第一話

文字数 8,219文字

 実を言いますと、この手の話は昔から日本各地に有ったりします。
 「想いの柱」であったり「両想いのベンチ」であったり「祟りの壁」であったり。時代や当時の流行りで、呼び名や効果は違いますが概ね、こんな話です。川に掛けられた木造の橋の一番太い柱に意中の人の名を刃物で刻むとその人と結ばれるとか、ある神社の境内にある物置小屋の土塀に人の名を刻むと刻まれた人は不幸に見舞わられるとか、強い念を込めて相手の名を刻むことでその相手に何だかの変化を与えるというものです。
 人間とは面白いもので、よくある話、他愛もない話だと思えば、気安く真似をするものです。特に自分よりも先に同じことをしている人がいれば、安直に名前を刻みます。私なぞは無数に名前が刻まれたベンチを目にした時には、恐怖で吐き気を堪えるのに苦労しました。
 今回、私が話すのは、ひょんなことから若者にレトロな街並みがエモいと言われ、慌てて観光化を図るにわかの商店街にある黒漆喰の壁の話です。

 その町は元々、その地を治めていた大名の菩提寺を囲む寺町であって、集まってくる若者やそれ目当てで空き家を改装した飲食店の店主の言う「昭和レトロ」にはそぐわない、歴史のある町でした。しかし、彼らは狭くて歪に曲がる道路が家屋の近代化を阻み、少しずつ手直しされた建物を昭和レトロというのかもしれません。そんなトタン張りの家屋の並びの中にこじんまりとした屋敷があります。その屋敷は大きな物ではないですが、漆喰の壁に瓦の乗った塀に囲まれていました。大金持ちの住居というよりも所の名士の住居といった面持ちです。今は、有名パティシエの下で修業したという店主のスイーツ店になっています。本当のところは屋敷の改装で手一杯で漆喰の塗り直しに手が回らなかっただけなのですが、古ぼけた黒漆喰の壁は所々に石か何かで削った落書きがされていて、若者の言葉で言うところの「エモい」と人気を集めております。その落書きというのが、私などの世代でも懐かしい相合傘の落書きであります。下品な言葉を汚らしく書かれているのではなく、ささやかな相合傘が所々彫られている壁は、若者でなくてもエモく見えるものでした。当然のように相合傘の数は増えていきますが、店主も気を良くして見て見ぬふりをします。なので、瞬く間にそのスイーツ店は世間の話題のお店になりました。
 何故、私なぞがそんな洒落た洋菓子店を知っているのかと言いますと、私の行きつけの居酒屋、今で言う昭和レトロの居酒屋で知り合った女性に教わったのであります。
 その女性は二十代後半なのか、三十代前半なのか、将来も考えているが今を楽しみたいといった年頃の女性で、私の行きつけの居酒屋にも独りで来て、お酒を飲みながら誰彼となく常連と話しておりました。その女性を仮にユミ子としておきましょう。ある日、店内で出身地の話になりました。その居酒屋は小さな店でしたので、一所で盛り上がる話が出れば、店全体の話題になったりします。常連の一人に出身地を訊ねられたので、私が所の名を口にするとユミ子がその洋菓子店の話を始めたのです。その寺町が、二度と帰ることは無いのですが、私の生まれ育った町なのです。
 ユミ子は高校時代からの友人、こちらも自由な独身を謳歌している女性、と週末に話題の名所を回ることを楽しみの一つとしていました。その寺町の洋菓子店にも、その友人と二人で出掛けたそうです。寺町の外に自動車を止めて、歩いて古い寺町に入って行く。目的の洋菓子店には迷うことなく行き着いたそうです。若者が何組も歪に入り組む町の中を歩いて行くので、それらに付いて行けば目的地に辿り着いたと言います。昔を知る私には、迷わずに屋敷に行き着くことも、多くの若者が闊歩していることも、信じられませんでした。そうして行き着いた洋菓子店には何組もの若者が列をなして、ユミ子たちも二時間待って名物の焼き菓子を食べてきたそうです。ユミ子はそんな話をすると、焼き菓子の写真や話題の古い黒漆喰の壁で撮った記念写真をスマートフォンで見せてくれました。その写真の中には黒漆喰の壁に彫られた相合傘だけを撮った写真も幾つかありました。
それらの写真は、私の見知った屋敷のものでした。ユミ子が話し始めた時から、私の頭にはあの屋敷であると確信しておりました。それほど、地元では有名な屋敷だったのです。
 私はユミ子の話を一通り聞いてからユミ子に訊ねました。
 「君はその漆喰の壁に名前を刻んだのかい」
 「ええ、刻んできたわ。さっきの写真の中にもあったと思うけど。残念ながら私も友人も恋人らしき人がいないので、私たち二人の相合傘を刻んできたわ」
 ユミ子は一瞬、私の質問の意図を知りたそうな顔をしましたが、周りの常連に恋人のことで冷やかされたので、話題はそちらに移っていっきました。私も相合傘の相手が女性だと知って、ユミ子に続きを話すことはしなかったのです。しかし、私は後にそのことを後悔しました。
 次にユミ子がその居酒屋に訪れたのは一週間後でした。ユミ子は店の縄のれんをくぐると、店内を見廻して真っ直ぐ私の隣の席に座りました。私が驚きながらも挨拶をすると、ユミ子は挨拶もそっちのけで「あの壁に何かあるの?」と言ったのです。私はユミ子の顔を見て、彼女に何やらあったことを察しました。彼女の顔は、化粧で隠し切れない疲れた顔をしておりました。私は多少の不安を感じて、ユミ子に訊きました。
 「君は何やら疲れているみたいだけど、君こそ何かあったのかい?」
 ユミ子は一瞬、考えてから「何もないわよ。それよりも、あの壁に何があるのか、言いなさいよ」と言いました。なので、私の知っていること、というよりも当時、噂になったことをユミ子に話して聞かせました。私は話し始める前に「私の知っていることを話すから、君のことも聞かせてもらうよ」とユミ子に言い含めました。

 私が中学二年生の頃、私と同じ学校の女子生徒が不可解な事故に遭いました。多分、続けて三人の女子生徒が不幸な目に遭ったのです。多分というのは、三人目の女子生徒は体調を崩した後に転校していったので、彼女がどうなったのかを誰も知らないのです。
 最初に不可解な事故に遭ったのは、私と同じクラスのマキ子という女子でした。マキ子は所謂、クラスのマドンナ、そんな言い方をすると自分自身がすごく年老いた気がしますが、マキ子は誰もが注目する女の子でした。
当時、空き家であった屋敷の庭が、私と友人たちの溜まり場でした。ある日、私たちはいつもの様に屋敷の庭で、愚にも付かない話をしていると、友人の一人が漆喰の壁に落書きがあることに気が付きました。その頃には黒漆喰の壁は日焼けと埃で色褪せてはいましたが、落書きは一つもありませんでした。なので、その落書きが時間を持て余している私たちの興味を引くのは、当然のことでした。私たちがその落書きを見に行くと、そこには相合傘が彫ってありました。傘の右側には「マキコ」とあり、左側には「タケヒロ」とありました。私たちは相合傘に刻まれた「マキコ」という名前は、同じクラスのマキ子のことであると疑いませんでした。幼いと言えばそれまでですが、私たちの学年に「マキコ」は一人しかいないので、私たちはそう結論付けたのです。そうなると、男の方の「タケヒロ」が誰なのかが話題となります。私たちの学年には「タケヒロ」がいないのです。なので、目立つ上級生の名前をみんなで挙げてみましたが、見当が付きません。
 そんなことをしていると、友人の一人が「これは誰か一人で彫ったに違いない」と言い出しました。カタカナである上に漆喰に彫られた文字に特徴を見出すことは難しいですが、クラスのマドンナに片思いした何処かの男子が刻んだのだという考えは、私たちを安心させるには充分な考えでした。それよりも、このことでマキ子に話し掛けられることの方が、私たちの関心を集めました。
 次の日、私たちはマキ子に相合傘のことを話しました。マキ子は「タケヒロなんて人は知らない」と言っておりましたが、眉を寄せるマキ子の顔には恐怖の色がありました。後になって考えれば、その時、他にも怖い思いをしていたのかもしれません。私たちはその後、マキ子の取り巻きに追い払われたのですが、タケヒロの話はその日のうちにクラス中に広まっておりました。私の仲間内でタケヒロのことを言いふらした者はいないので、マキ子の取り巻きの誰かが広めたのでしょう。マキ子とタケヒロの噂は数日続きましたが、タケヒロを知る者は現れませんでした。その間、マキ子の元気のなかったことを覚えております。
 そして、誰もがタケヒロのことを忘れた頃にマキ子は交通事故で亡くなりました。自転車に乗ったマキ子は夕暮れ時に塾へ向かう途中で、自動車に轢かれたのです。夕暮れ時とは言え、見通しの良い直線道路で自動車にはねられたのではなく、並走する自動車に轢かれたのです。運転手が言うには、それまでフラフラすることなく真っ直ぐ走っていた自転車が突然、自動車の目の前で横倒しになって、ブレーキを踏む間も無かったそうです。マキ子の両親は当然、自動車の運転手の言い訳だと激怒しましたが、マキ子自身や自転車などをどれだけ調べてみても運転手の言っていることに間違いは無かったそうです。
 そして、マキ子の死からひと月が過ぎた頃、私たちは黒漆喰の壁に新しい相合傘を見付けたのです。私たちはクラスのマドンナの死を受け入れ切れてなかったのですが、漆喰の壁とマキ子の死とを関連付けることを思いつきもしませんでした。それでも、前日まで無かった相合傘が次の日に刻まれているのを見付けると、気味が悪くなりました。そして、私たちは相合傘に刻まれた名を見て恐怖するのでした。相合傘の左側には「タケヒロ」と刻まれておりました。右側には「ケイコ」とあります。タケヒロがどんな人物かは知りませんが、短期間に二人の女の子の名前を相合傘で壁に刻むこと自体が、私たちには異常なことに感じました。それも、マキ子が亡くなったので違う子に乗り換えたと思えるタイミングで相合傘が彫られたことに、私たちは恐怖しました。
 そして、新しく刻まれた女の子の名を見て、私たちはすぐに隣のクラスの陸上部のケイ子を思い浮かべました。ケイ子は陸上短距離で県大会優勝の有名人です。そのことに私たちは恐怖を深めました。明らかにタケヒロが私たちの学校の生徒だと思えたからです。
私たちは相談の上で、このことを誰にも話さないと決めました。気味の悪いのもありますが、このことを誰かに話せば私たちが奇異の目で見られてしまうからです。次の日から私たちはケイ子のことを観察することにしました。もしも、相合傘とマキ子の死が関係するならケイ子にも何か兆しがあると、私たちは考えたのです。観察すると言っても、所詮は中学生のすることです。授業の休み時間に教室の外から級友と楽しそうに談笑するケイ子を覗き見たり、放課後の部活時間にグラウンドを走るケイ子を眺めたりする程度です。私たちは、もしかしたらタケヒロを発見出来るかもしれないとも考えました。しかし、私たちは異変の兆しもタケヒロも見付けることは出来ませんでした。
 そして、相合傘を見付けてから四日後にケイ子は、自身の暮らすマンションの向かいのマンションから飛び降り自殺をしてしまいました。どうやらケイ子の部屋を見ることの出来る五階の階段からケイ子は飛び降りたそうです。ケイ子の自殺は、地元のテレビ局が騒ぎ出し、ちょっとしたニュースになりました。学校をはじめとする大人たちは、いじめの線で徹底的に生徒たちに聴取しましたが、いじめどころか悩み事一つ、見付けることは出来ませんでした。私たちが観察していた限りでも、ケイ子は健全な運動部の女子にしか見えませんでした。
 私たちは、タケヒロが二人の死に関係していると確信しました。そして、その証拠は屋敷に刻まれた相合傘だと思いました。私たちはタケヒロに遭遇するかもしれないという、幼稚な理由で屋敷に近づくことを止めました。しかし、私はその後一人で屋敷のその黒漆喰の壁を見に行ったのです。
 私は中学三年生になって、二人の死もタケヒロのこともすっかり忘れておりました。その年の秋にクラスのアツ子という女子が大病をして一週間、学校を休みました。クラスの者はアツ子のことを大変心配しましたが、アツ子は他県の大きな病院へ移るということで家族ともども他県へ引っ越してゆきました。その時に私は何となく、タケヒロの名前を思い出したのです。
 何故、引っ越していったクラスメイトとタケヒロが繋がったのかは、私にも分かりません。私がタケヒロの名を思い出すまでは、私も友人たちも一切、黒漆喰の壁のことは口にしませんでしたし、私たちは故意に漆喰の壁のこともタケヒロのことも無かったことにしようとしてきた節がありました。なので、ここでタケヒロの名が思い出されたことには、意味のあるのだと思えたのでした。一度、そのことに思い至ると、確認したいという欲求は大きくなってゆくものです。
 私が友人たちの様子を窺ってみると、友人たちには引っ越していったアツ子とタケヒロが結びついていないようでした。なので、私は一度だけ、一度だけ独りで、人の住まぬ屋敷の黒漆喰の壁を見に行くことにしました。それは怖いもの見たさという感情に似て、非なるものでした。そこに確実に在る恐怖を確認することによって事実と認めたいという衝動、実在する恐怖に絶望するという安堵が、私は欲しかったのです。想像力は時として無慈悲なものである。心に芽生えた恐怖は、想像力という無限の力によって際限なく心を蝕む。それを止めるには、目の前の実在する恐怖に絶望するしかないのでした。
 私は日の暮れる前にあの屋域に向かいました。人の気配のない歪に曲がりくねった道を私は急ぎました。古い寺町には至る所に影を内包しているものです。密集して歪に立ち並ぶ家屋は、町の外よりも早く闇を引き寄せるのです。私が息を切らせて屋敷の門をくぐると、三つ目の落書きを発見しました。経年にぼやけた黒漆喰でも新しく削られた落書きは目立つものです。私がその落書きに近寄ると、やはり相合傘の落書きでした。私は壁の前に立ち、刻まれた名前を見て驚きました。
傘の右側には「アツコ」と刻んであります。そして、傘の左側には「マサノリ」とありました。私が驚いたのは、タケヒロの名が無かったことではなく、相合傘を最初に発見した友人の名がそこに刻まれていたことでした。それはタケヒロが直接の原因ではない証でした。そう私が確信した時、漆喰の壁に瓦屋根の乗った塀に囲まれた敷地内が、異質な空間に感じられました。庭に生えている草木が風にカラカラ鳴る音も雨戸の節穴や隙間から見える闇も軒に出来た影も、私には何やら意思のようなものを感じたのでした。そして、黒漆喰の壁から感じる圧迫感に私は逃げるように屋敷を後にしました。

 私はその後、どのように生活し、どのようにマサノリと接していたのか記憶が有りません。高校を卒業して地元を離れる以前の記憶を、私はあの古びた寺町に置いてきたのです。
 私が知る限りの三人の不幸な女子生徒の話が終わると、ユミ子は言葉を無くして震えていました。私はユミ子が落ち着くのを待つ代わりにもう一度、スマートフォンの写真を見せてもらいました。そこにはタケヒロとマサノリの名前を見て取ることが出来ました。ユミ子には敢えて、そのことを私は言いませんでした。まだ、ユミ子は口を開く気にならない様なので、私がこれまでに見聞きしたことから私なりの見解をユミ子に話しました。

 私は天国とか地獄とか、あの世というものを信じておりません。なので、世間で言う幽霊なるものも信じておりません。この世に在るものは、物理的な物と生きた人間の想いだけです。もしも幽霊なるものが在ったとしても、それは亡くなった者の魂でも死後の想いでもなく、生きている時に作られた念だと信じております。そして、この世の中には、人の想い、人の念を増幅する場所や物が確実にあるのです。その一つが、あの屋敷の黒漆喰の壁なのです。私はそんな場所や物を幾つも見てきました。念を増幅する物に相手の名前を刻むのだから、そこに強い念がこもっていて然るべきです。増幅された想いや念を好意と呼ぶか、執着と呼ぶかは受け取る当人の心ひとつなのですが。

 私の話は自分が考えている以上にユミ子を怖がらせてしまったので、安心させるつもりで付け加えました。
 「これは誰かを想って名前を刻むから念のこもるものであって、自分で刻んだのなら問題は無いのですよ。だから、私は『君は名前を刻んだのかい』と訊いたのです。さあ、今度は君が抱えている問題について話してくれるかい」
 私がそう言うと、ユミ子は頭を垂れて肩を震わせて何か言っておりました。私が「何か言ったかい」とユミ子に訊くと、ユミ子はぎろりと私を睨んで叫びました。
 「あんた、自分で刻んだかは訊かなかったじゃない」
 居酒屋の常連たちはユミ子が店内に入ってきたときから、ユミ子の様子を見て私たちに近づこうとはしませんでした。ユミ子が叫んでも常連たちは驚いて彼女を振り見るだけで、息をひそめております。
 「もしかして、あれは君の友人が彫ったのかい?」
 私が驚いてそう訊ねると、ユミ子は大きく頷きました。
 「すると、今、君に起きていることというのは・・・」
 私は何か勘違いをしていたのだと気付いて絶句していると、ユミ子が話し始めました。
 「そうよ。先週、ここに来た時は、部屋に帰ると一瞬、嫌な感じがする程度だったから、気のせいだと思ったわよ。でも、その後、部屋に居ると頭痛がするようになって、横になっても眠りが浅くなったわ。寝ていても部屋の中に人の気配を感じるようになって・・・。そして、昨夜は玄関の扉の前に黒い女の影が立っていたの。あれは何なのよ」
 私の中では、それがユミ子の友人であることは確かなのですが、それを彼女にどの様に伝えるべきなのかが分かりませんでした。第一に、私は不可解なものを幾つも見聞きしてきましたが、対処法を知っているわけではありません。なので、私なりの事実を、彼女を興奮させないようにゆっくりと話すことにしました。
 「それは生霊です」
 私が一言、口にすると「生霊って何よ」とユミ子は噛みついてきます。
 「さっきも話した通り、人の想いや念です」
 ユミ子は「誰の?」と、すかさず口を挟みます。私は誰の生霊かを興奮したユミ子に上手く伝える方法が有りませんでした。
 私が「それは、君の友人の生霊だと思う」と言うと、ユミ子は目を剥いて言いました。
 「あの子が、私に嫌がらせをしてるって言うの?それじゃ、あの子に止めるって言えば、止めさせられるの?」
 「いや、本人に自覚があるかどうか、疑わしいよ。出来るなら、お祓いに行ってみては?」
 その時、そう言っている自分がとても情けなくなりました。それまで偉そうに壁の話を語っていたのに何一つ、ユミ子の力になれないのですから恥ずかしい限りです。
 その後、ユミ子は私を問い詰めましたが、私が頼りにならないと解かると「本人に話してくる」と言って店を飛び出して行きました。

 あなたはここまで話を聞いて、何故、ユミ子に問い詰められて恥ずかしい思いをしたのに私が偉そうにこの話を語っているのかと、私を軽蔑していることでしょう。でも、この話には、続きがあるのです。
 私がユミ子に問い詰められて恥をかいた三日後に、居酒屋にユミ子が私を訪ねてきたのです。その時のユミ子は酷い姿をしていました。髪の毛はぼさぼさで、顔はやつれて、目が落ち窪み、目の周りは青くなっていました。それでも瞳だけが異様に細く光っていました。ユミ子は私の前に立つと、穏やかな口調で一言だけ言いました。
 「あなた、名前は何というのかしら?」
 私はそれが何を意味するのかを知っていましたが、ため息を一つ吐くとユミ子に名乗りました。名前は大切なことではない。壁に念を込めることが大切なのだから、名前に意味はないのです。
 なので、私は誰かに黒漆喰の壁の話を偉そうに語る権利があるのです。
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