第1話

文字数 4,663文字

 石川県の名峰といえば、議論の余地なく加賀白山の名前が挙がる。
 八世紀に最澄が開山して以来、人の絶えることがない霊峰、それが白山だ。残雪のスノーハイクが楽しめる春、一面にお花畑の広がる夏、燃えるような紅葉の色彩が目に痛いほどの秋、そして真っ白に雪化粧する冬。白山は四季を通して登山者を喜ばせてくれる山である。
 このエッセイでは紀行文のかたちを借りて白山の魅力を存分にお伝えしたいと思う。

①ルート
 白山はさすがに日本三大霊峰と呼ばれるだけあって、多種多様なルートが存在する。日帰りなら福井県側の別当出合、もしくは岐阜県側の平瀬道あたりがよい。じっくりと歴史ある信仰の道を歩きたければ、岐阜県側の石徹白道か石川県側の加賀禅定道が候補に挙がるだろう(どちらもかなりの遠距離なので覚悟されたい)。
 このエッセイでは岐阜県側の平瀬道から西へ尾根を辿り、室堂を経由して白山登頂、さらに火口湖をめぐるお池巡りをこなして日帰りで平瀬道をピストンするロングコースをご紹介しよう。コースは以下を参照されたい。


②登場人物
 さてここまで〈日本百名山〉を著した深田久弥を意識して息の詰まりそうな格調高い文体でやってきたけれども、まったく性分ではないので以下の連中にバトンタッチしたい。

プロフェッサー:どうでもいいことに詳しいご老体。年一度は白山に詣でている白山通。以下「プロ」と表記。
香苗:前途洋々ないまどきの女子大生。プロフェッサーにそそのかされ、夏休みをつぶしてまで辺鄙な田舎へ。以下「香苗」と表記。

③白山に登ろう!
プロ「さあ着いたぞ香苗くん。どうだねこの原生林の豊かさは!」
香苗「朝食べたごはんが逆流してきそうです。なんですかあのくねくねした林道」
プロ「歩いてるうちによくなるさ。林道については大白川に沿ってつけられてるんだからしかたない。たいてい山岳道路というのは沢に沿ってつけられてるもんだ。標高を着実に上げる確実な方法だからね」
香苗(上の空で準備をしている)

プロ「登山口は標高1,300メートル。当分はこんな感じで樹林帯のなかを歩くよ」
香苗「真夏だってのに案外涼しいですね。影になってるのも助かります」
プロ「夏山は高峰に限るね。まちがって低山へいってみたまえ、二度と山になんか登るもんかって思うだろうね」
香苗「いまちょうどそう思ってたところです。いきなり急登すぎませんか」
プロ「平瀬道は短い割に標高差1,500メートルはあるからね。当分はこんなだよ」
香苗(信じられないといったようすで頭を振る)

香苗「わあ、なんですかあのエメラルドグリーンの湖は!」
プロ「白川湖だね。ダム建設で生まれた人工湖だ」
香苗「あんな鮮やかな色になるもんなんですね」

香苗「視界が開けましたね。漫画とかで見る登山道って感じです」
プロ「標高が上がってきて、樹木の背丈が低くなってるんだね」
香苗「風も涼しくてすがすがしいです」
プロ「このあたりの森林限界はだいたい2,500メートルくらいかな。よその山域に比べてずいぶん低い」
香苗(両手を広げて風を浴びながら)「森林限界って?」
プロ「その名の通り樹木の生育できる限界標高だよ。南アルプスは2,900メートル、北アルプスは2,600メートル、中央アルプスは2,700メートルくらい。それより上はいっさい木が生えてないから絶景を拝めるわけだ」
香苗「じゃあ白山でもそんな絶景にありつけるんですね?」
プロ「期待してるがいいさ」

香苗「いま見えてるあの山はなんていう名前ですか? かっこいいですね」
プロ「なに言ってるんだ、あれが白山だよ」
香苗(顔が瞬時に青ざめる)「嘘でしょ。あんなところまでいけるわけない」
プロ「いけるんだな、それが」
香苗「絶対無理です」(くるりと踵を返す)「じゃ、そういうことであとは一人で楽しんでください」
プロ「まあまあ、本当に無理だってわかるまで歩いても罰は当たるまい」

香苗「この自己主張の強いお花は?」
プロ「ニッコウキスゲという高山植物だ。高山域では比較的よく見かけるよ」

香苗「山小屋がありますよ。ちょっと休ませてもらいましょ」
プロ「大倉山避難小屋は無人小屋だけれども、寝具さえあれば大勢で泊まれるほど広いし清掃もいき届いてる。岐阜県民の血税がすべてつぎ込まれてるんじゃないかと思わせるほどだ」
香苗「岐阜県民には悪いけど勝手に使わせてもらうもんね」(汗を拭き、飴玉を口へ放り込む)「もうすぐですよね?」
プロ「室堂までまだ半分ってとこだな。室堂からも300メートルばかり登るから、実際は五分の二くらいだね」
香苗「こんなのがあと半分以上も続くのね……」

プロ「見たまえ、あれがカンクラ雪渓だよ。涼しくなってくるだろ」
香苗(引きも切らない激登りで息絶える寸前)「それどころじゃないです」
プロ「もう少し早くこれば登山道にも雪が残ってて、もっと涼しげだったんだがね」

香苗(直前の急勾配に心臓を破られた状態)「もう死ぬ、すぐにでも死ねる」
プロ「瀕死のところ悪いけど、顔を上げてみたらどうだね」
香苗「わあ、これなんのお花ですか? すごい!」
プロ「コバイケイソウだね。満開の時期にちょうど当たったみたいだ」

香苗「道も平らになったし、このへんが室堂平ですか?」
プロ「その通り。白山でも屈指の景勝地だよ」

プロ「ここが室堂ビジターセンターだ。山小屋あり、神社あり、ベンチあり、水場あり。白山登山の前線基地ってところかな」
香苗「あー疲れた、ここが山頂ですよね。その割には標高何メートル、みたいな看板がないけど」
プロ「なに言ってるんだ、山頂は正面だよ。あともう一息さ」
香苗(額に手を当ててうつむく)「そんなことだろうと思った」

プロ(昼飯のカップラーメンをすすりながら)「お、こんな中途半端な時間なのに雲海が出てるぞ」
香苗「すごい! 写真撮らなきゃ写真! 先生撮って、終わっちゃわないうちに早く!」
プロ(苦笑しながら)「はい、チーズ」

香苗「なんていうか……空が近いですね」
プロ「なかなかのもんだろう。近ごろの学生は外国にいかなきゃ絶景にありつけないと早合点してるようだが、どっこい自分の足で稼げばこんな景色は日本にもごろごろしてるわけさ」

香苗「着いたあ!」(警戒心もあらわに振り向く)「着いたんですよね?」
プロ「今度こそ本当にここが山頂だよ。御前峰(ごぜんがみね)2,702メートル登頂おめでとう」
香苗「長く苦しい旅路でした。ところで御前峰ってなんですか。白山じゃないんですか」

プロ「白山というのはこのあたりの山々を総称してそう呼ぶんだ。向こうに見えてるのは剣ヶ峰(けんがみね)。あちらは大汝峰(だいなんじほう)。こんな具合に個別にも名前はあるけど、白山といえばいまいる御前峰が代表格だよ」
香苗「じゃあ堂々と白山登ってきたぜい! て自慢していいんですね?」
プロ「存分に自慢するがいいさ」

香苗「あれ、このまま戻るんじゃないんですか」
プロ「白山の真骨頂、お池巡りをせずに帰るなんてとんでもない」
香苗「まだあるの……」

香苗「うわあ、広々として解放感抜群ですね」
プロ「ぼくも毎年このへんを歩くのが楽しみでね」

香苗「きれい! こんな高いところになんで池があるんですか」
プロ「翠ヶ池を始めとする白山の池は火口湖群なんだ。白山は死火山なんだよ」
(ほかにも血の池、油ヶ池など多種多様な火口湖がある、紙幅の都合により割愛)

香苗「高原の優雅なお散歩って感じですね。ここまで登ってきたご褒美をもらってるみたい」
プロ「きてよかっただろう」

香苗「あ、またこのお花だ。イケメンソウでしたっけ」
プロ「コバイケイソウね」

プロ「お池めぐりももう終盤だ。景色を目に焼きつけておきなさい」
香苗「白山と雪渓、それにイケメンソウの群落。百万ドルの絶景ってやつですね」
プロ「気に入ってもらえてなによりだよ。でもぼくくらいの歳になるとね、夏真っ盛りの景色を見てるとなんかこう……死にたくなってくるんだよな」
香苗「そういうもんですかね」
プロ「あと十年もすればわかるようになるさ」

 その後は室堂から平瀬道をピストンして無事終了。香苗は運動不足が祟って足がつったり膝が笑ったりしたけれども、プロフェッサーの当意即妙な対応が功を奏して乗り切る。およそ八時間の行程であった。

④山旅の感想
プロ「貴重な女子大生の一日をお借りしたわけだが、どうだったかね」
香苗「筋肉痛がきつすぎてそれどころじゃないです」
プロ「困ったな、もっとこう石川県の雄だとか言ってくれないと点数稼ぎにならんじゃないか」
香苗「知りませんよそんなこと。でも新鮮な体験ではあったかな」
プロ「登山も悪くないだろう」
香苗「山頂付近にワープできるんならね。それにしても山頂にも神社があるなんて驚きでした」
プロ「そう、歴史ある山なんだな。なんたって開山は八世紀、かの最澄がやったくらいなんだからね」
香苗「最澄が!」
プロ「以上見てきたように白山は見てよし、知ってよし、登ってよしの三拍子揃ったすばらしい山です。興味のある向きはぜひ」
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