第1話

文字数 5,053文字

 空は灰色の雲に覆われていた。山の中腹は立ち昇る白い(もや)に隠されている。その山中で、男は大岩にもたれて座り込んでいた。遠雷を聞き、一度空を見上げて、またうなだれる。
「はぁ……」涙がにじむ。
「ショウ! ショウじゃないか!」
 いきなり声をかけられて、男はギョッとした。声の主を振り返って、凍りつく。
「ショウ、ここんとこ見なかったから心配してたんだぞ。こんなところで何してんだよ」
 痩せた男が親しげな笑みを(たた)えて歩み寄る。
 男は飛び上がった。痩せた男が寄る歩に合わせて、一歩、二歩と後ずさる。
「ひっ……! 人違いです!」
「どうした、ショウ。俺だよ、リュウだよ。あっ! ショウ!」
 男は、バサン! と茂みに飛び込んだ。リュウが立てば首が出るほどの深さだが、ずんぐりむっくりした小柄な男は、頭の天辺まですっぽりと隠れてしまった。猛スピードで遠くなる草の音を残して、男は姿をくらませた。

「絶対ショウだよ……」
 リュウはその足でショウの家を訪ねていた。
 何度木戸を叩いても返答がない。
 声をかけながら、きしむ戸をゆっくりと開ける。ひと部屋しかない掘立(ほった)て小屋だ。首を突っ込んで見回せば分かる。
「いない……やっぱ、ショウだよ……」
 ゆっくりと戸を閉める。ギギ、と音が鳴る。
 ぽつり、と生ぬるいものを頬に感じて、指の背で拭いながら、リュウは空を見上げた。
「降ってきたよ、ショウ。なんでだよ……」

 男は走り続けていた。落ちている木の枝や石や、地面から這い出た木の根に何度もつんのめっていたが、とうとう、もんどり打って宙を飛び、背中をしこたま地面に打ちつけた。
「うっ!」
 しばらく息がとまる。
「ぅ…………ぅぐうぅ……いってえぇ……」
 ゆっくりと体を横に向けて、土に手をつき、男は身を起こそうとした。
「あっ!」
 握りしめていたはずの左手が薄く開いていることに気づく。慌てて飛び起きて地に這いつくばり、キョロキョロと辺りを見回す。
「あった……」
 うねる太い木の根に引っかかっていたのは、小さな巾着袋。金糸銀糸で刺繍が施してある。端の裂けた辛子色の帯を腰に結び、擦り切れてくすんだ土器色(かわらけいろ)の着物を身につけた男には似つかわしくない絢爛(けんらん)さだ。
 これ失くしたら元も子もないよ……。
 胸もとで、ぎゅうっと手の内に握りしめる。
 でも、どうしよう、これから……。
『貴公は今、幸せか』
「えっ!」
 微かな声が耳をかすめて、男は辺りを見渡した。
「誰、リュウ? どこ、誰……」
『幸せなのか』
 男の声だが、リュウじゃない。誰だ。
「幸せじゃないよ! だから、これを」
 言いかけて、ぐっと言葉を呑む。
『貴公の幸せとは何だ』
「僕の、幸せ…………お、おいしいもの、お腹いっぱい、食べて……」
 声が、どかっと笑った。男は胸の奥に重苦しい衝撃を感じた。
「は……腹いっぱい食べられない切なさを知らないから笑えるんだよ!」
『ふ、まあいい。だがな、貴公は自分が何をしでかしたか分かっているのか』
「何って……僕は、何も、してません、よ……」
 ぐっ、と手の内の巾着袋を握りしめる。
「だ、だいたい誰なんですか、どこから話しかけてるんですか。卑怯ですよ、姿を見せないなんて」
 誰だか分からないが、味方とは思えない。なんとか少しでもマウントを取りたい。
『おいおい。須弥山(しゅみせん)の頂上からでもどこからでも、私の目にはすべてお見通しだ。どこであろうと会話は神通力で事足りる。出向く必要などないのだよ。貴公のいる辺りは、ちょっと磁場が悪いようでノイジーだが』
「千里眼……」
 男は、浮かびそうで浮かばない答えを探した。左から右へ、右から左へ、忙しなく視線を移す。そうして、ゆっくりと目を剥いた。
広目天(こうもくてん)様!」
 天を見上げる。灰色の空に、ゴロゴロと大岩を転がすような雷鳴が聞こえた。
 雷神様……まさか、僕を、狙って……駄目だ、広目天様に見つかった。雷神様も僕を倒す(めい)を受けているかもしれない……いや、でも、小柄な体を茂みや木々に隠しながら行けば姿は見えないはず。いくら広目天様だって……そうだ、ステルス作戦だ。
 男は跳ね上がり、また走り出した。
 ズザッ! と音を立てて、いきなり何かが前を横切った。男は急にとまれなかった。行きすぎて、走りながら後ろを振り返る。
「何……」
 広目天様じゃない。広目天様は須弥山の頂上から僕を見ているだけだ。
 また、ザザッ! と何かが前を横切り、男は行く方向を変えざるを得なかった。
 頂上へ誘導されている……。
 分かってはいたが、(きびす)を返そうとするたびに阻まれて、思い通りに方向転換することはできなかった。
 このままじゃ思う壺だ。どうしよう……。
 でもどうしようもない。男は疾走し続けた。
「ぐ……が、ぁ……」
 息がとまったのは分かっていた。だが足をとめることができなかった。喉の奥が千切れそうになって、頭の芯がビリビリして、腰が砕けて、やっと地面に転げて倒れ込めた。
「がはっ!」
 血反吐(ちへど)を吐く。地面に頬がついたまま吐いたので、口の周りはもちろん、頬や鼻先まで血や汚物がついた。土も汚れたが、倒れたままのほうが頬が冷たくて気持ちいい。多少臭うが自分のものだ。そんなことより、もう、起き上がりたくない。
 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。
 なんで、なんでこんなことになったんだ。幸せになるはずだったのに。そのためにやったことなのに、なんで……。
 はぁ、はぁ、んぐ……はぁ、はぁ……。
 静かだ。鳥のさえずりも聞こえない。いや、遠雷が聞こえる。そういえば、頬に雨粒が落ちてくる。そう思うと、雨にさわさわと揺らぐ葉っぱの音が聞こえている。ああ、少し落ち着いてきたかな……。
 はあ……はあ……はあ……。
『限界かね、小鬼くん』
 男は、ガバッ! と半身を起こした。
 だが、それから動けなくなった。体のどこにも力が入らない。
「誰……」
『誰だと思うね』
 さっきの声とは違う。やはりどこから聞こえてくるのか分からない。やけに腹の底に響くのは、男の腹に力がないからだ。だが男は、力の入らない、その腹の底から声を絞り出す。
「馬鹿にしないでよ……」
『まだ逃げるかね』
 ふん、と、せせら笑うように聞こえた。
「僕は……僕は…………捷疾鬼(しょうしつき)だよ!」
 弾かれたように跳び上がり、またダッシュする。
 僕は羅刹(らせつ)だ。小さな鬼だ。でも鬼のなかでは一番足が速いんだ。幸せになるんだ、幸せになるんだ、幸せになるんだ!

「ショウが俺を避けてるみたいでさ……」
「なんや、リュウ。おまえ、知らんのか」
 訛りのある男は、懐から煙管(きせる)を取り出した。
「え、何をだよ」
「ショウが牙舎利(げしゃり)を盗んで追われてるんやて」
 煙管の先に、丸めた刻み煙草を詰める。
「うえええぇえぇぇっ! おおおおお釈迦様のぉおおぉご遺骨をぉおおおぉおぉ⁈」
 釈迦の遺骨を仏舎利(ぶっしゃり)という。牙舎利とは、仏舎利のうち、特に(あご)の骨や歯を指す。
帝釈天(たいしゃくてん)様、バク(いか)りらしいで」ニタニタと。
「帝、釈、天、様、が……」
 焦点の合わない、リュウの(まなこ)(かげ)りが差す。
「仏舎利持ってたら幸せになれるて、やっぱ迷信やってんなあ」
 男は、煙管の先に火をつけた。
「混乱して俺からまで逃げようとしたショウが幸せなわけないよ。夢だよ夢。現実は、帝釈天様に捕まって、裁かれて、ううぅ……」
 握りしめた両の拳をブルブルと揺らす。
「阿呆やな、あいつ。何がしたいねん」
 ぷわん……と煙草の煙を輪にして、そのあと、リュウに吹きつける。
 咳き込みながら、リュウは煙を払った。涙を浮かべていたのは煙のせいなのか。

『きみの幸せとは何だね! 私に追われることかね! ならば望み通りの幸せ者だね! あっはっは!』
 姿も見えない速さ。翻弄されるばかり。この人は、僕なんかより、何倍も、速い……。

韋駄天(いだてん)様がショウの捕獲に走ってるらしい」
「韋駄! ……天……様……」
「ヤバヤバやねえ」
 コン! と煙管の先を岩に打ちつけて灰を落とす。
「いこう……須弥山の頂上……帝釈天様のいる……善見城(ぜんけんじょう)へ……」
 (うつ)ろな目で、煙管男の首根っこをつかむ。
「あわわ。こら、行ってどうすんねん。煙管落としたやないか。拾わせろ、こら」
「どうするかは空を飛びながら考える!」

『そろそろ出てこいよ、小鬼くん。牙舎利を返せよ。それとも、こっちから出向いてやろうかね。この韋駄天様が、直々に』
 やっぱり韋駄天様だったのか。無理だ。いくら僕でも敵うわけがない。お終いだ。羅刹のなかでは一番に足が速い僕だけど、韋駄天様には遠く及ばない。ただ幸せになりたかった。それだけだったのにな……。
 つっ、と涙が流れた。それでもなお、走り続ける。
 鬼ごっこに飽きた韋駄天は、小鬼の前に躍り出た。がし! と捕まえて、ぶん! と放り投げる。小さな鬼は厚い黒雲の空に、高く、遠く、放物線を描き、力なくどさりと落ちた。
「ぐう……」
 どれだけ飛んだ。薄く開いた目の先に見えたのは、硬そうに黒光りする(すね)当てだった。
「よく来たな」
 あの声だ、広目天様。ということは、ここは須弥山の頂上。
「イテテてて! こら、煙管が」
 ふたりの男がバタバタと城の庭に走り込む。
「ショウ!」
「リュウ⁈」
 韋駄天が、リュウの腕をつかんで制する。
「何で言ってくれなかった! 何であのとき逃げたんだ! 俺が信じられないのか!」
「違う……リュウ……巻き込みたく……なかっ、た……」
「ショウ……」
 パオーン! と響いたひと声に、人々が慌てて平伏した。声の主は白い象だった。背を覆う金襴緞子(きんらんどんす)の鞍敷が、光を七色に跳ね返す。だが人々は象ではなく、象の鞍に鎮座する人物に平伏していた。荘厳で煌びやかな鎧に身を包み、六牙の白象に乗って現れたのは、帝釈天だった。
「仏舎利を供養すれば幸福を得らる。ゆえに仏舎利は皆の目に触れるところに安置する。それを独り占めしようとは、御仏(みほとけ)の心に反することぞ。感心せんな、捷疾鬼」
 数多(あまた)の悪神に立ち向かい、激しい戦いに必ず勝利してきた最強神。金剛杵(こんごうしょ)から放たれる稲妻が剣を形づくっている。その剣先で小鬼を指し示すと、空気が、びしりと音を立てた。
「そう……です、よね。改めて、それを、聞いて、今、自分勝手だったと、思って、いま、す。皆さんには、ご面倒を、おかけ、しま、した。すみません、でした。だから、どんな、罰でも…………受け…………ます…………」
 僕が幸せになどなれるわけがなかった。浅はかだった。もう疲れた。ただ、罰が、怖い。
 ショウはうなだれた。首の根があらわになった。反吐で汚れた頬に、涙はなかった。
「帝釈天様!」
 リュウが韋駄天を押し退けて前へ出る。韋駄天は、とっさにリュウを羽交(はが)()めにする。
「聞いてください! 帝釈天様! こいつは馬鹿で! 阿呆で! 親が仲悪くて! ほんとうにほんとうに不憫(ふびん)なやつで! チビで! 不細工で! 彼女もできなくて! ほんとうにかわいそうなやつで! だから、だから、幸せになりたくて、こんなことを……こんな……」涙が噴き出す。「許してやってください! お願いします! お願いします! お願いします! お願いします! お願い……」
 リュウは韋駄天を振りほどき、白い玉砂利に額を擦りつけ、何度も何度も『お願いします』と繰り返した。涙に震えるその声は、息が続かず、次第に消え入り、(うめ)きに変わった。
「リュウ……」
 こんなに愛されていたんだ。僕は幸せだったんだ。それに気づかされた今、僕は幸せだ。もうどんな罰だって怖くないよ、リュウ。
「広目天。こやつの、これまでの暮らしぶりを見通せるか」
「この男が言った通りです。親は自分たちのことで精一杯で、小鬼のことなど目もくれず。天界初級者研修所(てんかいしょきゅうしゃけんしゅうじょ)での成績は最悪、女にはモテない、近所の犬には吠えられる……」
「あああ、もういい、もういい」
 帝釈天は苦笑した。
「仏舎利は皆のものだ。すなわち小鬼のものでもある。慈悲深い御仏がこの場におられたなら、こう(おしゃ)るであろう。無罪放免、とな」
 庭じゅうに、野太い笑い声を響かせる。
「え……」
 ショウは口を開け、だらりと弛緩した。
「ああああああありがとうございます! ありがとうございます! ショウ!」
 リュウは走った。やっと立ち上がったショウに体当たりを食らわせる。弾き飛ばしたショウが転ばないように受けとめ、力いっぱいに抱きしめ、声を上げて泣いた。先に泣かれて、ショウは泣けなくなってしまった。だが泣く代わりにショウは、リュウよりも、ずっとずっと強い力でリュウを抱きしめていた。
 牙舎利の効果は絶大だった。
(了)
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