文字数 1,721文字

 夜の十一時過ぎ、雨はまだ降り止みそうになかった。予定外の残業だったが、明日は休日という解放感から、路子(みちこ)は電車には乗らず、自宅まで一駅分の道のりを歩いて帰ることにした。もうすぐ六十の歳月を迎えようとしている路子の足腰は、まだまだ頑丈だった。家庭を持たず、ずっと一人で奔放に生きてきた。今は地元の居酒屋で働いているが、路子にとって仕事とは、その奔放さの中に時折、見え隠れする侘しさを、つかの間忘れさせてくれる薬のようなものであった。今日もこのまま家に帰り、風呂に入ったら好きな韓国ドラマを見る。店長が残業のお礼にと、帰り際にくれた鯖の味噌煮をあっためて、それを肴に缶ビールを一本空けるだろう。あとは眠るだけ。たまの残業ぐらいで、私の日常が変わることなんてない。路子はそう思っていた。
 古い長屋の軒並みがまだ多く残る通りを路子は歩いた。街灯が少なく、暗くひっそりとしており、この時間には人とすれ違うこともほとんどなかった。夜雨に濡れた、影絵の世界のような静寂に、路子がさす藤色の傘だけがほのかに浮かび上がった。
「ひどい雨ね。やっぱり歩くんじゃなかったわ」
 路子が呟いたときだった。傘を打つ雨音に混じって、自分以外の何者かの足音を聞いた気がした。それもすぐ足元で気配を感じた。
路子は立ち止まった。何かいる──恐る恐る、足元を見下ろした。
 ペンギンがいた。路子の脳は、目から送られてくる信じがたい情報を処理するまでに、いささか時間を要した。体の黒い部分は闇に溶け込んでいるが、優しく尖った嘴と、淡い紅色に纏われたつぶらな目があった。両の羽を疲れた腕のようにだらんと伸ばし、もの欲しそうに路子を見つめる姿は、紛れもなくペンギンだった。
 雨風が路子の前髪を乱した。頬にしつこく張り付く髪を払いのけることもせず、路子は立ち尽くした。ペンギンは、石像のように動かない路子の生死を確かめるように嘴でつついては、首を傾げた。人は、本当に仰天すると、動けなくなるものだと路子は悟った。日本で、水族館でも動物園でもないただの寂れた通りで、自分の傘の下に突然ペンギンが現れたのだ。路子は懸命に、合理的に納得のいく結論を出そうとした。もしかすると、この鯖の味噌煮のにおいを嗅ぎつけて、遠路はるばるやって来たのだろうか。もれなくペンギンがついてくる鯖の味噌煮なんて、まったく店長はとんでもないものをくれたものだ──路子は取り止めのない思考に一通り浸ると、「鯖の味噌煮に、そんな念力は無いわ」と、考えることを諦めた。考えたところで、ペンギンはここにいるのだ。仕方がない。とにかく、今は帰ろう。路子の足は、ようやく歩くことを思い出した。
 傘の下で、ペンギンは路子にぴったりと寄り添うようについて来た。仕事帰りにペンギンと相合傘をした人間は、私が人類史上初ではないか。路子は妙に誇らしかった。ひょっとしたら、ペンギンの中身は宇宙人で、私という地球人を観察しに来たのかもしれない。このまま(さら)われてしまうのではという、危うげな好奇心が路子の中で芽生えた。そして、この変梃(へんてこ)な状況で、路子は勇気を持ってペンギンに問い掛けた。
「私をどうする気?」
 ペンギンは何も答えなかった。ペンギンはペンギンだった。路子の杞憂など露知らず、ペンギンは羽を重たそうにはためかせて、濡れたアスファルトの上を無言で闊歩(かっぽ)した。その凛々しい横顔には、行き場を失った旅人のような哀愁が漂っていた。ペンギンがどこから来たにせよ、見知らぬ土地で、こんな雨の中を彷徨い、さぞ心細かったに違いないと路子は思った。
「あなたも、ひとりぼっちなのね」 
 宇宙人では無いと分かった今、路子は今宵の珍客に、愛着を覚えた。するとペンギンが突然立ち止まった。見ると目の前に大きな水たまりがあった。先に路子が向こう側に跨いだが、ペンギンはまだためらっていた。
「ほら、早く来ないと置いてっちゃうわよ」
 そう言うと、ペンギンは

前傾姿勢をとった。前を見据え、勢い良く路子のもとへと飛んだ。間一髪で水たまりを跨ぎ切ったが、着地すると同時に足がよろけた。その動きが愛らしく滑稽で、路子は思わず笑った。久しぶりに、自分の笑い声を聞いた気がした。
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