第1話

文字数 1,996文字

 今日の気分はボサノヴァ。鼻歌混じりにオーディオのボリュームを上げる。緩いリズムとメロディが部屋に溢れる。「いつも音楽流すよね」恋人がシャツのボタンを留めながら言う。
「観葉植物は音楽が好きなの。去年誕生日にもらったガジュマル、大切にしたいんだもん。だってこれ『幸せになる木』なんでしょ」
 したり顔で答えるが、彼は気のない返事をしてネクタイを締め始める。
「ねえ、来週私の誕生日、今年こそは一緒にいられるよね? 去年は家族といるから今年は、っていう話だったよね?」
 彼の娘と私の誕生日が同じことを去年知った。私はどうしたってセカンドだから、彼が家族を選ぶ気持ちは分からなくはない。でも、私の“一緒にいたい気持ち”だって尊重してほしい。
「あー、それ無理だ。娘と約束してるから」
「そんな、いつも我慢してるのに。なんで私との約束は守ってくれないの⁉」
 声を荒げると、彼は不快げに顔を歪めて耳の裏を掻く。
「いつも自分ばっかだな。もういいよ。今日でもう終わりにしよう」
 え? と尋ねた声は黙殺された。じゃあと言って部屋を出て行く彼の背中をベッドの上から見送った。流れるボサノヴァを聴きながら、悲しみや寂しさを感じるよりも怒りが込みあがってきた。いつも自分ばっか。その言葉がぐるぐると巡る。
「自分ばっかなのはどっちよ。こんな、こんなもの!」
 彼がくれたガジュマルの鉢を両手で掴み、振り上げた。植物が好きな私のために彼が選んだ「幸せになる木」。でも、叩き割れなかった。ガジュマルが悪いわけではない。不倫と知ってて彼を好きになった自分が悪い。大人の恋愛に憧れて、通っている大学の准教授の彼に恋をした。彼の吸う煙草の匂いが好きだった。少し苦い香り。その残り香が染みついているこの部屋にいるのが辛い。ぽっかりと心に開いた穴。この隙間を埋めることは簡単じゃない。何もかもが虚しくなって、部屋を飛び出した。
 アパートを出て少し歩いた先の曲がり角で、私は派手に尻もちをついた。出会いがしらにぶつかったようだ。見ると、私より少し若い青年が腰に手を当てながら顔をしかめている。制服を着ているから、高校生くらいだろうか。
「うわぁ、ベタベタだ……」
 彼の手元は濡れ、足元には飛び散った氷と水たまり。そこにプラスチックのカップが転がっている。
「ちょっと、前見てよ」
「はあ⁉ 私のせいなの⁉ お互い様でしょ」
「買ったばっかのコーラがダメになっちゃった。弁償して」
 まっすぐに見つめてくる視線が眩しい。断るより先に、その子に手を引かれるまま、私は駆け出した。気づいた時にはキッチンカーの前にいた。
「ここのジェラートおいしいよ。ミルクとミックスベリーのダブルふたつね」
 アキラと名乗った彼はちゃっかり注文し、私の目の前にうず高く盛られたジェラートを差し出す。コーラは? そう尋ねても、答えない。代わりにまた別のお店に私を連れて行く。たい焼き、ロングポテト、りんご飴。どれもおいしくて、食べるごとに沈んでいた気持ちが軽くなっていくような気がした。おいしいだけじゃない。喜んでついて来たわけじゃないけど、アキラと一緒にいるのが楽しいみたいだ。
「ごめんね、色々連れまわしちゃって」
「ううん、こっちこそ。ブルーだったんだけど、なんか元気もらったかも」
「そお? なら良かった」
 満足げに答えるアキラの声を聞きながら、私の目は空に釘付けになった。
「虹!」
 橋の上から見上げた空に、大きな虹がかかっている。
「お姉さん、大丈夫だよ。運命の人とはもうすでに出会ってるよ」
 アキラの言葉に驚いて、隣を振り仰いだ。が、そこに誰もいなかった。不思議に思って辺りを見渡しても、アキラの姿は忽然と消えていた。
「お姉さん」
 声のした方を向くと、怪訝そうな表情でこちらを見つめる青年がいた。雰囲気がアキラに似ているように思えたが、別人だった。彼が押しているカートを見て気がついた。カートにはラッピングされた花が並んでいる。そうだ、よく通う花屋のスタッフだ。
「いつもお店に来てくださるお姉さんですよね。どうしたんですか? こんな橋の真ん中で立ち止まったりなんかして」
「虹がきれいだったから、つい」
「本当だ。きれいですね」
 青年はうっとりとした様子で目を細める。
「そうだ、これよかったら」
 青年はカートから売り物の小さな花束を取り出した。
「いくらですか?」
 私は財布を取り出したが、花屋は笑顔で首を振った。
「売れ残りの花なので、お代はいらないです」
「でも……」
 私が困惑していると、花屋は顔を赤くして言った。
「じゃあ、今度ごはん行きませんか?」
――運命の人は……。
 アキラの言葉を思い出す。今日振られたばかりで落ち込んでいたのに、先生のことなど頭から消えている。未来のことで頭がいっぱいだ。私って現金なやつ。こんなベタな展開、いいんだろうか……。でも、こんな展開も悪くない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み