、髪が摑まれた。そしてそのまま、少女――お雪は、強制的に上を向かされていた。
「…………、あ、」
 お、侍さま……、かろうじてそれだけを絞り出す。とたん、凄惨な痛みに、彼女は咽喉を詰まらせる。無警戒に吸い込んだ酸素が、彼女の肺胞を突き貫いたのだ。
 対して、吟味方(ぎんみがた)――取り調べの役人の男は、お雪を無表情で見つめていた。痛苦に顔を歪ませるお雪とは、まったく対照的であった。両のまなこ(・・・)からも、何の感慨も見いだせない。だがそれも、生来の性質ではなかった。男も、人並みの喜怒哀楽を感じる、普通の人間だった。――この仕事、隠れキリシタンの拷問役(・・・・・・・・・・・)に、任じられるまでは。
「決心はついたか?」
 問うても無駄であることは、いやというほど体験してきた。それでも吟味役は告げる。改宗の機会を差し伸べる。
「お前が棄教(ききょう)し、神を呪い、この絵を踏みさえすれば、解放されるのだぞ」
 憐れむような声音を作り、彼女の眼前に、一点の彫刻画を突きつけていた。
「…………」
 そこには、ひと組の母子(おやこ)が刻まれていた。微笑をたたえた、母と子。
 果たして、このたびも改宗は不発に終わっていた。白濁としたお雪の頭は、それを発火点に覚醒していた。弱々しく、ひと吹きで消えてしまいそうな理性の、命のともしびは、それ――聖母マリアと、キリストの彫刻画を燃料に、ふたたび(きら)めきを見せはじめていた。
「……わが主、わが父であられる神は、」
 お雪は語りはじめる。己の信仰心を。隠れキリシタンであることが発覚してしまい、結果こうして囚われ、死の淵に立たされているにもかかわらず、決して揺らぐことのない、大樹のようなそれを、彼女は朗々と紡ぎはじめる。
「たとえ人が、緋のような罪に染まっていても、それを雪のように白くされるお方です。ですのでもしわたしがここで、上辺だけでも信仰を棄てるそぶり(・・・)を見せたとしても、心をご覧になる父は、赦してくださるでしょう」
「おお。お雪、では――」
「――だからといって、わたしはそうはいたしません!」
 思いがけない言葉に、覚えず喜色を顕わした役人は、しかしすぐさま、彼女の一喝に()たれていた。
「原罪に囚われたわたしたちに、それでも救いの機会を、それも、かけがえのない、愛する独り子を地上に遣わし、苦しみの死を遂げさせることによって、(あがな)いの犠牲として差し出してくださった父に、たとえ形だけとはいえ、裏切るような真似は、わたしは絶対にいたしません!」
 ああ、男は心中で嘆息した。もう幾度となく目にした光景だ。改めて認識する。キリシタンの、その信仰心の(あつ)さのほどを。もはや、この童女が転ぶ(・・)――信仰を棄てることはあるまい、それを確信しながら、これから娘を責めなければならないのだ。徒労感と虚無感とに襲われる。今や無表情の仮面は、完全に剝がれ落ちていた。わが子と変わらぬ(よわい)の娘に、男は畏敬の念をいだく。死が、拷問が、恐くはないのか? ……いや、そんなはずはあるまい。そう、それ以上に、この者らは彼らの神に不興を買うことを、恐れているのだ。
(しかし、しかしこのままでは……。)
 そう男が“彼”の姿を脳裡に描き出すのと、
「笹山どの」
 粘り気のある声が、男の鼓膜を震わせたのは、ほとんど同時であった。
「!」
 危惧していたそれが、――“彼”が現われたことに、笹山と呼ばれた吟味役は、虚を衝かれていた。まだ、まだ三日の猶予があるはずだ。それまでに娘を転ばせて、この人面獣心の男の手に渡ってしまうのを、なんとしてでも阻止する算段であった。それがいったい、なぜ――。
「なぜこちらにおられる、黒鳥どの」
 心中の問いを、そのまま闖入者に叩きつける。動揺を悟られぬよう、ことさらに険のある声音を用いて。まだこの場の主導権、この娘の執行権は、自分にある、それを態度で示す。縄張りを荒らさせはしない、と。
「いえいえ、重々承知しておりますとも。わたしが呼ばれるのは三日後ですから、はい」
 慇懃無礼を体現したかのごとく、黒鳥という侍は下卑た媚び笑いを貼りつける。こいつも判っているのだ、笹山は、心中で毒づく。おれのちからでは、小娘ひとり、転ばせることが、できないのだと。
 生ぬるいのですよ(・・・・・・・・)あなたは(・・・・)
 視線が声高に告げていた。
「わたしも、後学のため、笹山どのの手練(しゅれん)を、拝見したく存じまして」
 目だけは挑発的なまま、黒鳥は心にもないことを(うた)う。真実、黒鳥は確信していた。幼娘(おさなむすめ)だろうと関係ない。信仰に、年齢の多寡(たか)は意味をなさないと。大の男だろうと、すこし脅しただけで簡単に転ぶ、そんな見せかけ(・・・・)だけの信仰心の持ち主もいれば、弱冠にも満たない若者が、金剛石より強固な、信仰心を持つこともあるのだ。
(さて、この娘は果たして、)
 どちらであるか、そう男は、吟味役の牽制も聞く耳持たず、縛られた少女の眼前まで歩を進めた。
(ほう――!)
 思わず感歎(かんたん)を洩らす。両のまなこ(まなこ)(きら)めく、明星(あかぼし)のような決意に照らされる。この娘も、またそうであったか。黒鳥は想起する。キリシタンの、受ける責め苦に対する、回答を。
 そう、彼らは、体を殺しても、魂を殺すことのできないものを、恐れないのだ。
(それはそれは。)
 蛇蝎のような目で、男は舌なめずりをする。彼にとって、むしろそれは、願ってもないことだった。そう、娘が三日、拷問に耐えれば、自分に役が回ってくるのだから。
 この少女を、壊してもよいという、お墨つきが。
 ……この侍――黒鳥が、一帯を治める領主の懐刀として重宝され、そして一方、共に働く同僚に忌み嫌われる要因となっていたのが、その尋常ならざる、残虐性であった。醜悪な面貌に小男と、彼自身の劣等感の裏返しからか、男は処刑人として、大へん優秀な人材だった。見せしめのために、なるだけ残虐に殺せというあるじ(・・・)の要求に、もっとも忠実に応えたのが、黒鳥だったのだ。村々の人々は、その名を耳に入れただけで、(おのの)(ふる)えた。ことに、そう、隠れキリシタンたちにとっては。彼らはまるで、現世に顕現した悪魔とばかりに、この男に恐怖していたのだった。
 その侍――黒鳥が、にたりと口を歪ませる。さて、味見(・・)くらいはしても構わぬだろう、と。
「のう、娘」
 腐臭の()じる息を吹きかけて、男はお雪に顔を近づける。額と額が、触れ合うほどに。
「……はい、お侍さま」
 (とお)に満たない娘であったお雪でも、眼前の男の放つ悪気は察知できたのか、応える声には警戒心が滲んでいた。一応の敬意は払ったものの、再び身を強張らせ、防御の姿勢を形作っていた。
 一方、そのような対応に慣れているのか、黒鳥は意に介さずに、少女と対峙する。笑い顔のまま、彼女に呪詛を吹きかける。お前の、母と姉のことなんだが、と。
「あの者らは――、」
 転んだ(・・・)ぞ、と。
「っ! 嘘ですっ!」
「それがな、嘘ではないのだよ。しかもな、それが、手遅れになってから(・・・・・・・・・)、なのだ」
 傍点を打ったかのように強調する男に、お雪は釣られてしまう。手遅れ、ですか、と鸚鵡返してしまう。その意味を図りかねて。
 そして少女は知らされてしまう、己の家族がたどった、凄惨きわまりない、末路についてを。
「わたしらのお殿さまはのう、それはそれは、大そう、民を想っていてな、それがたとえお前らのような、隠れキリシタンであっても、改宗の機会を、差し伸べてくれていらっしゃる。……だがそれにも、限度がある。それが、丸三日、という期間だ。その猶予期間に、己の過ちを認め、信仰を棄てれば、それで良し。すぐにでも元の生活に戻してやる。ゆえにその間の責めも、手心を加えられたものとなる」
 それを行なうのが、ほれ、このお方である、そう黒鳥は、先にこの場にいた笹山に、関心を向けさせる。
「笹山どのはのう、優しいぞ。なるたけお前らを、壊さずに、責めてくださるからのう」
「…………」
「民草はすべて、殿の所有物(もの)だからな」
 だがもし、殿のご寛大さにつけ込み、裏切ろうとする輩には――、ゆっくりと、言葉の一つひとつが脳細胞に沁み込むように、男は沈黙を用いる。続くせりふ(・・・)に、層倍の効果を付与させようと。
 じっ(・・)と、視線で娘を射抜く。男はこの瞬間がたまらなく好きだった。目の前の獲物の、その心が折れる瞬間が。気丈に振る舞う、哀れな人々の、その根幹に斧を揮い、拠り所としているもの――キリシタンにとって、たいていそれは信仰であった――が音を立てて倒伏するのを見るのが、愉悦の極みであった。
 くつくつと心中で笑みを立てる。耳をふさぐことも叶わず、目をそらすこともできない小さな娘に、悪意べったりの、呪詛を塗りつける。そのような不忠者には――、
 地獄が(・・・)待っているのだ(・・・・・・・)、と。
「お前の母はな、『吊るし責め』の刑であった。最初の三日は、こちらの笹山どのに、それはそれは丁寧に責められていてのう、あの時点で転べば、後遺症もなく家に戻ることができたのだが、愚かにも女はそうはしなかった。それでこちらに回されたわけだ。
 ……のう、娘。お前は、後ろ手に縛られただけで、躰が浮くほどに吊るされたらどうなるか、知っておるか? まずな、――肩が外れる。そして、肘、手首と、関節が次々と外れてな、そして重さに耐えきれず、筋や肉が、ぶちぶちと裂けるんだ」
 まあ、これは裂けやすいように切れ目を入れるからだがな、心中で付言する。……お雪の母の最期は、それはそれは酸鼻を極めたものだった。随伴していた役人たちが、あまりの惨状に顔を背向(そむ)けたほどに。苦しみが倍加するよう、足首に重石を結わえられ、吊るし責めにあった彼女。拷問が終わったときには、荒縄で吊るされていたのは、彼女の肩から上だけ(・・・・・・)だった。両腕を()がれ、天井ほどの高さから絶叫とともに落下して、娘の母は失血死していた。それはまさに、地獄と形容するのにふさわしいものであった。
「そしてお前の姉だがな、あの女は、『石責め』の刑であった。ほれ、想像してみろ、お前のような石畳の上ではない。こうぎざぎざ(・・・・)の木の上に坐らせてな、それだけでも相当な苦痛なのだが、そのもも(・・)の上にこんな重い石を載せて責めるのだ。その痛みたるや、尋常ではないぞ。この責め具を見るだけで転ぶ者もおるくらいだからな。……それでも早くに折れていれば、日常生活に支障をきたすことはあるまい。回復すれば、普通に歩けるようになろう。
 ――だがお前の姉は、頑として折れなかった。そしてまた、わたしの出番だ。わたしも本意ではないのだが、まあ、仕事は仕事だ。罪は罰せねばならぬからな」
 言って、黒鳥は坐しているお雪の、もも(・・)(すね)の間に手のひらを差し入れる。
「ほれ、ここの間にもな、四隅が尖った、木材を何本も並べるのだ。そうするとどうなるか分かるか? ……そう、脛の側の脚は、両側から責められることになるのだ。ちょうど、獣の牙で咬まれたかのようにな。そしてしまいには、骨が砕け、歩くのも困難になってしまうのだ」
 ……実際は、そうなる前に姉は悶絶死していた。鋭利な角度のそれに脚を砕かれ、さらに60貫(およそ225キログラム)の石を抱かされ、劇痛に灼かれながら絶命していた。

 しかしこの両名――お雪の母と姉は、その実、転んでなどいなかった。死の鎌が咽喉もとに迫った際ですら、誰も呪うことなく、祈りを唱え、散っていたのだった。

 ……それを黒鳥は、お雪に(かく)す。虚言を用い、二人が信仰を棄てたと告げ、彼女を試そうとする。
「お前の母と姉は、今は屋敷の療養所で治療を受けている。二人とも、邪教を信じたせいでこのような目に遭わされたと、大そう悔いていたぞ。娘の、妹のお雪には、自分たちのような、悲惨な罰を受けずに済むようにとも、言っていたな。
 ……どうだ、お雪。ここはひとつ、肉親の言葉に耳を貸す、というものではなかろうか。そうすればすぐにでも、解放してやってもよいのだぞ」
 言いつつ、男はお雪の躰を撫でまわす。隣に吟味役がいる手前、己の欲望に忠実になることはなかったが、それでも内奥の度しがたい衝動はぐつぐつと煮えたぎり、この幼い娘の(やわ)い肌に、爪痕を残さんと欲する自分を、懸命に抑えなければならなかった。
「…………」
 温情のこもった――もちろん、それは表層だけのものであった――(いざな)いに、加えて、家族からの言葉といわれたそれに、お雪の(かた)い信仰は、試みられる。血液が通っていないかと錯覚(おも)われるほど低下していた躰に、黒鳥の手は、まるで救いのように温かかった。判断力が鈍化する。安らぎに、身をゆだねたくなる。……お雪は失念してしまっていた。悪魔サタンが、人を惑わすために、天使に擬装することもある、ということを。
 だが。
 だがそれでも。
「……お優しいお言葉、ありがとうございます」
 それでもお雪は、
「ですが、わたしは、父なる神に、この身を捧げ――献じました。もはやわたしのこの身は、わたしのものではありません。ゆえにわたしが、信仰を棄てることも、ありません」
 深々とこうべ(・・・)を垂れ、蛇の奸計を、退けたのだった。
「っ!」
 刺す痛みに、少女の顔が歪む。覚えず黒鳥が、彼女の幼肌に、爪を立てていたのだ。甘い言葉で(たぶら)かし、転んだ後に真実を告げ、絶望するさまを期待していた黒鳥は、お雪の強固な信仰に阻まれていた。思惑どおりにこと(・・)が進まず、苛立ちが無意識のうちに行動を起こさせていた。その事実――童女あいてに面目をつぶされたことに、男は表面を取り繕うのが精いっぱいであった。慌ててお雪から手を引き、もう片方の手で覆い隠す。心中の動揺を、悟られぬよう。
「そ、それは残念ですねぇ」
 つかえた(・・・・)声にも意気はない。荒らげて感情を露呈させぬよう、努めるあまり、弱々しく聞こえてしまう。それがまた、黒鳥の劣等感を、刺戟した。
(おれは、おれは何を――!)
 小娘に気圧されてしまった醜態を、怒りと憎しみで上塗りする。でしたら――、言い棄て、部屋の隅に片づけられていた、それ(・・)のもとへと、歩を進める。後悔させてやる、後悔させてやる、後悔させてやる――! ぐつぐつと煮えたぎった激憤が、男の残虐性を加速させていた。
これ(・・)を見て、後悔するが良い――!)
「あなたには、これ(・・)にまたがって、もらいましょうかねぇ」
 布で被われたそれ(・・)――、その拷問器具(・・・・)を、彼女に向けて、披露していた。
 ……それ(・・)には、動物の頸部のようなものが、つけられていた。奇妙にデフォルメされた、見る者の不安を煽るかのような、馬の顔。造形者が、そこまで意図したかは、定かではなかったが、これ(・・)に乗せられた者は皆、必ずこの顔を、悪夢に見た。それほど鮮烈に、被、拷問者の、心と躰に、これ(・・)は傷跡を残していた。
 一見すると、等身大の動物を模しただけのそれ(・・)は、だがしかし、またがる背の部分が、異なっていた。鋭く尖った騎乗部分は、明らかに乗る者を害するように、製作されていた。
 先端は、金属で被覆されている。またがる者の痛みを、層倍にするための工夫である。それだけではない、火であぶり、熱を加え、生身で接地させられている人々に、筆舌に尽くしがたい苦しみを、与えることも、できていた。
 そう、それ(・・)は、『三角木馬』であったのだ。
 ……責め具の胴体の木造部分、それは、変色の跡が、甚だしい。責めを受けた者たちの、血と汗と尿とが、芯の芯まで、沁みついていた。幻聴が、彼ら彼女らの断末魔が、静寂たる石牢に、響き渡っているようだ。そのおぞましい(・・・・・)『木馬責め』に、まだ(いとけな)いお雪も、かけられようとして、いたのだった。

「…………」
 お雪は、言葉を発しない。無言で木馬を、見つめている。まさか、これがどういう器具か、わからないのだろうか。理解、できないのだろうか。黒鳥は、(ほぞ)を嚙む。意気揚々と三角木馬を披露して、お雪を恐怖に沈めようとしたその目論見は、想定外の展開に、彼女が、無知ゆえに恐れることがなかったことにより、破綻していた。
(くっ、並の人間なら、これを目に入れただけで、倒れんばかりに恐怖するというのに――!)
 ……しかし、まあ、良いでしょう、彼は自分に言い聞かせる。どうせ笹山では、この娘を改宗させることは不可能だ。そのあと、いやというほど、地獄を見せてやる。泣いて、叫んで、苦しんで、もがけ(・・・)! 両足にちぎれんばかりの重しを吊るし、生きたまま(ふた)つに裂いてくれるわ! 粘度の高い欲望に、身をゆだねる。ずっと蔑まれ、疎まれ続けてきた彼の、圧倒的強者に浸れる瞬間が、そう、拷問を行なっている最中だった。赦しを乞い、命を乞うさまを、上から見下ろす快感は、彼には、何物にも替えがたいものだった。拷問官とは、まさしく彼の、天職であったのだ。
 一方、黒鳥に失格の烙印を捺された笹山は、何とか眼前の童女を救おうと、頭脳を働かせていた。彼は彼で、残忍な黒鳥に、資質なしと判断を下していた。あくまでも矯正の機会を差し伸べているつもりだった笹山にとって、一葉の慈悲すら持ち合わせていないこの男は、断じて許容できない存在であった。黒鳥に対し、憎悪に近い感情まで宿していたのである。
 そんな彼であったからこそ、己の手で転ばせることができず、処刑人である黒鳥に、断腸の念をいだきながら隠れキリシタンを引き渡すたびに、虚無感に苛まれていた。無力感は、頑として信仰を棄てない彼らへの、怒りに転嫁するしか、方法を知らなかった。なぜ、なぜお前たちは、そうも頑なに拒否をするのか。おれはお前たちを、救ってやりたいのだ。それなのに、それなのに――、と。
(せめて、せめてこの娘だけは!)
 それは、お雪の母と姉を、無残にも殺されてしまったことへの、罪滅ぼしだったのかもしれなかった。信仰に殉じた彼女たち。主君のために生き、主君のために死ぬことを当然と考えていた笹山たち侍にとって、隠れキリシタンの殉教は、決して理解できないものではなかった。むしろ、美事であるとすら、感じたこともあった。おれはこの者たちのように、果たして最期まで忠義を護ることが、できるのだろうか、自問したこともあった。彼自身は、吟味役という立場上、信仰をいだくことはなかった。だが立ち位置は、徐々に体制側から、彼らの側へと、ずれていった。おれは神など信じない、だが、だがそれでも、神を信じるこいつらの言うことなら、聞いてやっても構わない、それはまさしく、行ないによる、勝利であった。隠れキリシタンたちは、その命をもって、一人の男を、真理の道へと、進ませようとしていたのだった。
「のう、お雪」
 二たび男は、彼女の名を呼ぶ。このたびは、親愛の情を、(かく)そうともせずに。まるでわが子に訴えるような声音で、彼は折衷案を彼女に告げる。
「お前はまだ幼い。分別もつけられぬ娘に、この仕打ちは、あまりにも酷といえよう。ゆえにわたしが殿に、嘆願を申し出てもよい」
「笹山どの、何を――」
「黒鳥どのは黙っていよ」
 ぴしゃりと撥ね退け、吟味役であるはずの男は続ける。わたしはお前に、信仰を棄てよとは申さぬ。ただ、

 ただ、『神の指』について、知っていることを教えてはもらえぬか――。

 と。
「!」
 思いもかけぬ単語に、お雪は再起動する。茫漠だった意識は、瞬時に覚醒を果たす。
(なんで、なんで知っているのかしら?)
 混乱する。それは果たして、隠れキリシタンだけの間に秘匿された、機密のはずだった。……預言者たちが活躍していた地とは異なり、この桜樹(おうじゅ)の国では、まだ奇跡は、必要とされるものだった。言葉よりも雄弁に、人知を超えた現象は、人々の心を摑んでいた。お雪じしん、目の前で、見たのだ。何もない器の中から、雪のように美しい米が、涌いて溢れる、光景を。そう、この地に潜むキリシタンの、その信仰は、奇跡によって、裏打ちされていたのだ。なればこそ、類を見ない、強固な信仰をいだくまでに、至っていたのだった。
(あの方たちを、喪ってしまっては、いけない!)
 お雪は無礼を承知で、笹山から視線を切る。膝へと落とし、唇を結ぶ。何があっても、ひと言も発することがないようにと。……だが結局、彼女の努力は徒労に終わる。笹山の述べる言に、お雪は二たび上向かざるを得なくなっていたのだ。
「通称『神の指』。奇跡をおこなうちから(・・・)(そな)えた十種の神具に、選ばれた十人の者たちを指す、だったな。今現在、確認されているのは、『エリヤの器』――食物を、無尽蔵に生み出せるつぼ(・・)と、『モーセの杖』――水を操ることのできる杖だったか、それと対をなす、『アロンの杖』――植物を操ることのできる杖、それに、『キリストの外衣』、これは病を癒すことができるらしいのう、あとは、瞬時に移動できる神器や、なんでも死人を黄泉返らせるそれもあるとか。……さすがにそれは眉唾だが、お雪、どうだ、ほかに知っていることはないか?」
「…………」
 お雪は今や、その名のとおり、顔面を蒼白にさせていた。どこまで、どこまで知っているのからしら。このお侍さまは、肝腎のこと(・・・・・)は語らずにいたけど、本当に知らないのかしら。それともうっかりわたしが口を滑らすのを、待っているのかしら。……たしかに、彼女は知っていた。前述の神具はもとより、挙げられなかった残り五種も。(最後の一つは、『神の指』の面々をもってしても手がかりは摑めないのだそうだ。)しかし、問題はそこではない。問題は、そう、問題は、

 これら十種が揃ったとき、わたしたちの『国』が顕現するの――。

『アロンの杖』の所有者が言っていた、それであった。
(…………。)
 それがどのような形態を意味しているのかは、お雪には判らない。でも、お殿さまや、お侍さまたちにとって、ありがたい話ではない、ということは、理解できた。一揆みたいな、反乱を起こすつもりなのかしら、幼い彼女に、知るすべ(・・)は、ない。それでも、支配階級の人が、それを許すとは、思えなかった。
(もし、もしそれを知られたら……。)
 近隣一帯の村は、それこそ根絶やしにされてしまうかもしれない。信仰の有無に関係なく。それはもちろん、歓迎すべき事態では、なかった。
「ん、どうした? なんでもよい、どんな情報でもよい。知っていることを、教えてはくれまいか?」
 慈しみのこもった声音が、お雪の深奥を、揺り動かす。お雪も悟っていた、このお侍さまは、きっと悪い人ではないのだと。だからこそ、応えたくなっていた。父なる神を裏切ることは、絶対にしないと誓っていた彼女も、『神の指』についてなら、少しは情報を開示しても、大丈夫なのではと、考えを、改め始めていた。(それでも、謀反の恐れについては、避けなければと決めてはいたが。)それほど、小さな彼女の瞳には、彼らは、圧倒的な存在として、映っていた。奇跡を目の当たりとして、思わず、祈りを捧げてしまうところであった。それはダメよと、優しく諭されていた。感謝は、わたしたちではなく、ただひたすら、神に捧げなさい、柔らかく微笑んで、『エリヤの器』の所有者は、白米を、育てるだけで、決して口にできなかったそれを、こぼれんほどに渡してくれたのだった。
(あの方たちだったら、普通の人なんて、かなわないのではないかしら。)
 と、お雪のその葛藤は、
微温(ぬる)いですよ、笹山どの」
 すっかりかや(・・)の外に置かれていた、黒鳥の声で、霧散していた。
「これにまたがらせて(・・・・・・)しまえばよいのですよ。そうすれば、すぐにでも、口を割るに違いない」
 ばしばしと、三角木馬の腹を叩く黒鳥。苛立ちを(かく)すことも忘れていた。
 短絡的、かつ、挑発的な姿勢に、笹山も応戦する。つかつかと歩み寄り、舌戦を始めていた。
 お雪は、彼らに関心を払わない。いや、精確には違った、それらより、よほど注意を惹かれる事象に、釘づけとなっていたのである。
「やれやれ、うるさいねぇ、まったく」
 壮年の女性の声が、する。だがしかし、ここにはお雪と、あとは笹山と、黒鳥の、三人である。ほかには誰も、いない。そう、人間は(・・・)誰も(・・)
 そもそも、始まりから、齟齬が生じていた。お雪が三角木馬という、おぞましい拷問器具に、恐怖を示さなかったのには、理由があった。
 彼女の目には(・・・・・・)それは別のものとして(・・・・・・・・・・)映っていたのだ(・・・・・・・)
「……馬が、しゃべってるの?」
 洩らした呟きに、耳ざとく『それ』は反応する。耳をぴくりと動かして、大きな瞳で凝視する。そして、目を細める。まるで、値踏みするかのように。
「ほう、こんな小さな子供が、次の所有者とは、驚きだねぇ」
「しょ、ゆう、しゃ……?」
「なんだい、あたしのこと、ほかの『指』から、聞いていないのかい?」
(『指』?!)
 心臓が、跳ね上がる。その様を、じっと見たのち、『それ』はゆっくりと、言の葉を紡いでいた。

「あたしが『バラムの()ろば』だよ、お嬢ちゃん。……いいや、『神の指』」

 お雪のことを、そう言い表わした『それ』――『バラムの雌ろば』は、(しろ)い歯を剝き出しにして笑った。そしてそのまま、付言する。二度と馬とは、間違えないでおくれよ、と。
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