第1話

文字数 1,929文字

 徳川家臣の中で四天王の一人に数えられ、精強な井伊の赤備えを率いて戦場を駆け回った男、井伊直政。今でこそ徳川家康の股肱の臣として現代に伝わるが、それまでの道のりはとても険しかった。今日話すのはその直政が、まだ万千代と呼ばれていた時の事である。名将のまだ若き頃のちょっとした教訓を聞いてほしい。

 天正10年8月、本能寺で織田信長が横死した後、関東の北条はそれを好機と見て、すぐさま勢力拡大を狙った。伊賀を越え三河に帰った家康は、早急に対処するべく甲斐へ兵を送る。徳川と北条は睨みあい、膠着状態となっていた。
 とある夜、徳川の陣中で歴戦の風格を漂わす武者が歩いていた。向かっているのは小姓たちが集まる陣である。
「万千代、おるか!」
 その武者は大久保忠世。万千代を探して陣内にづかづかと入ってくる。
七郎右衛門(しちろうえもん)様、これは何用で」
 他の小姓と談笑していたところ、さっと万千代が抜け出てくる。
「お前にうまいものを食わせてやろうと思うてな。ついてこい」
 万千代はうまいものと聞いて何が待っているのか心躍らせ七郎右衛門に着いていく。
「七郎右衛門様、うまいものとは?」
 万千代は歩きながら尋ねる。
「まあ楽しみにしておれ、とっておきの馳走じゃ」
 二人がついた先には幾人かの将がすでに集まっていた。その場にいたのは徳川の若い将たち、本多康重や大久保忠隣などであった。そして彼らは一つの鍋を囲い座っていて、各々椀に盛った何かを貪るように食べている。
「お前もそこの座れ、今用意するでな」
「失礼いたす」
 万千代が空いている場所を見つけすっと座ると、七郎右衛門はすぐに椀へ鍋に入っている何かをよそう。
「まあこれで腹いっぱいにしてくれ」
 七郎右衛門に渡された椀の中身を見て、万千代は思わず閉口してしまう。
 その椀の中身はというと、ただの芋汁であった。しかも具をよく見ると、芋の葉や茎まで一緒に入っていて、しまいに味付けは糠味噌であった。
 万千代の手は一瞬止まってしまったが、せっかく出されたものは粗末にできない。とりあえず一口食べてみることにした。
 しかしやはり芋汁である。葉は雑草を食っているかのような不味さで、茎も硬くて噛み切れない。汁を飲んでも糠味噌の薄味では満足できなかった。ふと周りを見回すと、他の将はそれをうまそうに口へかき込んでいる。驚くことにはお代わりをもらう者までいた。
 もうひと口と思い我慢して食べてはみるが、やはりその不味さは耐えがたく、万千代は思わず手に持つ箸を置いてしまった。
「ん? いかがした万千代」
 万千代の様子に気付いた七郎右衛門が尋ねる。
「いえ、ちと味が薄いと思いまして……何か醤油でもあればよいのですが」
 万千代の言葉に一同の箸が止まる。それまで皆の咀嚼する音と汁をすする音で満ちていた場は、しんと静まりかえってしまった。
「おぬし、その口の効き様はなんじゃ。父上の飯が食えぬと申すか!」
 静寂を破ったのは七郎右衛門の息子、忠隣であった。その形相は鬼のようで万千代をにらみつける。
「いや、そのようなわけでは、ただこのようなものは初めて食べるので、慣れていなく……」
「黙れ万千代! おぬし殿に気に入られているのをいいことに、生意気な口を叩くか!」
「もうよい、新十郎」
「しかし父上!」
「もうよいと言うておる」
 七郎右衛門の静かな圧に負け、新十郎は黙ってしまった。
「万千代、自分の周りを見回してみよ」
 万千代は七郎右衛門の言葉に、陣中の足軽たちの様子を見回す。
 見ると芋がらを干したものを煮詰めて汁にしていたり、何かもわからぬ雑穀を粥にし薄めて食べていたり、しまいには食うものがなくて、水をただ飲んでいる者もいた。
「わかるか万千代、この芋汁がどれだけの馳走か。陣中の者はみな満足に飯が食えぬのだ。ましてや、百姓たちはわしらのためにどれだけひもじい思いをしているか、考えたことがあるか?」
 七郎右衛門の言葉に万千代はただ俯き黙っている。 
「お前は殿の信頼厚く、これからもっと出世するはずだ。しかし、お前についてくる者たちや民のことがわからなければ、万千代、人はお前についてこなくなるぞ」
 万千代はっと目が覚めたかのように顔を上げ七郎右衛門を見つめる。
 すると置いた箸を再び持ち、椀の芋汁をあっという間に平らげた。
「七郎右衛門様、まだ芋汁はありますか!」
「おう、あるぞ!食え食え!」
 万千代の姿を見て他の将も負けじと芋汁をかき入れていく。
 あっという間に鍋の芋汁は空になったそうな。

 井伊直政はこの芋汁の味を生涯忘れなかったのか、この後も徳川家中で目覚ましい働きをし、ついに江戸幕府を支える井伊氏の彦根藩を築くことになる。またあの芋汁を食べたのかは、誰も知らない。
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