誘拐?

文字数 1,718文字

 タクシーはスピードを上げて走っている。台湾は今回でまだ二度目なのでこの車がいま台北市内の方向に走っているのかそれともどこか山の中へ向かっているのか見極めがつかない。どうやら誘拐されているらしいと判ってから車の速度が余計に早く感じられ、道の両側の赤茶けた岩の斜面がビュンビュンと後ろへ飛んで行く。

 台北空港の到着ゲートを出て、出迎えの陳さんはどの人かなあと周りを見渡していたら、
「いらっしゃい、お待ちしていました」
 と若干たどたどしい日本語で僕に話しかけてきた人がいた。
「陳さんですか」
「そうです」
 僕は安心して彼とタクシーに乗り込んだ。タクシーが走り出してから、
「僕のホテルはAホテルですから」
「ホテルへ行く前にレストランで歓迎会してそのあとホテルへ行きます」
 そんなことは聞いていなかったので、まずホテルに荷物を預けてから行きたいと言ったが先に歓迎会をしてからホテルへ行くことになっていると繰り返す。これは何かおかしい・・・、空港の出迎えはS社の陳さんという人であることは事前の連絡で分かっていたが、そういえば陳さんという名前の人は台湾に一杯いる。この人はほんとにS社の陳さんだろうか。自分の名刺を渡して彼の名刺を求めると、
「急いで出てきたので名刺の入っている背広を着て来なかった」
「部長の張さんはお元気ですか」
「私は最近入社したので知りません」
 いくら新入社員だといっても部長を知らないことはないだろう。もしかしたらこれは誘拐か? このまま陳さんの言いなりになっていてはまずい・・・。
「荷物を置いてからのほうがいいので先にホテルへ行きたい」と強く言ったが、
「レストランに行って歓迎会の後ホテルへ行きます」と言って取り合わない。
 車から飛び降りるにはスピードがありすぎるし、このまま山中へ連れて行かれて仲間が出てきて身ぐるみ剥がされるのか・・・、レストランに行くのならタクシーを降りてから周辺の人に助けを求めることができるかもしれない・・・、つぎつぎに様々な場面が頭の中を駆け巡った。しかしなんでまた僕を誘拐するのだろうか・・・。
 運転手に話しかけてみたが返事がないところを見ると日本語は分からないようだ、陳さんも運転手に話しかけないのでグルではなさそうだ。
 誘拐から逃れるにはどうしたらいいのか・・・、うまい考えが浮かんでこないが黙っていても落ち着かない。台湾電力のM部長に会った話や、台湾のD社の社長や副社長と食事した時のことなども話してみた。しかし陳さんの応答は通り一遍である。そのあともホテルへ先に行きたいと繰り返したがレストランにまず行くと言って応ずる気配がない。
 山間部を抜けるとやがてタクシーは市街地に入ってきた。家並みが見えてきたのでどうやら山中へ連れ込まれて身ぐるみ剥がされる心配は無さそうだが一体この先どうなるのか不安は消えない。何回もホテルへホテルへと繰り返したがそれ以上どうしたらいいのか判らなく、頭が混乱した状態で窓外の流れゆく家並みを眺めていると、突然陳さんが運転手に何か中国語で話しかけタクシーは止まった。
「私はここで降りて家に寄ってから行きますので、先にホテルへ行って待ってください」
 彼はタクシーを降りて行ってしまった。

 タクシーは再び走り出した。陳さんと別れることができたのでホッとしたが、今までのことを考えるとあまりにも唐突で何かよく判らない。やがてタクシーはAホテルの前で止まった。料金を払いホテルの自分の部屋でベッドに横たわり人心地がついたが、なにか狐につままれた様な感じである。誘拐は思い過ごしだったのだろうか・・・、あとからあの陳さんがほんとにやってくるのかな・・・、などと思いながら休んでいると電話が鳴った。
「日比野さん、空港で待ったが見つけなかった。もうホテルですか」
 今度は本物の陳さんからだった。やがてホテルに来た陳さんに事の顛末を話したらびっくりしていた。
 空港であの陳さんが近づいて来た時に、どこの誰かを確かめればこんなことにはならなかった。ほんの一言確認をしなかったための大失敗である。
 それにしてもあの陳さんはどういう人で、何が目的だったのだろうか、今もってわからない。

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