第一部 過去

文字数 2,542文字

 新緑が濃い森の中。木漏れ日がまだらに照らす道の先にレンガの壁の一軒家がある。その家を見据えて、クローネは毅然とした顔つきで立っていた。長い睫に切れ長の目。きりりと結ばれた唇。裾の長い黒衣を身にまとい、先端が渦巻いた長い杖を右手に握つ彼女は魔女だった。
 レンガの壁をじっくりと見つめながら、クローネは建物の周りをゆっくりと歩いて回った。大きな箱を寄せ集めてくっ付けたような建物は、箱の一つ一つが部屋である。どの方向から見ても同じ作りで、壁には扉も窓もない。魔法使いが隠れて暮らすための建築仕様だ。この壁のどこかに隠し扉があり、開閉の呪文を知っている魔女だけが出入りができる。
 目を閉じて赤茶色の壁に手を添えて、クローネは壁伝いに歩き始めた。意識を壁の向こうに集中する。瞼の裏に、小さな影がぼんやりと浮かび上がった。人にしてはかなりは小さい。探している者とは違うようだ。さらに歩いて探っていると、別の部屋の中に人影が浮かんで見えた。影は二人いる。一人は男で、もう一人は女のようだ。男は何かに腰かけており、女は部屋の中を歩いている。
 このまま黙って帰るべきかもしれない。再会してどうしようというのか。右手の杖を握りしめて、クローネはしばらく考えた。だが壁の向こうの女の気配が強くなると、そんな弱気は吹き飛んだ。ここで引くわけにはいかない。
 胸の高さに杖を持ち上げ、杖の先を見つめて呪文を唱えた。クローネの体がカッと熱くなり、長い黒髪が逆立った。ボワッという音がして、杖の先に赤い光の球が灯る。杖の先をくるくると回すと球は大きくなって、赤い光が眩しいほどに輝いた。
「ザシュルト!」
 杖を前方に突き出すと、先端から赤い光の球が放たれてレンガの壁にぶち当たった。ズガンと大きな地響きがして、ガラガラと壁が崩れる。建物のあちこちに大きな亀裂が入って細かな粉塵が舞い上がり、霧のように建物を包み込んだ。散らばったレンガの破片を踏みしめて、クローネは煙の中の建物へと入っていった。
 部屋の奥に男がうずくまっていた。倒れた椅子に手をかけて、ゆっくりと頭を振って顔を上げる。男が薄目を開けてクローネを見た。かつて彼女に優しい眼差しを送っていた男の瞳に、驚愕の色が浮かんだ。
「お、お前……!」
 慌てて立ち上がろうとして、男は尻もちをついた。右手を広げてクローネの方に向けて、来るなと言わんばかりに左右に振る。クローネは男の様子を黙って見つめていた。
「お前、どうしてここが!」
 久しぶりに聞く男の声に、クローネの鼓動が高鳴った。昔と変わらない声。何度も名前を呼んでくれた声。胸の奥に甘酸っぱい感情が芽生えたその時だった。
「イザベラ、大丈夫か!」
 男がクローネから視線を逸らして、建物の奥に向かって叫んだ。男の視線の先には、埃にまみれてよろめく女がいた。肩の高さで切りそろえられた髪はざんばらに乱れ、白い額に一筋の赤い血が滴っている。
「しっかりしろ、イザベラ!」
 男が立ち上がり、女の元へと駆け寄った。
「だ……大丈夫……あなたは……?」
 途切れ途切れに話す女に、クローネはカッと目を見開いた。
 男が女の肩をひしっと抱いた。女は男の胸に身を任せて、上遣いでクローネを見た。その口角がニヤリと上がったのを、クローネは見逃さなかった。腹の底から頭の先へと怒りが突き上げる。
「お前という女は!」
 顔を歪めてクローネが叫ぶと、四方の壁からいっせいに熱い炎が噴き出した。真っ赤な炎に建物が包まれ、室内に黒い煙が広がった。
「クローネ! やめろ!」
 叫びながらも男はイザベラの肩を離さない。
 二人に向かってクローネが一歩踏み出した時、彼女の胸を鋭い衝撃が貫いた。黒衣の胸元に裂け目ができて、熱した鉄の棒を押し付けられたような痛みを感じた。
 クローネに向けられたイザベラの右手の人差し指から、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっていた。クローネに向けてイザベラが一撃を放ったのだ。
「イザベラ!」
 右手の杖を差し向けて狙いをつけると、クローネはイザベラに向けて稲妻を放った。ビシビシッと雷鳴が響く。イザベラの額がビカッと輝き、体ごと後ろにひっくり返った。
「ああ!」
 男が慌てて抱きかかえたが、イザベラは頭をだらりと下げて動かない。
「来るな!」
 男がクローネを睨みつけた。男の刺すような視線に、クローネは体を固くした。男の視線はイザベラから受けた一撃よりも重くて苦しかった。
 脱力したイザベラを引きずって、男は建物の奥へと移動した。二人の姿が煙に霞んでいく。イザベラを抱いたまま男が奥の部屋に入るや否や、炎でいぶされた梁が天井からドサリと落ちて、部屋の入口を塞いだ。続いて奥から爆発音がして、部屋の壁がガラガラと崩れ落ちた。
 クローネは立ち尽くして呆然と炎を見つめていた。クローネの前からまた二人は消えてしまった。そして今度は永遠に。煙が沁みて目が潤む。これですべてはお終いだ。
 立ち去ろうと踵を返した時に、遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえた。じっと耳を澄ます。最初に小さな影を感じた部屋からのようだ。そちらにはまだ火は廻っていない。
 泣き声のする部屋へと駆けつけると、白いベビーベッドに小さな赤ん坊がいた。顏をくしゃくしゃにして泣く赤ん坊の首元には、見覚えのある星のペンダントがかけられていた。あの人がいつも身につけていたものだ。
 あの人とあの女の子供なのか。
 左手の人差し指を固く尖らせると、クローネは赤ん坊の首筋に狙いをつけた。首筋に指を突きたてようとすると、泣いている赤ん坊と目が合った。クローネを見た赤ん坊は泣きやんで、ふわりと花が開くように笑った。右の頬に小さなえくぼができた。
 クローネは息を呑んで、左手の動きを止めた。狙いをつけた人差し指をおろし、赤ん坊の背中に右手を差し入れてゆっくりと抱き上げた。赤ん坊は思ったよりも重かった。クローネは落とさないように両手で赤ん坊を抱きしめた。
 赤ん坊がクローネの胸に顔を埋めた。口を尖らせてむにゃむにゃと動かすと、静かな寝息をたて始めた。
 クローネは小さな体をぎゅっと抱きしめて、燃え盛る建物から連れ出した。
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