猫と銀河鉄道

文字数 1,983文字

 くしゃみをした拍子に、口から飛び出した白い毛の塊が、道を跳ねるように転がった——かと思ったら、四本の脚と尻尾を生やして、にゃあと鳴き、そのまま道端にあった「拾って下さい」と書かれた段ボールに入ってしまう。

 そこへ、襤褸(ぼろ)をまとったホームレスが近づいてきた。

「何だお前、拾って欲しいのか」

「違う。あれは僕じゃない」

 もしホームレスに拾われたとしても、拾われる前と何も変わらないな。そんなことを思ったとき、ホームレスが首からぶら下げている時計に目が止まった。(うち)にあった目覚まし時計によく似ていたからだ。

「駄目だよ。この時計はあげないよ。だって、この時計が鳴ったら、ママが銀河鉄道に乗って迎えに来てくれるんだから」

 ホームレスは大人のくせに、急に子どもみたいなことを言う。

 けれど、よく見ると時計の針は止まったままだったので「その時計はもう鳴らないよ」と教えてやると、ホームレスは今度は急に怒り出した。

「何てことを言うんだ。お前なんか、一生そこに入ってろ」

 そこに?

 気づけば僕は、段ボールの中にいた。「拾って下さい」と書かれた、あの段ボールだ。

 見ると、いつのまにかホームレスは消えていた。

 僕は段ボールの中で屈んで、足元で丸くなっていた白い猫を両手で持ち上げる。

 風が吹いた。すると手の中の猫は、まるでたんぽぽの綿毛のようにばらばらになって、風に乗って舞い上がり始めた。

 空高く舞う綿毛を羨ましく思いながら見上げていると、小さなつむじ風がやって来て、僕の周りでくるくると回り始める。次の瞬間には、つむじ風は綿毛たちごと僕の体を持ち上げて、僕はあっという間に雲の上まで飛ばされた。

 雲の上に浮かんでいると、そこにやって来たのは、黒い傘を差して、歩くように浮かんでいる紳士だった。

 紳士はポケットから一枚のチョコレートを取り出すと「お腹が空いただろう。その時計と交換しようじゃないか」と言う。

 時計?

 見ると、僕の首にはさっきのホームレスの時計がぶら下がっている。

「駄目だよ。この時計が鳴ったら、お母さんが迎えに来るんだから」

「嘘を言っちゃ駄目だ。その時計は止まったまんまじゃないか」

「嘘じゃない」

 すると紳士もまた、急に怒り始めた。

「くそっ。僕だってママに会いたいのに!」

 悪態を吐いた紳士は、チョコレートを雲の上に投げ捨てた。

 すると、もこもこした雲の隙間から沢山の蟻が湧いて出て来て(たか)り始め、チョコレートはたちまち蟻に覆われた。白かった雲もすっかり真っ黒だ。

「見ろ、お前はこの蟻と(おんな)じだ。こうしてやる!」

 紳士は駄々っ子のように蟻たちを蹴散らし始めた。

 無数の蟻が雨となって降り注ぐ。

 地上では道を歩く人たちが、次々と色とりどりの傘を開いた。蟻の雨が、それら全てを黒く塗りつぶしていく。

 ああ、世界はまた真っ黒になるんだ——。そう思ったとき、僕もまた蟻たちと一緒に地上へと降り落ち、気づけばまた、あの段ボールの中にいた。

 ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきて、すぐ本降りになった。

 のっぺりとした顔の母親らしき女性に手を引かれた女の子が歩いて来る。育ちの良さそうな女の子は、虹色の傘を差していた。この世界で彼女だけがカラフルだった。

「あなた、そんなところで何をしているの?」

「僕に分かるはずがないじゃないか」

「あら、そんな言い方をするものじゃなくってよ」

「ごめんなさい」

「まあ、いいわ。あなた、良い時計を持っているわね。わたしの傘と交換しなさい」

「駄目だよ。これは大事な時計だから」

「やっぱり、そうか。そうよね。でも残念だわ。わたしも乗ってみたかったのに」

「何を言っているんだい?」

「あらやだ。知らないの? その時計が零時を指したとき、銀河鉄道が現れるのよ。目覚ましのベルが発車の合図」

「嘘ばっかり。もし本当だとしても、止まった時計が零時を指すことはないよ」

「そんなことないわ。その針を合わせてしまえばいいだけだもの」

 そこまで言って、女の子はのっぺりとした女に連れ去られるかのように行ってしまった。

 僕は時計を手に取り、濡れた文字盤を手で拭う。落ちた雫が蟻に戻って、足元を這う。

 止まったままの針を指で回し、長針と短針を12の上で重ねると、最後に秒針もそこに重ね合わせた。

 カチッと音がして、秒針が進み始める。

 短い静寂のあと、空の彼方で汽笛が鳴った。

 見上げれば、暗黒の雲を切り裂いて、蒸気機関車が下りてくる。永遠みたいに長い客車を引いて。

 目の前に止まった客車の扉から、車掌の服を着た白い猫が現れた。

「やあ、久しぶり」

 随分と気安い猫だなと思って名札を見たら、昔、空き地で飼っていた猫と同じ名前だ。

「どこへ行きましょう?」

 猫の車掌が中へと(いざな)う。

「——お母さんのところに」

 僕の言葉と同時に、胸の目覚まし時計がベルを鳴らし、機関車も大きく汽笛を鳴らした。


 (おわり)
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