ハコニワ

文字数 1,802文字

人の一生は全部で852話あるらしい。
この世界のどこかに全人類分の人生を記した本が保管されているという。
なぜ852話なのか。それは誰にもわからない。
そもそもそんな本が存在するのかすらわからない。
一時期話題になり、多くの人が探し求め、様々な憶測が飛び交った。
結局、そんなものは見つからず”伝説””幻”として消えていった。
しかしある時、本を見たことがあるという男が現れた。
「ボクはこのお話を100話まで読んだことがあるよ。」
「でもそれ以降の101話目からは読んだことがないんだ。」
「何回も100話までは読んだのだけれども、101話から先にはどうしてもたどり着けないんだ。」
「いつか読んでみたいなあ、ボクの852話。」
そう話す男はどこか遠くを見つめ、ここではないどこかに立っていた。
いや、正確には私の目の前にいるのだから、この言い方には少し訂正が必要だが。
少なくともそう感じたのは事実である。
ともかくこの男の話に戻ろう。
別に私と彼は知り合いでも何でもない。
ただの旅の一時の連れである。
なのに彼には不思議と懐かしさを覚える。
一度も出合ったことのない男に抱いた感情は一度置いておくことにする。
私は彼の話ぶりに少々疑問を感じた。
そもそも本はただの噂話だったのではないのか。仮に実際に存在するとして、その本にはどんなことが記されているのか。”何度も”というのはどういうことか。
色々と質問攻めにしたい気持ちを押さえて、彼の次の言葉を待った。
彼はポツポツと自分の生い立ちを語り始めた。
私の知る限り、彼の話はいたって普通だった。
しかし所々、辻褄が合わないような気がする。
また彼は、はるか昔、恐らく私も彼もまだ生まれていないような時代の出来事をまるで体験したことがあるかのように話す。
しかし私には彼が嘘をついているようには見えなかった。
彼はまあよく口のまわる男だった。
出会ってから今まで一度も黙っているところを見たことがない。
今もこうして自身の身の上話を続けている。
もはやこちらが聞いてなかろうがお構いなしである。
そんなことを考えていると、ふと彼が静かになった。
他所に向けていた目を彼にやると、それまでとは一変して真剣な眼差しをした彼がいた。
「君はどう思う?」
完全に自分の世界へ入り込んでいた彼の瞳に初めて私が映った。
ああ、そうか。これまで彼に感じていた懐かしさの正体が分かった。
ー私にはわからない。
これが私の本音だった。
彼は目を丸くして、少し黙った後、笑い出した。
「ああそうだ。君はそう言うと思ったよ。相変わらず君はボクの期待を裏切らない。」
実に楽しそうに、そしてどこか安心したような様子で彼は笑っていた。
ひとしきり笑った後、彼は満足した様だった。
呼吸を整えると、彼は一冊の本を取り出した。
持ち歩くには不便な、明らかに重たいであろう分厚い本が彼の手の中にあった。
「これで君にこの本を贈るのはーー度目だ。これで最後。ようやくボクも眠りにつける。」
「おやすみ、そして起きる時間だよ。」

いつの間に寝てしまっていたのだろうか。
長旅はやはり体に応える。
だがもうすぐその旅も終わる。
忘れ物がないかもう一度荷物を確認する。
おや。身に覚えのない本が手に触れる。
取り出してみると表紙の描かれていない分厚い本だった。
中身を見てみる。中には知らない誰かの8つの人生が記されていた。
全て違う時代、世界を生きてきた人物で特に共通点はないようだった。
だが、全員100歳でそのお話は終わっている。
さらには本であるのに、名にも記されていないページが存在していた。
軽くそれぞれの人物の人生を読んでいたが、どれも別段面白いことが書いてあるわけでもなく皆平凡な人生を送っていた。
ふと時計に目をやると、まもなく日付が変わろうとしていた。
ーそういえば、今日で52歳の私とはおさらばだな。
明日は私の誕生日。
だが、もうこの歳になると祝ってくれる人もいなくなる。
最後にロウソクの火を吹き消したのはいつだったろうか。
ーああ、ひどく眠たい。意識を保つのでやっとだ。
時計が52歳の終わりを告げる。
床に本が落ちる。男は一人”ハコニワ”の役目を静かに終えた。
落ちた本にはとある男の52ページ分の物語がつづられていた。

この世界には、その人の人生を記した全852話の物語がつづられた本があるらしい。
そんな噂が今日も人々の間で、まことしやかにささやかれている。
「さあ、君にこの本を贈ろう。」
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