第1話

文字数 1,998文字

 河川敷は緑にあふれていた。丸く削られた石々の隙間からも、小さな緑があちらこちらで顔を出し、川は非常に綺麗で、光が反射する様は美しい。川と平行して走っている遊歩道では、桜が満開だった。数え切れないくらいの桜が花びらを風に舞わせ、見る者を夢見心地にさせた。水も空気も思っていた以上に病気療養に向いている。兄さんの病気も少しは良くなると思いたい。
 新しく入学する予定の中学校を目指すため、横道に入った。石造りの古い屋敷が続く。細道に足を踏み入れ、少し湿った空気を吸うと、昨夜の小雨の名残がまだ壁や塀に沁み込んでいるのが分かった。
 途中、小さな店を見つけた。細道の奥まったところにある建物は、白いペンキで壁を不器用に塗っていた。楕円形の煤けた看板には『カラメル屋』と書かれてある。大きな窓から覗いてみると、左奥が喫茶店のカウンターになっていた。紺色の制服姿のひとりの少年が、女店主と親しげに話しをしている。視線を右に向けると、レースのカーテンを透かして棚が見えた。が、そこに何があるのかはカーテンが邪魔で見えない。部屋の中央に、天井から下げられた銀のモビールがある。ロケットや天体などをモチーフにしたものだ。また、窓際には人の頭一つ分ほどの大きさの地球儀と天球儀が左右に一つずつ並んでいて、よくよく見ると、数多くの粘土細工の人工衛星を針金の先に止めたものを地球儀に挿し『本物』を再現しようとしていた。
 気がついたら、店の戸を押していた。中は、さらに驚きに満ちていた。外から見えた木製の棚には、様々な鉱石が並んでいた。ちんまりとそれぞれの色に合った正方形のフェルトの上に鎮座している。中でも、美味しそうな紅茶色をしたシトリンに魅力を感じた。様々な棚に並ぶ鉱石や化石、外国切手、望遠鏡、顕微鏡、カレイドスコープ、少し値の張るプラネタリウム、古びたオートマタ、ロケットの模型、蝶の標本、ピエロの操り人形、様々な大きさの地球儀や天球儀、洒落たモビール、貝殻、山型ラジオ、円盤型のオルゴールなど。棚自体は安物に見えるのに、並べられている数々の商品には無限の価値を感じた。声変わり前の少年の軽い笑い声が、店の奥から聞こえてきた。
「……じゃ、僕もう帰る。星拾いの日だから」
 ガタンと椅子から立ち上がる音がした。鉱石の棚の後ろに急いで隠れたが、あっさり見つかってしまった。少年の制服は、貝のボタンと肩に金色の房飾りのついたブレザー。この辺りの中学校の中では洒落ていると評判の制服だ。シャツの襟に一本の黒い線が縫い付けてある。一年生だ。彼は、黒目がちな大きな目で僕を見る。好奇心旺盛な様子で。黒髪のおかっぱで、日本人形のようだ。背も低いので、こちらを見上げる形になった。不思議そうに首をかしげていた彼は、やがて柔らかな笑顔になる。
「これを、ソーダ水に入れて飲んでごらん」
「えっ?」
「シトリンだよ。疲労回復に効く」
 少年は『Aはアップル・パイだった』を愉快に口ずさみながら店から走り去った。
 飴色のシトリンは、硝子の小さな泡沫が封じ込められていた。奥のカウンターに、ソーダ水がストロー付きのグラスで用意されている。店主はいない。あの少年は、誰と話していたのだろう? カウンターには『ソーダ水は、サービスです』という紙が一枚置かれていた。さらに『シトリンには、疲労回復効果があります』と続く。渡されたまま強く握りしめていたシトリンが、生きているように熱を持ってきた。怖くなってきて、ソーダ水にシトリンを放り込んでしまった。シトリンは、火花のように綺麗に弾けつつも、バターのようにとろりと溶けていってしまう。あぁ、病気の兄さんに効いたかもしれなかったのに! でも、毒見の必要はあるだろう、と言い訳して一口だけ飲んでみた。喉に絡まった蜘蛛の糸のようなものが、疲れと共にさっぱりとした味に解けていく。僕は、自分でも知らずに疲れていたのだ。兄さんの体調が思わしくなくて、心配ばかりの毎日の上に引っ越しの疲れも重なって。あの少年は、それを見抜いたのだろう。シトリンは、僕のためにくれたのだ。最後の一滴まで感謝しながら飲み、ふと空になったグラスの底を見ると、小指の爪の大きさほどの青い鉱石が沈んでいた。
 兄さんは「綺麗な海の色だねぇ」と、僕が持ち帰った青い鉱石に見惚れていたかと思うと、迷うことなく口に放り込んでしまった。結果、兄さんの喉はすぐに治った。が、体が青白く光り始めてしまい、「こんな副作用、初めてだ!」と兄さんが久しぶりに笑う。
「今度、その店に連れて行ってくれないか?」
 奇跡かと思った。ずっと寝たきりのような状態だったから。
「なんで泣いてんの?」
 兄さんに言われて気づく。
「なんでもない!」
 拳で涙を拭う。あの子に、お礼を言いたい。僕は、まだ彼の名前も知らない。

                             了
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み