第1話

文字数 1,166文字

「お袋まだ帰ってこないのか。今度の旅行は長いな」

 夫はそう言って、夕べ摂らなかった食事の皿の肉を口に運んでいる。

 夫はここのところ帰宅が深夜に及び、手を付けなかった夕食を翌朝朝食代わりに食べることが常となっていた。

 夫が今口にした『お袋』というのは、同居している夫の母、私の姑のことで、旅行好きで私に愛犬の世話を頼んでは家を空けることが多かった。

 その愛犬にも少しだけ、調味料を使わずに焼いた肉をプレゼント。

「おい、お袋に叱られるんじゃないか?『フード以外のものを食べさせるな』って言ってなかったっけ?」

 夫がその様子を見て口をはさむ。

 義母(はは)の愛犬のマロンは、やはりフードよりはお気に召したようで、与えた肉を、かぶりつくように食べていた。もふもふの可愛いマロン。

 そう、義母(はは)に叱られないように、少し。ほんの少しだけ。

 お前も共犯となるように。



 夫は皿の上の肉を平らげ、

「少し硬くて酸味があった。いくら君のマイブームだからと言っても、もうそろそろジビエ以外の肉料理が食べたいな」

 そう言うと支度をして自身の経営するクリニックへ出勤した。

 夕べさんざん絡みついた、クリニックの受付をしていた’あの女’に会えるのを楽しみにしながら。



 ――――まだまだ、冷凍庫にたくさんあるのだからせっせと食べてもらわないと。

 そう思いながら、私は不平そうに「ブーン」とうなる冷蔵庫に、つい「はいはい」と返事をしてしまい、「あら、いけない。『はい』は一回だけよね」と思わずつぶやいて、ふふっと笑った。

「あなたの笑顔は表面だけね。なんだかうすら寒いわ」と言われた笑みを、今日は強張らせることなく浮かべながら。



 今日は燃やせるゴミの日。においが出ないようにビニール袋を何重にもして包んだ可食部以外の部分が『燃やせるゴミ』の袋に詰められ、ゴミ出しの用意をされていた。もう小言を言うことできずに。



 ――――もう一つのほうも早めに処理しないと。

 足元にまとわりついてきたマロンの頭を撫でてやりながら、バスルームで逆さにつってある、頭を落として血抜き処理中の獲物のことを考えた。

 昔、登山仲間に習った鹿の解体技術が役に立つ時が来るなんて。

「おいしかった?」と訊くとマロンはまっすぐこちらを見て「クウン」と嬉しそうに()いた。

 今ではマロンは私にすっかりなついてしまった。私には子供もいないし、この子においしいものを食べさせてやりたい。

「次は柔らかいよ」マロンを見つめながら私は言う。

「そして新鮮」笑顔を浮かべて。



 夕べしめたばかりの獣。泥棒メギツネ。その肉をマロンは気に入ってくれるだろうか。



 ジビエは手間がかかるのだ。
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