武流×駿2

文字数 4,236文字

「僕と武流みたいなのを、たぶん二律背反っていうんだ」
武流が卵を割る。かしゃっという、小気味のいい音がする。
その音は、今駿の目の前で武流が朝食を作ってくれているからそれだと分かるだけで、おそらく目を閉じていたり、どこか離れた場所で聞いたとしたら、きっと何の音だか分からない。
真っ暗闇の中で聞こえてこようものなら、一転して不気味なものに思うかもしれない。つまりは人間の五感なんてものはまったくあてにならなくて、多分な思い込みで成り立っているのだと思う。
「またずいぶんと難しいことを言うね」
かしゃかしゃかしゃ。武流の操る菜箸が、ステンレスボウルをかき混ぜる。次いで、すぐにじゅわ、と油の爆ぜる音がして、香ばしいにおいが部屋中に漂った。
「僕、片手で卵割れるんだ」
「ああ、そうなんだ。それって凄いの?」
「慣れれば誰にでもできることだから、別に凄くはないかな。でも自分で割れるようになりたいと思ってそうなったわけじゃない。気付けばできるようになってた。習慣って凄いよね」
今朝はスクランブルエッグでよかったよね?と駿に尋ねる武流は、すでに出勤用のスーツを着て髪型から爪先まで完璧にしている。
自分より遅く出る駿に朝食を作るために、武流はいつも駿より一時間は早く起きて、身支度を整えエプロンを着ける。
そのエプロンは武流と同居を始める際に駿が母親から貰い受けたもので、青地に黄色のチェック模様をしている。今ではすっかり武流専用となっているが、これがびっくりするほど似合っていない。
「はい、できた。パンは二枚で足りる?」
「うん、ありがとう」
「マーガリンは塗ってあるからね。他に欲しいものあったら冷蔵庫から出して食べな。ポットの中に珈琲入ってるからね。スープはレトルトになっちゃうけど、ごめんね」
「じゅうぶんだよ。いただきます」
「野菜も残さずにね。で、なんだっけ?」
二律背反だっけ?と反芻しながら、武流は外していた胸元のボタンを留め、ネクタイを締める。確か、今年度に入ってからもう何人かに食事に誘われていたよな、と武流のその仕草を見て思い出した。
武流は外見がとても良い。栗色の柔らかそうな髪に、鳶色をした優しい目。すらりとした長身でどんな服装でも難無く着こなし、性格も穏やかときている。こんな人間を周りが放っておくはずがなく、性別関わらずしょっちゅう誰かしらから声をかけられている。
それに対し、駿は未熟な学生の身分だ。一応今年で最終学年となっているが、武流と比べるとまだまだ子どもくささは抜けない。むしろ引き立ちさえするので、いっしょに暮らしているとはいえあまり連れ立って歩きたくはなかった。
だというのに、武流は駿のコンプレックスを知ってか知らずか、週末になると何かにつけ外出へと誘う。いっそのこと早くパートナーでも作って、自分のことはほうっておいてくれと思う。
「気にしないで。ただのひとりごと」
「ええ〜っ、そりゃないよ、気になるじゃない。どういう意味なのか教えてよ、駿と僕のことなんでしょ?」
「仕事に遅刻するよ武流」
「まだ余裕あるから大丈夫だもん。ねぇ何?二律背反って」
特別何か意図があって口にしたわけではなかった。ただ、今朝もまた武流から「僕と結婚したら扶養に入っていいよ」とさりげない求婚を受けたため、うんざりしてつい呟いただけだ。
今の学校を修了したら、院生になるか就職するかで少し迷っていると独りごちただけなのに、どうしてそこから結婚の話になるんだ。話が飛躍し過ぎている。
駿と向かい合わせになってこちらを見てくる武流の目は、やたら嬉しそうにキラキラとしている。そう期待されても、何も実の成る話ではないのだけれども。
「…例えばさ。ある企業が、作業効率を上げたいからって仕事に何らかの機械を導入するとするじゃん」
「うんうん」
「それで確かに作業のスピードや生産の出来高は上がるかもしれない。でも機械を導入したことによってそのぶんの採算をとらなきゃならなくなって、雇う人を増やして人件費を増やす。こういう、成り立っているようで矛盾しているふたつの事実のことを“二律背反”っていうらしい」
「へぇ〜、そうなんだ。駿は凄いね、どこで覚えたの?」
「昨日読んだ本」
「なるほど。やっぱり読書は大事だ。これまで知らなかったことをたくさん知れるものね」
いい具合に焼けたウインナーに、しっとりとした卵を絡める。振りかけられた胡椒も絶妙だ。見るからに食欲をそそる。武流が作るものは、なんでも美味しそうでちゃんとそのとおりに美味しい。
「でもさ、その二律背反がどうして、僕と駿になるの?」
「……えっとね、」
「ああ駄目だよ、プチトマト残そうとしてるでしょう。ちゃんと食べなきゃ」
「だって、プチトマトって歯で潰そうとするとぷちって弾けて好きじゃない。虫を食べてるみたいで不気味に感じる」
「虫って…止めてよ。でもそう言うと思ってほら、軽く炙ってあるだろう?食べてみなってジューシーで美味しいから」
トマト、特に小さいものを食べると、幼い頃何も考えずに手の中に閉じ込めたお腹の丸い蜘蛛を、弾みで潰してしまったときのことを思い出す。
口の中で赤い実が弾ける感覚と、あの独特な「プチッ」とした音がひどく似ていて、駿のトラウマを一瞬で呼び起こすのである。
けれど武流は、「栄養価が高いから」と言って特に野菜の食べ残しを許さず、なんとか食べやすいよう工夫をしてこうして駿に提供してくれる。
駿としても武流のその厚意を無碍にはできず、苦手なのは変わらないが毎回なんとか平らげていた。駿が文句を言いつつ皿を綺麗にすると、武流はことのほか嬉しそうに笑う。
「じゃあ朝から頑張ってトマト食べてくれたから、今夜は駿の好きなものを作ろうね。何がいい?」
「唐揚げ。柚子胡椒の味がするのがいい」
「ふふっ、了解。腕によりをかけるから楽しみにしてて」
カフスボタンをしっかりと留めたあとで、武流はようやく少しも似合っていない派手なエプロンを取った。
取ったそれを、丁寧に畳んで浴室のランドリーボックスに入れにいく。どうせ洗濯するのだろうに、そこまで丁重に扱うことないじゃないか、と胡乱に思う。
「駿、僕の唐揚げ大好きだものね」
「武流の作る唐揚げは、悔しいけど世界一美味しい」
「ほんと?やったぁ」
駿を見る武流は嬉しそうだった。綺麗な曲線を描く頬に赤みがさして、綻んだ顔で再び歩み寄って来る。
「毎日作ってあげるよ。駿が好きなものは、僕いつでもなんだってあげられるんだよ」
長い指が、駿の頬をそっと撫でた。武流の目がまるで、自分の子どもを見るように優しく緩んでいる。
嫌いではないけれども、駿の心にわずかに立つささくれが、いつも引っかかって邪魔をした。
その手を取れない。前に行けない。前に進んで挫ける可能性があるのなら、ずっとこのままのほうがいい。
「───だから、」
「武流、本当に遅刻する」
時計を指し、続くだろう先の言葉を遮った。
武流は不満そうに憮然としたが、本当にそろそろ出なければいけない時間なので渋々駿から離れる。
「悲しいなぁ…。最後まで言わせてもくれないの」
「その先は分かるし、僕の答えも決まってるからね」
「そんなの分からないじゃん。可能性がゼロか百かのことなんて、この世に滅多にあるわけじゃないもん」
皺のひとつもない上着を纏い、薄い鞄を持って武流は玄関に向かった。
そのあとを駿も着いていく。見送りと、駿のほうが帰宅が早い場合の出迎えは、欠かしたことがない日常のルーティンだ。
よく磨かれた黒のローファーを履き、武流は駿を振り返って「行ってきます」と微笑った。
特に落ち込んだ様子はない。それもこれも、ふたりのいつものことだから。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「ありがと。ねぇ今日、お夕飯の買い物いっしょに行かない?」
「僕のほうが早いだろうから帰りしなに買ってきておくよ。唐揚げの材料揃えればいい?」
「せっかくだからいっしょに行こうよ。すぐそこのスーパーでいいから」
マンションの斜向かいのスーパーは、武流が他よりも値段が高いと言って普段は寄り付かない店だ。
だからいつもは駅近くの素朴なスーパーで色々と調達をする。だというのに、今日はどういう風の吹き回しだろう。
「たまにはデート、しよう」
にこりと笑う武流は、どこからどう見ても完璧だ。
昔から武流は完璧だった。駿のことを見ていないときから。
───憧れ、だったのになぁ。
ただの買い物のどこがデートなの、と駿が訊けば、何が楽しいのか武流はますます笑って、「デートと思えば、そこがどこだろうとふたりにとってはデートじゃない」と言う。
「ね、行こうね。約束ね。帰る頃にメッセージ入れるから、アパートのエントランスまで出てきておいてね。待ち合わせしたい」
「はいはい、分かったよ仕方がないな」
「やったぁ。よっし頑張ろ。俄然やる気がみなぎってきた。特別な約束事があるって嬉しいね」
こんな些細なことで特別だと喜ぶほどには、飽きれるほどふたりでいっしょにいる。
これだけでもうじゅうぶんなのに、互いに望めばずっといっしょにいられるのに。
もうとっくに願いは叶っているはずなのに、今更これ以上を何故求めるのか?と、やはり駿には不思議で仕方がない。
(…だから“二律背反”だっていうんだよ)
元々手にしているものを恰も“無い”と見ないふりをして、更に欲しがるのは愚の骨頂だ。
そんなことをしてもしこの日常が壊れでもしたら、それこそ目も当てられないのに。
「…武流は馬鹿だなぁ。ほんと馬鹿」
「えっ、ひどい。駿相手なら馬鹿でもいいけど。行ってきます」
「…どさくさに紛れてキスするな!馬鹿っ!」
「いいじゃない~おでこにだもん。挨拶挨拶。あはは、じゃあね」
去っていく武流の足取りはとても軽い。浮足立っている。もう欲しいものはなんだって手に入れているくせに、毎日毎日なんだっていうんだ。馬鹿じゃないの。
───欲しがられているくらいでちょうどいいのだ。
そういう思考からいつまでも抜け出せないでいるけれど、どちらにしろ怖い。
進むのも、このまま立ち止まっているのも。本当は。
(……矛盾してるのはどっちだよ、)
打って変わって静かになる。
ひとりになった中で小さく舌打ちを鳴らすと、舌の裏にトマトの種が残っているのに気付いた。
飲み込むのも癪に思い、廊下を戻ってキッチンに向かう。
吐き出してしまおう、こんなもの。そうして夜には素知らぬ顔をして、肉汁の滴る唐揚げを存分にかっ喰らってやるのだ。
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