第1話

文字数 23,614文字

         水の闇

                                 蘭野みゆう

 公園はみずみずしい緑におおわれていた。あまりに樹木が多いので、晴れた日でも薄暗かった。今日は小雨が降っているのでなおのこと、もう夕方の風情だった。公園の中央にある池は濃い木賊色で、蓮の葉を何枚も浮かべていた。細い絹糸のような雨が際限なく水面に吸い込まれていく。
 私は青地に白い水玉の傘をさして、濡れた石畳の上を滑らないようにゆっくりと歩いていった。約束の三時には十分間に合った。公園の中を通ると少し回り道になったが、以前からこの公園が気に入っていたので、ぜひとも寄っていこうと思っていた。幹線道路がすぐそばを走っているのに、豊かな樹木が外部の音を遮断するのか、車の走る音も街の騒音もここでは全く聞こえなかった。この公園には外の世界とは異質の時間が流れているような気がした。日当たりが悪いためか、あまり発育のよくない紫陽花が雨に濡れてひっそりと咲いている。花びらのように見える四、五片の花弁が実はがくだということを最近雑誌で読んで知った。
 公園の中には人の姿が見えなかった。ただ盛んに声が聞こえた。その声は一斉に歌い出し、しばらくするとやみ、また歌い出した。蛙の中にもリーダー格がいて、指揮をとっているのだろうかと思った。その声を聞いていると妙に落ち着いた。時折雨の降りが強くなって、雨粒が傘に当たる音がバラバラと聞こえた。大きなヤツデの葉にも雨音が響いた。私は濡れそぼれた古いベンチのわきにたたずんで目を閉じた。公園全体が降りこめる雨音の中に閉じこめられて、そのままどんどん縮んでいくような感じがした。
 ずっとずっと昔こんな音を絶え間なく聞き続けていたことがあったような気がした。この世だったか、あの世だったか、ちょうどこの世とあの世のあわいだったかもしれない。そこはたっぷりと水分があって生暖かくて、居心地が良かった。水の流れるような、自然の声明のような低い声がひっきりなしに聞こえていた。その小さな袋の中で私はただ眠っていればよかった。でも、ずっとそこにいることはできなかった。
 私は一歩一歩確かめるように歩いた。長い石畳が尽きると、階段の向こうにまるで別世界への出口のようにぽっかりと明るい空間がのぞいていた。私は道路に出てその道をまっすぐ二百メートルばかり歩き、左に曲がった。確かこの辺だったと思いながら、高い石垣のぐるりを回った。石垣に囲まれた大きな家の隣に離れのような平屋がある。そこが玉木ゆかりの住まいだった。ゆかりは知人を介して相場よりだいぶ安くその家を借りているのだと津島から聞いた。
 この前この家を訪ねた時は大学院の先輩の津島浩二と一緒だった。ゆかりの一人娘の美香と四人で食事をして歓談した。ゆかりの夫は二か月前に家を出て、それ以来別居中ということだった。津島も私もゆかりの夫のことは話題にしなかった。二人の間にどんな問題があって別居することになったのか私は全く知らなかったし知りたいとも思わなかった。三人は大学の教官のだれかれや他の院生の噂など、とりとめのない話をした。その時ゆかりは何かの拍子にこう言った。
 「今は文学がおもしろくてね。化学は老後の楽しみに取っておこうと思うの」
 ゆかりの伸びやかな笑顔は、自分は今でもじゅうぶん人生を楽しんでいるのだと語っていた。
 私は呼び鈴を押した。少し待っても反応がないので、もう一度強く押した。すると、勢いよくドアが開けられてゆかりが上気した顔をぬっと突き出した。
 「ごめんなさい。着替えてたもんで。さあ、入って入って」
 ゆかりは白いブラウスの胸元のリボンを結びながら言った。
 「ほんとに助かるわ、あなたが来てくれて」
 「いえ、どうせ暇ですから」
 私は精一杯の笑顔を見せた。
 八畳ばかりのダイニングキッチンは雑然としていた。テーブルの上には新聞や雑誌、マグカップ、スプーン、ヘアブラシ、折り紙などが散らばってる。
 「ええと、夕食は冷蔵庫の中に用意してあるわ。サーモンのホイル焼きとポテトサラダ。それとなすの炒め物。サーモンは食べる前にオーブンでもう一度温めて。バターが固まっちゃってるから。悪いけど、おみそ汁だけ作ってもらえるかしら。材料はあるもので適当に」
 ゆかりは急いでいるのか、一気に話した。「大丈夫、任せてください」と私は胸を叩いて見せた。
 ゆかりは私にいすを勧めると奥の部屋に消え、すぐにハンカチを一枚取り出してきて、それをそそくさとベージュ色のショルダーバッグに入れた。
 「ほんと助かるわ。美香はけっこう難しい子なんだけど、あなたならいいって。ねえ、美香ちゃん。高田さんの言うことよく聞いていい子でいるのよ」
 五歳の美香は少し心細そうな顔をしてこっくりとうなずいた。美香はまだまだ母親に甘えたい盛りらしく、ゆかりの後からべったり抱きついてきて離れないのだという。
 美香は切れ長の大きな目元が母親にそっくりで、しゃくれた細い顎が大人びて見える。私は美香の前に腰をかがめた。
 「美香ちゃん、ママはすぐ帰ってくるから、それまでお姉ちゃんと一緒にお話ししようね」
 「うん」
 美香はようやくほのかな笑みを浮かべた。ゆかりは腕時計の黒い革のベルトをはめながら、優しい母親の目をして美香を見た。その目をそのまま私に向けてほほえんだ。
 「ごめんなさい。お茶も出さないで。予定より少し早めに行くことになって・・・何でもあるもの飲んでね。じゃ、お願いします。遅くても九時には必ず帰るから」
 ゆかりは淡いピンクのレインコートを羽織り、赤い花模様の傘を手にドアを開けた。
 「わあ、けっこう降ってる。雨の日はいやねえ」
 ゆかりはそうつぶやいて出かけていった。
 どうしても夜出かけなければならない用事ができたので、その間美香の面倒を見てくれないかと頼まれたのは四、五日前だった。もちろん、アルバイトとしてという話だった。私は二年前勘当同然で家を飛び出して、いくつもアルバイトをしながら大学院に入った。今も塾と家庭教師と家具店でのアルバイトを掛け持ちしていた。生活に余裕がなかったし、他に断る理由もなかったので、快く引き受けた。
 玉木ゆかりは才色兼備というのか、私にはまばゆいような存在だった。彫りの深い顔立ちにややくぼんだ大きな目が印象的でエキゾチックな魅力をたたえていた。T大の化学を出て研究室に勤務し、同じ大学の先輩と結婚した。そのうち文学にも興味を抱き、今は私と同じ大学院でトーマス・マンを研究している。もう三十半ばで私より十も年上だが、ショートヘアがよく似合い、キュートな魅力は以前のままだった。
 「美香ちゃん、クッキー食べない?」
 私は鞄の中から持ってきたクッキーの箱を出しながら、美香に声をかけた。朝食兼昼食を十一時ごろ食べたきりなので、ひどく空腹だった。私はコーヒーカップとお皿を探し、インスタントのコーヒーを入れた。美香のためには冷蔵庫から牛乳を出した。テーブルの上に散らかっている色とりどりの小物を脇に寄せて、布巾でまあるくテーブルを拭いた。しょうゆのような黒いシミがこびりついていて、力を入れてこすったらやっととれた。私は他人の家で小さな可愛い女の子とおやつを食べている自分を心のカメラに写した。私にはそういう癖があった。満足だった。重要なのは他人の家が玉木ゆかりの家であることだった。
 あれは五年前の夏だった。私は大学三年で、O先生の主催する合宿セミナーに参加していた。O先生は私大の教授だったが、ある私的な研究会をもっていて、毎年夏に公開セミナーを主催していた。そこにはいろいろな大学の学生や社会人も多く参加して、ハイデッガーなどを読んでいた。当時も私は一人でアパート暮らしをしていた。時々思い出したように大学へ行ってはいたが、六畳間に引きこもって何日も人と話をしないこともあった。夜と昼が逆転して、夜中ずっと本を読んだり、ぐちゃぐちゃとろくでもない妄想をたくましくしながら起きていて、朝五時ごろ眠りにつくという生活リズムだった。
 唯一継続的に出席していたのがO先生のゼミだった。先生に声をかけられて夏の公開セミナーに出てみる気になった。悩める哲学少女だった私は傍目にもずいぶん暗く偏屈に見えたに違いない。そのころは化粧もしなかったし、流行の服やアクセサリーにも全く関心がなかった。いや、そういうちゃらちゃらしたものを軽蔑し、拒絶していた。だから、たいてい洗い晒しのティーシャツにジーパンというスタイルで髪も短く後ろ姿は男の子のようだった。その無愛想な表情と相まって実際、男の子と間違えられたこともあった。この先まっとうに生きていく自信などまるでなくて、死ぬ勇気もないから生きているというにすぎなかった。
 そのセミナーに玉木ゆかりも参加していた。ゆかりはそのころ婚約中だったのか、幸せそうな微笑を周囲にふりまき、スターのようなオーラがあった。誰もが目を細めて彼女を見、何かと話しかけた。そんな彼女は私にとっては別世界の人だった。私には人を惹きつける美しさもなく、特別な能力もなく、将来にも自信が持てずただうつむいてばかりいた。自分から話しかけなければ、私に関心を持ってくれる人など誰もいなかった。夕方みんなで散歩することになり、田舎道を思い思いにそぞろ歩いた。私が一人で歩いていると、後ろから玉木ゆかりが何人かの人とやってきて、私もその小さな集団の一員になった。
 ゆかりはノースリーブの黄緑色のブラウスにショートパンツ姿だった。ショートパンツから伸びた脚がすらりとしていた。そんな無造作な服装にも何となく華があった。その時なぜゆかりに話しかけようと思ったのか、今ではもう思い出せない。たぶん、いつも甲羅の中に首を引っ込めてばかりいた亀が、何かの拍子に外の世界に首を出してみたくなったのかもしれない。私は自分を励ましながら思いきってゆかりに話しかけた。たぶん必要以上におどおどしていたと思う。何と話しかけたのかは覚えていない。だが、次の瞬間のゆかりの表情だけは今もはっきり脳裏に焼き付いている。ゆかりは何かひどく醜い嫌なものを見たように眉をひそめた。そして、何も答えずに私を無視して通り過ぎたのだった。彼女の取り巻きたちも無言で私の脇を通り過ぎていった。
 私は打ちのめされた。突然暗い穴の中に突き落とされたようだった。いや、本当に穴に落ちることができたらこの上なく幸せだっただろう。その時私の心にわずかに灯っていた小さな弱い光がふっとかき消された。それはかろうじて私の足下を照らしていた大切な灯りだった。私は顔をおおってその場にしゃがみこみたい衝動を抑え、のろのろと歩き続けた。空は朱色の夕焼け雲に青黒い雲の帯が侵入して段だら模様になっていた。昼の名残の光が押し寄せる闇とせめぎ合っているように見えた。私は傷心のあまり小さく笑った。人間は他の動物と違ってあまりにも不幸だったので、笑いを発明しなければならなかったと言ったのは誰だったろう。私は残りの日程をずっと屈辱に耐えながら、平静を装わなければならなかった。
 気分転換が極度に下手な私はこの屈辱の苦しみを長く味わわなければならなかった。しかし、ありがたいことに時間は私に小さな灯りを再び返してくれた。打ちのめされた経験はその後もいろいろとあったが、そのたびに慈悲深い時間は生傷の上に幾重ものかさぶたを張って痛みを和らげてくれた。そして今、偶然私は彼女と同じ大学院に一年後輩として籍を置き、友達づきあいをしていた。私はあのことでゆかりを憎んだりねたんだりしてはいなかった。他人を憎んだりねたんだりできるほどの外向的エネルギーは私にはなかった。憎んでいたとすれば、弱く情けない自分自身だった。私のエネルギーは内へ内へとこもるのだった。あのころに比べれば、私は別人のように変わった。化粧もするし、スカートもはく。安いネックレスやペンダントの類も身につけるようになった。表情もずっと明るくなって、ひどく落ち込むこともまれになっていた。
 美香が青い折り紙を折っている。
 「美香ちゃん、何を折ってるの?」
 美香は折るのに夢中で返事をしなかった。ようやく折り終わるとそれを元気よく私の目の前に突き出した。
 「ほら、お舟!幼稚園で教わったの」
 舟は少しゆがんでいた。
 「ほんとだ。お舟だね。上手にできたね」
 美香に触発されて私も折ってみたくなった。
 「あのさ、鶴折れるかな?」
 「ううん、できない」
 「折ってあげようか?」
 美香はうなずいた。私は黄色の紙を選んで、鶴を折り始めた。その私の手元を美香はじっと見つめている。感受性の鋭そうな目だと思った。私は何気ない調子で聞いた。
 「美香ちゃんのパパは何時に帰るの?」
 美香は唇をきっと結んでかぶりを振った。肩まで垂れた髪がさらさらと揺れた。
 「パパ、帰らないの。お仕事で遠くへ行ってるから」
 やっぱりそうかと思った。こんな時大人がつく嘘はだいたい決まっている。
 「そう。パパに会えなくて寂しいね」
 「寂しくないよ。ママがいるから。ママがお話読んでくれるよ」
 子どもというのはけなげにできていて、どんなに小さくても大人への気遣いを忘れない。本当の気持ちは広大な無意識の世界に抑え込んで、今を生き延びるすべを本能的に身につけている。
 「ふうん。いいね。どんなお話?」
 「んとね、ヘンゼルとグレーテル」
 「わあ、グリム童話だね。おもしろい?」
 「うん」と言って美香は奥の部屋に消えた。もどってきた美香の手は一冊の本を抱えていた。それはドイツ語で書かれたグリム童話だった。
 「え?ママはドイツ語で読んでくれるの?」
 「うん。始めドイツ語で読んで、それから日本語でお話しするんだよ」
 美香は得意そうにその若草色のカバーのかかった本を渡した。
 「へえ、すごいねえ」
 私はぺらぺらとそれをめくりながら、ゆかりが美香を抱いてドイツ語のグリムを読んで聞かせる情景を想像した。美しく知的な母と可愛らしい聡明な娘、絵になる光景だった。小学校のころ、絵本で読んだヘンゼルとグレーテルの話を思い出した。一番心に残っているのは何といってもお菓子の家で、ケーキや砂糖やクッキーでできたお菓子の家の挿し絵を見てよだれをたらした。壁や窓のお菓子を好きなだけはぎ取って嫌というほど食べてみたいと心底思った。この物語が実母による子捨ての話だと知ったのはごく最近だった。グリムの初版ではヘンゼルとグレーテルを森に捨てようと言い出したのは実の母親ということになっている。それが第四版から、実母ではなく継母に変わっているそうだ。いくら食い詰めたからといって、実の母親がそんなに冷酷で無慈悲なことをするとは教育上よくないとグリム兄弟は考えたのだろうか。
 私はできあがった黄色い鶴を美香に渡した。美香はそれを自分で折った青い舟に乗せた。 「鶴がお舟に乗ってる」
 美香は舟を動かしながら自分の着想に満足したように、嬉しそうにきゃっきゃと笑った。
 「お舟に乗らなくても鶴は自分で飛べるんだよ。大きな翼があるからね、どこまでだって飛べるんだよ」
 私が非難をこめて言うと、美香は答えた。
 「これ、おばあさんの鶴」
 私は思わず吹き出して美香と一緒に大笑いした。空気が和んだ。美香は幼稚園の先生や友達のこと、連休に行った遊園地のことなどよくしゃべった。
 時間は案外早く過ぎた。私は味噌汁を作ろうと冷蔵庫を物色した。冷蔵庫はぎっしり詰まっていた。ラップにくるまれたまま干からびたにんじんや青カビのぽつぽつ見える食パンなども冷蔵されていた。私はジャガイモとネギを取り出し、奥の方からあぶらあげを引っ張り出した。だしを探し出すのに苦労したが、食器戸棚の引き出しの中にやっと見つけた。味噌はなかなか上等そうな白味噌だった。美香は自分でテレビをつけてアニメ番組を見ている。
 七時ごろ、ニュースを見ながら夕食を食べた。美香は幼児特有のかったるい手つきで小鳥のようについばんだ。私は美香がいとおしむべき存在に思えた。私は美香を促しながら、ゆっくり食事をした。サーモンは味つけが薄めで、なすの炒め物は少ししょっぱかったが、ご飯にはよく合った。食後のお茶を飲んでじゅうぶんくつろいでから、後片付けにかかった。
 ゆかりは約束通り九時前に帰ってきた。
 「美香。ちゃんといい子にしてた?」
 ゆかりはまとわりついてきた美香の頭をなでて聞いた。
 「いい子にしてたよね。ご飯もちゃんと食べたし」
 私は眠そうな顔をしている美香に代わって答えた。仕事のことで人に会うと聞いていたが、どこで誰と会ったのかゆかりは言わなかったので、私もあえて尋ねなかった。
 「やっと雨がやんでよかったわ。雨だと気が滅入ってね。洗濯物は乾かないし、子どもはぐずるし、何だかすごく気分が落ちこむのよね」
 ゆかりは雨の日が嫌いらしかった。以前にもゼミ室で教授を待っているとき、彼女はこれと同様のせりふを吐いたことがあった。
 「でも、今日はほんとに助かったわ」
 彼女は封筒に入れたアルバイト料を私に渡しながら、もう一度お礼を言った。私は美香と折り紙を折ったことや食事がおいしかったことなどを話した。ゆかりは少し疲れた表情を見せていたが、出かけたときよりも化粧がよくなじんで大理石のような白い肌ををしていた。よかったら泊まっていってという申し出を丁重に断って私はゆかりの家を出た。外に出ると、本当に雨はあがっていて雲間に星がきらめいて見えた。空気が意外にひんやりと感じられて、私は裏地のないレインコートの襟を立てた。
 アパートに帰り着いたのは十時過ぎだった。アパートは植木屋の広い敷地内にあって、周りには樹木が多かった。地下足袋姿の職人達が軽トラックで木を運んできたりしてよく行き来していた。古い木造アパートだったが、目の前は空き地で二階の私の部屋からは見晴らしもよく駅からも近かったので気に入っていた。六畳と三畳の二部屋に小さな台所がついて、トイレは共同だった。一階と二階で都合二十部屋ぐらいあったろうか。私は郵便受けから郵便物を取って階段を上り、ほの暗い廊下を歩いて奥から二番目の自分の部屋に入った。カーテンを閉め、着替えをしてくつろいだ。
 郵便物は定期購読している雑誌と友人からの手紙が一通だった。高校のクラスメイトだった女友だちからの手紙を読んでいると、廊下でじゃらじゃらと鎖のようなものをいじっている音がした。また始まるなと思った。向かいの部屋に住む中年男の夜の儀式が始まったのだ。彼はかなりの重量があると思われる鎖をたぶん胸のところでボディビルをするように両腕で引っ張っていた。そして、「この野郎、ふざけんな、こん畜生、なめんなよ」などとあらん限りの悪態をついて胸にたまった鬱憤をはらすのだった。たぶんだいぶ酒が入っているのだろう。現場を目撃したことはないが、その部屋の住人の顔は見知っていた。小柄で気の弱そうな中年の独り者だった。
 最初にこの夜の儀式を耳にしたときは何が始まったのかと思ってびっくりした。毎晩ではないが頻繁に繰り返されるのを聞いているうちに慣れてしまった。次第にそのおじさんのままならない人生に対する悔しさ、無念の気持ちに同調するようになった。同情ではなく同調だった。私もできることならあのおじさんと同じことがやりたいはずだった。今でも毎日外界に対する小さな無念の思いを抱えながら生きていた。私だったらこんな儀式は自分の部屋の中でやるのが関の山だろう。向かいのおじさんはなぜわざわざ人目につく廊下でやるのだろう。廊下は自分の部屋と違って共同の場所だから、そこはおじさんにとって世間なのだろうか。世間で受けた憂さは世間で晴らさなければならないというのだろうか。
 おじさんの部屋の隣が共同のトイレになっていたので、たまに儀式の最中のおじさんの脇を通ってトイレに行く人がいた。そんなときおじさんは急に卑屈な声色になって「こりゃ、どうも、どうも。こんばんは。すみませんねえ、どうぞどうぞ」と道を譲っている様子が聞こえた。頭をかきながらぺこぺこしてさわやかな笑顔を振りまいているおじさんの姿が見えるようだった。おじさんは笑うと結構いい顔になることを私は知っていた。ものの三十分ほど、おじさんは鎖をじゃらじゃら言わせながら、実際はできなかった誰彼に対する激しい応酬をして夜の儀式を終えた。おじさんがすごすごと自分の部屋に戻ってからは、アパートに平穏な夜が訪れた。
 友達からの手紙には結婚生活上の悩みが綴られていた。いったいなぜ結婚などしたがるのか、どうして結婚などという面倒で恐ろしいことができるのか私には理解できなかった。私は一生結婚するつもりはなかった。

 もうすぐ夏休みに入るという七月の金曜日、私は津島浩二と近くの自然公園にサイクリングに出かけた。もう一人誘っていたのだが、彼は急用ができて来られなくなった。その日はからりと晴れて、風がさわやかだった。津島はクリーム色のポロシャツにジーパン姿で待ち合わせ場所の大学裏門に現れた。私より五つ年上で、大学の寮に住んでいた。育ちのよさそうな坊ちゃんタイプだと思っていたら、伊豆の老舗旅館の一人息子ということだった。物事にあまり執着せず、どこか茫洋としたところがあった。
 「高田さん、なんか食べるもの持ってきた?僕寝坊しちゃって朝飯まだなんだ」
 津島は蓬髪に右手をつっこんでぼりぼりと頭皮をかいた。白いふけがふわりとクリーム色のポロシャツの肩に落ちたように思った。
 「おにぎり三つあるから、一個あげようか。飲み物だけどっかで買っていきましょう」
 「悪いね。じゃ、ちょっとおにぎりもらってから出発しよう」
 津島は白いきれいな歯を見せて笑った。津島はその場で立ったまま私の作ったおにぎりを一つぺろりと食べてしまった。途中で缶ジュースを買って、サイクリング道路に入った。サイクリング道路といっても、舗装されているのは最初の二キロぐらいで、その先は砂利道だった。津島の自転車も私のも普通のママチャリで、おまけに見るからに古いので、走っている間中がたがたと揺れた。特に私のはひどかった。至る所に錆が出ていて、ペダルを踏むごとにギイギイと息切れしたような音がする。駅前で新品の自転車を盗まれて以来、自転車泥棒のやる気をそぐような代物に乗っていたのだ。
 なだらかな丘をいくつか越えていくと川に出た。荒川だった。岸辺の緑の中に小さな黄色い花が無数に咲いて、風に揺れていた。そこで一休みすることにした。津島は殊勝にもポケットからハンカチを出して広げた。私は感激と恐縮の入り混じった声を上げた。
 「いや、いや、何のこれしき」
 津島は少し照れくさそうに言った。私は濃紺の縁取りのある空色のハンカチに腰を下ろした。私はグレープジュースのプルトップを開けた。ぬるくなっていたが、渇いたのどには十分おいしかった。遠くでヒヨドリのような甲高い鳴き声がした。
 「津島さん、修論進んでますか」
 他に話題を思いつかなかった私はこう聞いた。
 「なんで、あなたはこういう時にそんなどうでもいいことを聞くの?」
 私が黙っていると彼は続けた。
 「まったく。だめだね。どうにもならん。僕はもう一年だなあ。修論のことを考えると僕の頭は穴だらけのスポンジみたいになっちまう。ほんとにこういう病気あるんだってね。知ってる?」
 「知りませんよ。今からそんなことでどうするんですか」
 私は愉快な気分になってきた。
 「いいじゃないの、人のことは。焦りは禁物。ゆっくりじっくりやるのが僕の流儀でね。玉木さんなんかがんばってるみたいだけど、子ども抱えて大変だよな。養育費はもらってるらしいが、ありゃ、やっぱり離婚だな」
 私は身を乗り出した。
 「そんなに深刻なんですか?」
 「うん。彼女、お父さんは大学教授だし、恵まれた環境でちやほやされて育ったお嬢様だから、自分勝手でけっこう我が儘らしいんだ。旦那さんの友達から聞いたんだけど、旦那がちょっと遅く帰っただけで、すごく感情的になるらしいよ」
 私はその話にとても興味をそそられた。私の知っている今のゆかりはそれほど感情的とは思えないし、向学心の強い学生であり、落ち着いた優しい母親でもあった。でも、それはゆかりの一面にすぎないのだろうか。そうかもしれない。私は確かにあまり好感のもてないゆかりも知っていた。
 「ふうん。そんなふうには見えませんけどね。でも、何と言っても美人で優秀だもの、ずいぶん男性にもてたことでしょうね。今もきれいだし、羨ましいなあ」
 私は彼女に対する複雑な感情を押さえ込んで、わざとありきたりの感想を吐いた。
 「いや、若いときはいいけど、だんだん年取ってくると、つらいものがあるんじゃないか?小さいときからスターだった人は、いくつになっても周りから賞賛されていないと気きが済まないだろ」
 「なるほどねえ。その点、私なんかいいよね」
 「いや、そういう意味じゃないよ。高田さんはその、スタイルもいいし・・・」
 津島はあわてて弁解した。けれど、津島は私が玉木ゆかりについて思っていたことを代弁してくれた。私は地面をはいつくばっている大きなアリを眺めながらひそかに満足した。
 さらに川に沿って自転車を走らせ、古びた四阿で昼食にした。木のベンチにはジュースか何かがこぼれていた。私はめざとくそれに気づいてティッシュで丁寧にぬぐった。午後二時だった。昼食といっても私の持ってきたおにぎり一個ずつと、卵焼きとクッキー一箱しかなかった。私は人の分までお弁当を用意する女ではなかった。
 「悪いね。途中で何か買えばよかったんだけど、今日の夕食ごちそうするからさ」
 津島はそう言いながら、遠慮するふうもなく卵焼きとクッキーまでみんな食べてしまった。もう少し先に行ってみようということになって私たちは腰を上げた。その時、私は尻の下に敷いていた津島のハンカチの存在をすっかり忘れていた。二、三歩歩き始めて、しまったと思った。振り返ったときはすでに津島が見捨てられたハンカチを取り上げていた。私はあわてて駆け寄って懸命にわびたが、こみ上げてくる笑いを抑えられなかった。津島は大げさに嘆いてみせて「意外に無神経なんだなあ」と言った。私は無神経と言われたことがうれしかった。
 平日だったし、何のレジャー施設もないので、あまり人の姿が見えなかった。リュックを背負った五、六人の中年グループに出会っただけだった。やがてだだっ広い自然公園の端に至ったらしく、目の前に広い道路が見えた。その時、急に日が陰って雲が出てきた。服を着たままシャワーを浴びたくなかったので、空を見上げながら帰りはひたすら走った。走りながら風に吹かれていると、体中の余分な水分が汗となって発散されて、爽快な気分になった。どうにか雨には降られずにすんだが、クッションの悪いサドルにすわり続けたせいでお尻が痛かった。
 「ああ、やれやれ。明日は筋肉痛だな」
 大学に帰り着くと津島は例のハンカチで首筋の汗をぬぐいながら言った。
 「ところがね、津島さん、三十過ぎると反応が鈍くなって、筋肉痛も二、三日後に来るんですってよ」
 私がそう言うと津島は勝ち誇ったように言った。
 「せっかくだけど、僕まだ二十九だからね」
 そんなはずはないと聞き返すと、二月生まれだからまだなのだという。夕食には少し早い時間だったが、二人ともおなかがすいていたので、大学近くの中華料理店に入った。ビールを飲みながら、麻婆豆腐やらエビのチリソースやら焼き餃子やら中華料理の定番をおなかいっぱい食べた。私はすっかりいい気持ちになって店を出た。群青色の夏の宵が降りていた。勘定をしている津島を待って、自転車を止めてある店の裏手に回った。「今日はどうも」と言おうとしたとき、いきなり長身の黒い影に抱きしめられた。影は私の耳元にささやいた。
 「今日は楽しかったよ」
 津島の骨張った肩越しに淡い月影が見えた。唇を覆われると、その月影も消えた。
 アパートに帰り着いて、すぐ銭湯に行った。髪を洗い、体中の汗を流すと酔いも吹き飛んでさっぱりした。部屋に戻ってティーシャツにショートパンツ姿で畳の上に寝そべった。津島に抱きしめられたときの衝撃がよみがえった。快い衝撃と言ってもよかった。それなのに、意外なほど冷静な自分が我ながら物足りなかった。我を忘れるほど恋に身を焦がしたことはなかった。自分の中でいつも何かがさめていた。
 それは自分を監視しているもう一人の自分に違いなかった。どんな時にもそいつの目を逃れることは不可能だった。そいつは強力なブレーキ機能を持っていて、いざというとき急ブレーキをかけるのが得意だった。ブレーキがかけられると、それまでのカラー映像は一気に白黒になり、空々しくむなしいものになった。おかげで、私の人生は面白味に欠けているように思われる。
 それでも、楽しもうと思えば楽しめた。私は津島の端正と言ってもよい容貌や形のいい長い指、鳩尾に向かって広がるなめらかな胸板、引き締まった腰の筋肉を思い描いて、もう一度彼に抱かれた。想念の中では私は自由そのものだった。そこではどんな激しい恋も息をのむ冒険も殺人さえできた。
 小学校五年の時、クラスに好きな男の子がいた。東京からの転校生でひどく無口だったが、賢そうな顔をしていた。栃木の田舎で育ち、東京など行ったことのなかった私は、彼の体から発する都会的な雰囲気にもあこがれたのかもしれない。教室の中でも彼のことがいつも気になっていた。自分から声をかける勇気など持ち合わせていなかったから、ただひたすら遠くから彼を眺めていた。席替えがあって、彼が私の斜め前の席になったときは驚喜した。それとなく後から彼と彼の持ち物や何かを観察した。あんまりじっと見つめすぎたのか、ある時彼が気配に感づいて突然こちらに振り向いたことがあった。目が合ってしまった。「何だよ」と一言私の憧れの人は言って、不機嫌そうにまた前を向いた。私はどぎまぎしたが、思いはいっそう強くなった。
 そのうち、道を歩いていても家にいても、気がつくと彼のことを考えるようになった。そんなとき、私の空想の遊びは消しゴムになることだった。彼の筆箱の中に見えた何の変哲もない白い消しゴム。私はあの消しゴムに化身して彼の手に握られるのだ。彼は私の体を強い力でぎゅっとつかみ、紙にこすりつける。私はあまりの幸福感に恍惚となり、鉛筆で黒く汚れた体も気にならない。鉛筆で私の横腹に落書きされても、ナイフで頭を切り離されても私はうっとりと彼の手の感触を楽しんでいただろう。
 子どものころからいったい幾人の人を傷つけ殴り、殺してきたことだろう。近所に小さな可愛い女の子がいた。まだ学校にも行っていなかったから、私より一つか二つ年下だったかもしれない。彼女が私の家に遊びに来た。二人で泥をこねてお団子を作って遊んだ。丸い泥団子をいくつも作って、家の食器棚から持ち出した白い大皿に並べた。二人は額を寄せ合って夢中で黒い泥団子を作り続けた。額にうっすらと汗を浮かべ、色白の人形のように整った彼女の顔が私の目と鼻の先にあった。私は突然何かに憑かれたように、作ったばかりの泥団子を彼女の柔らかそうな頬のあたりにこすりつけた。彼女の端正な顔はたちまち大きくゆがんだ。驚きのあまり声も出ないという様子で立ち上がると、一目散に逃げていった。私は無言で彼女の後ろ姿を見送った。それから、ゆっくりとたくさんの泥団子を一つ一つつぶした。みんな死んでしまえばいいと思った。
 だが、一番先に殺したのは自分自身だった。私は温かい水の中に浮いている。そこは暗くて何も見えない。私は水の闇の中で虚無を抱えている胎児だった。規則正しく呼吸をしている私に私は一つの命令を下した。「息を止めよ」こうして私は私が生まれる前に私にけりをつけた。
 本当にそれができたらどんなによかっただろう。実際は虚無を抱えたまま私は生まれ、こうして虚無の中に生きている。大学院に入った理由も、このテーマで研究したいという積極的なものではなかった。いわゆる現実からの逃避だった。うまく世の中に適応できないために悩み、一時の避難場所として大学院に駆け込んだのだ。大学院に入る前は地方公務員だった。父と祖母の強い要望に逆らいきれず、地元の市役所に就職した。配属されたのは教育委員会だった。そこでの新人女性の主な仕事は回覧文書を紐で綴じることとコピーを取ること、そしてお茶を入れることだった。お茶は午前十時と午後三時の二回、一抱えもある大きなやかんを提げてフロア全部の机を回り一人ひとりのお茶碗に注ぐのだった。もちろんそのフロアの女性職員が交代でするのだが、一回りすると三十分以上かかった。その後、電話に出たり書式どおりの決まりきった書類を作る仕事も加わった。
 社会教育課の係長は全身からたばこの匂いを発散させ、爪の先まで脂で黄色くなったやせた老人だった。ある時係長は私にそろばんを使わせた。私はそろばんにさわったことがある程度で、ほとんどできないといってよかった。そう言っても係長は私を自分の机の脇に座らせて数字を読み上げた。右手にたばこをくゆらせながら、心持ち背もたれにふんぞり返って大声で読み上げた。私はたばこの煙にむせび、何万何十万というわけのわからない数字を聞くうちに卒倒しそうになった。係長は私が本当にそろばんができないと知ると、満足そうに「そろばんぐらいできなきゃあだめだなあ」と言って笑った。大学を出てもたいして役には立たないんだなという口振りだった。全くそのとおりだった。「これからは電卓の時代ですよ」と言ってやる勇気も才覚も大学を出た私にはなかった。
 もちろん公務員としての自覚などつゆほどもなく、この仕事を続けていく上での志や希望も皆無だった。それがあればどんな単調な仕事でも続けられたと思うのだが。私は自分の世界にこもりたくて仕方がなくなった。休みの日はほとんど好きな本を読んで過ごした。本を読んでいる時が本当の自分だという気がした。夏が過ぎるころから、仕事を辞めて大学院に行くことを考え始めた。何の役にも立たないことをするのが自分に合っているように思われた。一方同期会での交流で何人かの同年輩の男性とも知り合いになり、そのうちの一人とは恋人関係のようになった。彼の姿を遠くから見ただけで心がときめいた。しかし、私は恋をした女を演じていただけだった。その恋も私をその場につなぎとめてはくれなかった。
 仕事を辞めて大学に戻りたいと言うと、父も祖母も激しく反対した。父と祖母は普段は犬猿の仲だったが、この件では完全に一致団結し、強力な共同戦線を張った。━せっかく入った市役所を辞める気か?とんでもない。そんなこと断じて許すものか。こんなに安定したいい職場が他にあるか。大学院なんて行って何になる?大学教授にでもなる自信があるのか?あるわけないだろう。この世間知らずが!もしそんな馬鹿なことをしたら、勘当だ。いっさい援助はしないからな。
 父と祖母は仲良く二人で私の部屋に入ってきて立ったまま交互にまくし立てた。二人ともヒステリーの傾向があって、子どものころから二人が発作を起こすところを見てきた。たいていどちらか一人がいきり立って障子を倒したり、卓袱台をひっくり返したりすると、もう一人は静まったものだが、時には二人一緒に荒れ狂って収拾がつかないことがあった。母は家の中に二人も半狂乱の家族を抱えては我慢できなかったのだろう。私が十歳の時、離婚して出ていった。
 「なんだ、こんなもの!」
 祖母が私の本棚の本を鷲づかみにして次々とベランダから外に投げ捨てた。父は見て見ぬふりをして部屋を出ていった。それでも私はがんとして折れなかった。どうしても自分のやりたい道に進みたかった。それは確かに半分は逃避だった。今の仕事とそれからこの家族から逃げたかった。父も祖母もけっして冷酷な人間ではなかった。特に祖母は世話好きで情の厚い人だった。ただその情がきつすぎて私は窒息しかけた。祖母の見返りを要求する激しい愛情はまた、父を神経症にしてしまった。私は父のようにはなりたくなかった。私は着着と家を出る準備を始めた。きっちり一年仕事をして、四月の初め恋人と友人たちに手伝ってもらって引っ越しした。わずかながらそれまでに蓄えたお金があったので、当分の生活費は何とかなった。それから一年間アルバイトをしながら勉強してもう少し学資を貯め、今の大学院に入った。父は本当に一切援助をしなかった。私も意地になってたとえのたれ死んでも、父になど頼るものかと思った。父はそうやって虚弱な私を鍛えてくれた。恋人とはしばらく手紙のやりとりをしていたが、いつの間にかとぎれた。
 九月のよく晴れた土曜日、私は一人であの公園に出かけた。前日まで秋の長雨が続いていたので、あちこちに水たまりができていた。雨に打たれて地面に落ち、くたっと張りついている葉が目についた。鬱蒼とした木々はその葉を所々黄色く染めて、高くなった空にぐんと背伸びをしているように見えた。私は池のまわりをゆっくり歩いた。池は六月に来たときより幾分透明な感じを与えた。向こうから一組の老夫婦がそろりそろりとやってきた。夫の方は足が悪いと見えて、片方の足を少し引きずっていた。妻は夫の腕をしっかり支えている。二人とも歩きやすそうなスニーカーを履いていて、そのまだ真新しい白さが私の目に飛び込んできた。白い不思議な生き物がだんだん近づいて来るという気がした。老夫婦と私はゆっくりすれ違った。
 私は人とすれ違うとき、いつも困ってしまう。駅の雑踏の中だったら、大勢の人が混ざり合っているので、それほどでもないが、こうして相手と互いに目が合う確率が高いときは、どこに視線を定めたらいいのか困って、結局うつむいてしまう。だから、私はひたすら白いきれいなスニカーを見ていた。それで、すれ違う瞬間、いや、すれ違った直後だったか、聞こえてきた声に驚いた。その声は何の変哲もない「こんにちは」という音声だったが、私はそういう事態を全く予想していなかった。声をかけたのは夫の方だったか、それとも妻の方だっただろうか。しわがれた低い声だったから、夫かもしれない。はっとしたときはもうすれ違ってしまった後で、私は応答するタイミングを外してしまった。私は振り返って二人を見たが、二人は一度も振り返らずゆっくりと確実に遠ざかっていった。
 私は急に疲労を覚えた。あいさつを返さなかったことが取り返しのつかない失態だったような気がした。この世であの老夫婦ともう一度出会う可能性は皆無に近いだろう。別にそれでどうということもないのだが、なぜか言葉を返せなかったことが悔やまれた。陽光は暖かいのに首筋が冷えて凝ってきた。かたわらのベンチに腰を下ろしたかったが、昨日の雨で濡れていた。しばらく歩いて池の片隅の四阿に入った。中ほどの切り株を模したストール状の腰掛けをなでてみると湿っぽかったが、濡れてはいなかった。そこにハンカチを敷いて腰を下ろし、右側の首筋から肩にかけてもみほぐした。高校のころから頭痛持ちで、疲れたり冷えたりすると、目の奥から頭の後頭部、首、肩まで痛み、鎮痛剤を飲まずにはいられなかった。私はショルダーバッグの中からバッファリンの箱をとりだし、錠剤を二錠口に含みそばにあった水道の蛇口をひねった。節水こまでも着いているのか水の出が悪かった。私は腰をかがめて両手に水をため、やっと大きめの錠剤を飲み下した。
 また、腰掛けにすわってしばらくぼんやりしていた。ふと気づいて空き腹に薬を飲むのはよくないと思い、バッグの中をまさぐると袋に入った煎餅が三つ出てきた。私の好きな歌舞伎揚げだった。袋を破ってバリッとかじった。その時丈高く伸びた草むらの中に爛々と光る二つの目が見えた。黒猫だった。黒猫はさっきから私の存在に気づいていたように、じっとこちらをうかがっている。よく見ると、口に茶色の毛糸のような固まりをくわえていた。私は歌舞伎揚げを咀嚼しながらそっと猫に近づいてみた。猫はいっそう緊張の度合いを高め、わずかに後ずさりしてなおこちらを見据えている。
 私は急いで口の中の歌舞伎揚げを食道に送った。それから「ニャーニャー」と黒猫に呼びかけてみた。その時、茶色の毛糸の固まりに見えたものはどうやら雀らしいとわかった。雀はすでに息の根を止められているのか、ぴくりともしなかった。黒猫はもちろん私の呼びかけを無視した。この獲物は絶対渡さないぞという気概が全身にあふれているように見えた。「猫とライオンは同じ科なんだ」私はひとりつぶやいて、また腰を下ろした。黒猫は私を恐れるに足りないと見たのか、逃げようとしなかった。私は黒猫が雀を食べるところを見てみたい気がした。とりあえず猫から視線をはずした。しばらくしてまたゆっくり首を回して猫を見ると、猫は雀を口から放して前足でいたぶっていた。その仕草はまるきり毛糸にじゃれているのと同じで、かわいらしかった。私はいつ猫が雀の頭にかぶりつくかとどきどきしていた。しかし、猫はやはり見られているのが気になるのか、雀をくわえてのそりと草むらの奥に姿を消した。私は落胆しつつもほっとした。ほっとして歌舞伎揚げをバリンとかじった。ずっとずっと昔、自分が猫だった時があったような気がした。

 五年あまりの月日が流れた。
 三十歳になった六月、私は売れない画家の卵と結婚した。彼がアルバイトをしていた学習塾で私もアルバイトをしたのがきっかけで知り合った。大学院の修士を何とか修了するにはしたが、研究者としてやっていく自信もなく、きちんとした就職をする気にもなれず、相変わらず一人で中途半端なバイト生活を続けていた。彼もそのころ好きな油絵をあきらめきれず、三十四になるのにバイトで食いつなぎながら、絵を描いていた。
 私は何よりも彼の心持ちの清潔さに惹かれた。富も名誉も肩書きも彼にとってはどうでもいいことだった。ただ淡々と自分の好きなことをやっている。カラスが鳴き、魚が泳ぎ、シマウマが草原を駆ける、そのように彼は生きている。そんな感じの人だった。
 「俺はいい絵を描きたいと思わないんだ。だいたい、いい絵ってなんだい?絵にいいも悪いもないのさ。描きたいものを描きたいように描くのが絵描きだろう。人に何と言われようとさ。絵で食えなければ、他の仕事で食うまでだよ」
 彼の画風は油絵にしてはさっぱりしすぎているように思われた。遠くから眺めると、まるで水彩画のように軽やかな感じを受けた。題材は朝靄の中の水辺の風景だったり、冬枯れのおぐらい公園にたった一輪花をつけた梅の木だったりした。彼はよくイーゼルをかついでスケッチに出かけた。一緒についていったこともあったが、つまらないのでもうやめた。彼は私がそばにいることをしばしば忘れた。
 貧乏は承知の上だった。今までだってかつかつの生活だったから、それほど苦には感じなかった。とにかくこの人と一緒にいたいという珍しく強い願望が私の中の虚無に打ち勝った。赤の他人だった者同士が狭い2DKで朝に夕に顔をつきあわせるという暮らしは、私にとって全く未知の世界だった。そんな恐ろしいことが自分にできようとは思ってもみなかった。一人の孤独と平安を自ら破ることができたことは奇跡だった。たとえ二人の孤独が一人の孤独より濃かったとしても、私は今この人を失うわけにはいかなかった。始めのうちは小さな衝突もあったが、次第に互いの生活の流儀に慣れてきて、折り合いをつけるのもうまくなった。二人の生活に慣れてみれば、これはこれでまたいいものだと感じ始めていた。互いの裸身をさらし合うことの、私にとっては革命的と言いたいほどのできごとが、私の愚かしい精神的武装を解きつつあった。
 しかし、彼はそれほどさわやかな好青年というわけではなかった。風景画ばかり描いているのかと思っていたら、わけのわからない絵もたくさん描いていた。スカイブルーの背景に黄色い幼虫のような細長い筒状のものが描かれていた。何かと聞くと、走査顕微鏡で見た白癬菌だと言う。白癬菌というのは、つまり水虫菌のことだ。高校の教師をしている友人に頼んで顕微鏡を覗かせてもらってスケッチしたという。そのほか、翡翠色の皿に盛られた大腸菌の絵や、赤い絨毯に寝そべるノミの拡大図もあった。一時期こんな「静物画」ばかり描いていたので、どこのコンクールでも相手にされなかった。なぜそんなものを描くのかと聞くと、「無限」を感じるからと答えた。彼の言う「無限」が何なのか今もよくわからない。でも、彼のその変なところがまた気に入った。私は今まで誰にも話したことのない本当の自分の言葉でこの人に語りかけようとしていた。
 そんな秋のある日、私は久しぶりでO先生の公開セミナーに参加した。そこで偶然玉木ゆかりに会った。ゆかりは故郷の長野の大学で非常勤講師をしているという。私はゆかりの肌に刻まれた五年という歳月の刻印に驚いた。四十と言えば、決して若くはないが、ゆかりのそれまで私の胸に刻まれていた印象からはあまりにも遠くなっていた。整った輪郭はそのままだったが、全体に肌がくすんで何となく生気がなかった。ゆかりが正式に離婚したことは津島から聞いてすでに知っていた。津島とは自然消滅のようになっていたので、二人に間には何のしこりもなく、その後も友人としてたまに連絡し合っていた。
 「高田さん、結婚したんですってね。おめでとうございます」
 ゆかりはあまり力のない微笑を浮かべて言った。
 「どうもありがとうございます。阿蔵という変な名前になっちゃいました」
 「阿蔵さん。いいお名前じゃないの」
 美香のことを聞くと、もう四年生になったが、漫画ばかり読んで近視になりかかったので漫画を取り上げたとか、バイオリンのレッスンをさぼってばかりいるとか話してくれた。元気にやっているらしかった。ゆかりは話しながら笑い声をたてたが、それは今までのゆかりの笑い声とはなんとなく違うように聞こえた。
 「ほんとに早いわねえ。津島君なんかどうしてるかしら。連絡ある?」
 ゆかりは五年の歳月をかみしめるように言った。
 「ええ、実家の旅館の若旦那やってるみたいですけど、そのうちドイツへ行くようなこと言ってましたよ。いいですよね。老舗旅館の御曹司は」
 「ほんとにね。私も二年前に半年行ってたけど、すっかりお金なくなっちゃったわ」
 駅までの道をゆかりと歩いた。ゆかりは飾り気のない茶色のセーターに大きめのペンダントをし、グレーのスラックス姿だった。私はえんじ色のニットのスーツに薄いコートを羽織っていた。陰影の濃い秋の夕暮れに二人の長く伸びた影が時々重なった。澄んだ冷たい空気が咽喉から肺に入ると、わけもなく悲しくなった。どこかでたき火でもしているのか、煙が漂ってきてつんと鼻にしみた。
 ゆかりは秋の寂寥に抗するように声を発した。私にある提案をしたのだった。それはあるドイツの小説家の作品を一緒に翻訳しないかという話だった。翻訳物を出している出版社にコネかあるから、共訳して出版しようというのだ。雲をつかむような話だった。そんな話に飛びつくほど楽観的にはできていなかった。
 「せっかくですが、私、とてもそんな自信ないし、きちんとした監修者がいないと・・・」
 私は言葉を濁して暗に断った。彼女が傷つくような言葉もあえて添えてしまった。彼女は考え深そうな目をして笑ってうなずき、それ以上強引には勧めなかった。駅が目前に見えるとゆかりは気を取り直したように言った。
 「ねえ、ちょっとそのへんの喫茶店でコーヒーでも飲まない?ごちそうするわ」
 「すみません。今日はちょっと用事があるもので・・・」
 私は心底申し訳なさそうに頭を下げた。
 「そう。残念ね」
 ゆかりは少し首を傾げて私を見た。
 「それじゃあ、ここで」
 私はお辞儀をして彼女と別れた。茜雲を背にわずかに微笑んでいる彼女の姿が妙に小さく見えた。本当は用事などなかった。その時は彼女に十年前のお返しをしようなどというつもりはなかった。しかし、後になって考えてみれば、私の無意識の層によどんでいた過去の思いが自分でも意識しないうちに表面にのぼってきたのだろう。今日は用事があるという言葉はほとんど反射的に口をついて出た。彼女のように露骨に相手を無視したわけではないので、ほんのささやかなお返しにすぎなかったはずだ。しかし、けっこう応えたに違いないという確信があった。そのくらいは許されるだろうと思った。あの時の屈辱を思えば。
 私はゆかりとは反対方向の電車に乗った。家路をたどりながら、ゆかりは今ひどく焦っていると思った。何の実績もない私などを誘うとは、よほど気持ちの上で思い詰めているのではないだろうか。非常勤講師の境遇からはい上がろうと必死なのではないだろうか。今日のセミナーの合間にも国立大の助教授になったばかりのKさんに何か相談していたようだった。秋の澄んだ光の中に彼女の深刻そうな横顔が見えた。
 それきりゆかりからは何の連絡もなかったし、こちらから連絡する用事もなく月日が流れた。私はある小さな出版社で正社員として働いていた。校正が主な仕事で、おもしろくはなかったが、生活のため、愛する夫のためにがんばろうという気になっていた。夫は相変わらず塾のバイトしかしていなかった。昼は絵筆を握ってカンバスに向かう毎日だった。今は激しい雨にけむる森を描いている。この絵の構図を得るために彼はわざわざ雨の日に何回も奥多摩に出かけていった。
 「俺はただそれっぽく写実的に描こうとは思わない。といってわざとデフォルメするのも好きじゃない。たとえば、この森。雨に降り込められて黒い固まりのようだろう。全体に暗く不気味な感じ。けど、光は射している。どんなに激しい雨でも夜じゃないから、光を感じさせなきゃいけない。それに森の中では至る所に命が芽吹いている。この黒い幹の中にも命は流れているし、葉の隅々まで命は息づいている。その命を描こうとすれば、最後はやっぱり技術の問題じゃなくなる」
 「というと、魂とか精神的な問題?」
 「そう思う?俺は違うと思うんだ」
 じゃあ、何なのかと聞いても彼は答えず、逆に質問してきた。
 「君は今この絵を見てどう思う」
 もやもやした灰白色の空を背景に風雨にしなった黒っぽい枝や鬱蒼と茂った葉が、手前の画面になるほど細かく異なるタッチで描かれていた。
 「ううん。よくわかんないけど、混沌としたものを感じる。この森から何が生まれるかわからないという。命かもしれないし、破壊とか死かもしれない」
 「うん。そうそう。命と死はつながってるんだ。別のものじゃないんだ。それは精神的な問題じゃなくて、もっと体の感覚の問題だと思う。俺はそれを描きたいんだ」
 「ふうん、体のねえ。よくわからないわ」
 私は夫の広くて温かい胸に抱かれた。幼児のようにすっぽり抱かれて、夫の耳元でささやくのが好きだった。
 「昔々あるところに貧乏でへたくその絵描きがいました。絵描きは毎日毎日一生懸命絵を描きましたが、なかなか認められませんでした。それでも、絵描きは毎日絵を描き、『俺は朝起きるとすぐ絵を描きたい気持ちになる。だから、もう立派な画家だ』と威張っていました。絵描きには優しく聡明な奥さんがいて・・・」
 そんなたわいのない話を止めどなくする私の口を夫はいつも自らの唇で封じた。
 年が明けて、一月の最後の日曜日だった。夜九時ごろ電話が鳴った。少しかすれた女性の声だった。
 「阿蔵さんですか。あのう、岡田と申しますが、由美子さんですか」
 「はい、そうですが・・・」
 「私、ゆかりです。玉木ゆかり。今は旧姓に戻ってるもので」
 私はあわてて口の中の小さくなっていたのど飴を飲みこんだ。
 「あの、ちょっとあなたにお願いがあってお電話したんですけど」
 私は何事かと思い、受話器を握った手に力が入った。
 「あのね、私B社の木村さんていう人に本を二冊借りてるんです。ずいぶん前に借りたのでちょっと返しにくくなってしまって。申し訳ないけど、あなたから返してもらえないかと思って。ごめんなさいね。こんなこと頼んで」
 B社の木村さんには一度だけ会ったことがあった。
 「いいえ。別にかまいません」
 「ほんと?じゃあ、あなたの方へ本を送りますから、そうしてもらえるかしら」
 「ええ、いいですよ。わかりました」
 ゆかりは静かな口調でありがとう」とつぶやくように言った。私が「お元気で」と言うと、「あなたも」と返した。
 電話はそれで切れた。その時私は全く能天気な極楽とんぼだった。電話の向こうの彼女の心中には何の注意も払わなかった。第一、本を送り返すなどというやる気さえあれば彼女自身でできることをどうしてわざわざ他人に頼んだのか、そのことをいぶかしく思うことすらしなかった。
 二、三日後にさっそく彼女から本が送られてきた。私はB社の木村さん宛に簡単な事務的手紙を書いて、そのドイツ語で書かれた本を丁寧に包装した。我ながらきっちりときれいに包装できて気持ちがよかった。しっかり宛名書きして郵便局へ行き、これで頼まれた用事を済ませたとばかり安堵した。
 やけに冷え込むと思ったら次の日、東京には珍しく雪が降った。一晩のうちにたちまち五センチの積雪を見た。私は久しぶりに見る白い世界に興奮した。降り積もる雪を窓から眺めていると時間を忘れた。
 それから二週間ばかり過ぎたある日の午後、津島から電話があった。津島の声は妙に低くくぐもって聞こえた。
 「おい、玉木ゆかりが死んだよ。一昨日のことらしい。飛び降り自殺だ」
 「えっ」
 私は絶句した。信じられなかった。
 「彼女、両親とは別にマンション借りてたらしいんだ。そのマンションの屋上から・・・」
 「じゃあ、美香ちゃんは無事だったのね」
 「ああ。彼女、この何週間かは子どもを両親に預けて一人で生活してたらしい。両親と娘にあてた短い遺書があったそうだ」
 私はゆかりに最後に会った日のことを思い出した。ゆかりの姿が何となく小さく見えたのは気のせいではなかったのだ。私はあの時彼女に思いがけずきつい一撃を与えてしまったのではないだろうか。じりじりと少しずつこの世から後退しつつあったゆかりに。そして、つい二週間前の電話。
 津島からの電話を切った後、しばらく呆然としていた。次第に頭の中に彼女の電話の意味が浮かび上がってきた。あれはゆかりからのサインだった。彼女が私に何かを期待したとは思えないが、やはり、一つの明確なサインだったのではないだろうか。
 それなのに、私は全く気づかなかった。いともあっけなく彼女の頼みを聞き入れてしまった。なぜ、どうしてわざわざ私に頼むのかと尋ねもせずに。きっと彼女は受話器を置いて寂しく微笑したことだろう。駅で別れたあの時のように。
 そして、あのドイツ語の本。誰が書いた何という本か気にもとめなかったけれど、もしかしたら、あの二冊のうち一冊はゆかりが一緒に翻訳しようと言った本ではなかったのか。彼女は命を絶つ前に、わざわざそれを私に送りつけ、私を非難したのだろうか。たとえ、非難の意味が込められていたとしても、その非難は正当ではない。そもそも無理な話だったのだから。しかし、彼女が私のした小さな復讐に気づいていたとしたら、いや、きっと気づいていたに違いない。ゆかりは誇り高く鋭敏な神経を持っていたはずだ。だからこそ、生き続けることができなかった。
 すべてに恵まれているということは同時に決定的に何かが失われているということなのだろうか。だとしたら、恵まれていることの不幸と恵まれていないことの幸福にもっと早く気づくべきだったのだろうか。十年前、おずおずと話しかけてきた暗く地味な若い女を、すべてに恵まれた快活で美しい女が無視した。その時傷ついたのは、暗く地味な女の方だとばかり思っていた。ところが、本当に深く傷ついていたのは、すべてに恵まれた快活で美しい女の方ではなかったか。彼女は自分でも気づかぬうちに心の大事な部分に傷を負い、その傷はじわじわと彼女自身をむしばみ、やがて滅ぼしていった。彼女の心にはそんな傷が無数にあったのではないだろうか。彼女はひそかにそれを悲しみ、苦しんだのではないだろうか。そう思うと、今までで一番身近に親しくゆかりを感じた。
 いつの間にか夕闇が部屋に満ちていた。私はぐったりと重い腰を上げた。ふと、美香の面影が脳裏に揺れた。父と生き別れ、母と死に別れた十歳の少女。肩まで伸びたさらさらの髪を今も風になびかせているだろうか。
 私は夫の描きかけの絵に目を凝らした。『雨にけむる森』は夕闇の中でひときわ暗く濃い闇そのものに見えた。夫はこの闇の中に命と死とふたつながら描き込もうとしている。人はみな羊水という水の闇の中から暗い産道をまっさかさまに落ちてこの世に生まれてくる。そして、いつかまた水の闇に還る。
 ゆかりもまた一人でそこへ還っていった。彼女の抱えていた虚無は途方もなく大きくふくれあがって、彼女自身を飲み込んでしまった。私の抱えてきた虚無も消えてなくなったわけではない。すきあらば、いつでも私をとらえて飲み込もうと待ちかまえている。次は私がゆかりになるかもしれなかった。私にはその資格があった。
 次第に濃さを増す夕闇の中に私は一人立ちつくした。
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