ガラス玉

文字数 5,604文字

 「おっ、今朝はどっちかな?」父がおどけて()く。
 「だし巻きの方よ」文香は答えた。 
 父は卵料理が好きなので朝食には必ず厚焼き玉子か、だし巻き玉子、どちらかを出す事にしている。 
 今朝は魚の干物、ほうれん草の白和(しらあえ)、だし巻き玉子、味噌汁に白飯である。
 働いている文香にとって毎朝の食事作りが負担になっているのは確かだ。だが皆、忙しく夕食を一緒にとる事が難しいので、無理してでも朝はみんなで食卓を囲めるように努力している。
 「このだし巻き玉子、美味いな」 
 「でも、まだまだお母さんの味には程遠いわ」 
 「充分、おいしいけどな」 
 その時、階段を下りてくる足音が聞こえた。 
 「おはよう、弘樹。ご飯、出来てるわよ」
 弟の弘樹は何も言わずに父の横に腰を下ろした。朝が弱い弘樹は極端に口数が少ない。  
 でも文香は弟が家族と朝食をとる為に眠いのを我慢してそこにいる事が分かっているから、目を細めて彼を見ながら感じていた。

 素敵。母の生きていた頃のような理想的な家族が戻ってきた。

 二十年前、文香が十四歳の時に母は弘樹を身ごもり出産したが、ひどい難産で命を落とした。 父は大手企業に勤めていたので家政婦を雇い家の事はなんとでもなったが、母を失った悲しみはどうすることも出来なかった。 
 それは文香だって同じだった。

 母は素晴らしい人だった。優しく、美しく、家の事を完璧にこなした。

 父は仕事で帰宅が深夜になる事も多かったが、母は必ず起きて帰りを待っていた。そして翌朝は誰よりも早く起き髪を整え薄化粧をしてキッチンに立つ、そんな人だった。 
 悲しみはやがて()えたが、取って代わった様に今度は心配事が多くなった。 

 弘樹が次から次へと問題を起こしたのだ。
 
 「弘樹君が小学校で飼っているウサギに悪さをした」 
 「弘樹君が近くのスーパーで万引きをした」 
 「弘樹君が友達からお金を脅し取った」 
 その度に父は忙しい仕事の合間に学校にかけつけ、頭を下げた。 
 文香が社会人になってからは二人で交互に謝罪に行く有様だった。 
 弘樹の素行の悪さは優秀な家族への劣等感からくる物だったが、二人にはそれが分からなかった。何度も三人で話し合い父は彼を連れてカウンセラーにも通ったが、問題行動は続いた。
 
 だが転機は突然、訪れた。高校二年の夏の事だった。

 弘樹は公園のモニュメントにスプレーで落書きをしている所を見つかり警察のご厄介になっていた。ふてぶてしくパイプ椅子に座り反省の色が見えない弘樹に頭に少し白いものの交じった五十代の警察官は言ったのだ。 
 「勿体(もったい)ないな。俺なんかと違って可能性が無限にあるのに。まだまだこれからなのに」 
 「・・・・」 
 「ちょっと自分の居場所を考えろよ。おまえの描いた絵とおんなじだよ。上手い絵でも公園のモニュメントに描いちゃ落書きになってしまう。でもスケッチブックに描けば作品になるんだ」

 その言葉は弘樹の心を揺り動かした。彼の心の中に夢を描いたのだ。 

 弘樹は毎日のようにサボっていた高校に出席し、放課後は美術大学を受験する為の予備校に通うようになった。そして一年半ののち、現役で美大の最難関といわれる関東芸術大学に合格した。 

 ()びついた滑車の様に()まっていた弘樹の人生が回り始めた。どんどん回り始めた。 

 大学二年の時には伝統ある宮の森美術館のコンクールで大賞を受賞し今は美大生でありながら新進画家として活動の場を広げている。 

 一方、文香は国立大学を卒業し有名飲料メーカーに就職、販売部門に配属された。それから十二年、来月の人事異動で係長への昇進を打診されていた。もしそうなると同期では一番早い昇進となる。 

 前途洋々、まさに文香の理想の家族なのだ。そしてその象徴として温かくて美味しい『朝ごはん』があるのだった。 

 静まり返った住宅街に文香のハイヒールの音がコツコツ、鳴っている。 
 彼女は深夜、肩をすぼめて家路についていた。 

 どうしてこんな時に 

 仕事でミスをして大事な大口の顧客を一つ失ってしまったのだ。 
 よりにもよって、この時期に・・・・おそらく来月の昇進の話は無くなっただろう。 
 十二年・・十二年の頑張りが、たった一回のミスで水の泡となってしまった。

 自宅近くの公園の前を重い足取りで歩いていると噴水前に老婆がうずくまっているのが見えた。

 「大丈夫ですか」老婆に駆け寄り、声をかけた。 
 「・・・・」  
 「今、救急車を呼びますから」 
 「いいんだよ。出来ればお水を貰えないかい」 
 文香は側にあった自販機でミネラルウオーターを買い手渡した。 
 老婆は水を口にすると心なしか精気が戻ったように見えた。 
 「本当に救急車を呼ばなくてもいいのですか?」 
 「ああ、もう大丈夫だよ」 
 「そうですか。じゃあ、タクシーを呼んで家までお送りしましょう」 
 「いいんだよ、世話になったね。お礼にこれをあげよう」 
 老婆はそう言うと文香の手にガラス玉を二つ握らせた。 
 「これはね、嫌な過去の出来事を無かった事にしてくれる不思議な物なんだよ」 
 「?」 
 「仕事でしくじって昇進話が無くなって気落ちしてたんだろう」 
 「どうしてそれを?」 
 「まあ、いいじゃないか。よく見ておくんだよ。まず、こうして」 
 老婆はガラス玉を噴水に投げ入れ叫んだ。 
 「仕事の失敗を無かった事にしておくれ」 
 彼女は唖然としている文香を見るとニタッと笑い、言った。
 「玉はあと一つしかないからね。よく考えて大事に使うんだよ」 

 その時、急に強い風が吹き上げた。文香は思わずうつむいた。 
 そして顔をあげると老婆の姿は、もう何処にも無かった。 


 朝、文香は身支度を整え玄関でスリッパを脱いだ。 
 「おっ、もう出るのか、ちょっと待ってくれないか?」父が訊くので「いいわよ」と(うなず)いた。 
 ドタドタと階段を駆け下りてくる足音が聞こえる。 
 「ごめんなさい」麻子さんだ。 
 「寝坊してしまって、もう出るの?」 
 「ええ」 
 「朝ごはんは?」 
 「大丈夫、気にしないで。麻子さん」 
 「やあ、おはよう。じゃあ、行ってくるよ」父が言うと「ごめんなさい」また麻子さんは謝った。 
 文香達は駅前の二十四時間営業のファミレスに入ると朝定食を注文した。今週に入ってこれで二回目だ。 
 公園で老婆に()った翌日、出社してみると仕事でミスした事実はなくなっていた。
 おかげで文香は無事に係長に昇進することが出来た。そこで彼女の昇進祝いを行きつけのレストランで行う事になり弘樹を交えて三人で食事していると父が突然、打ち明けたのだ。
 
「再婚したい」
 
 母が亡くなって二十年以上、父はずっと再婚せずにいたので『その気が無いのだ』と独り合点していたから、驚きだった。そして更に驚いたのは相手が父が仕事の接待で使っているクラブのママで文香と五歳しか歳の違わない三十九歳の女性だという事だった。
 それから四カ月経った今、父は再婚し麻子という新しい家族が増えている。 
 「ごめんな、文香。麻ちゃん、朝が弱いみたいなんだ」父が謝る。 
 「いいのよ。麻子さんも新しい生活にまだ慣れなくて疲れているのよ」 
 父は彼女の事を『麻ちゃん』と、文香は麻子と五歳しか歳が離れていないので『お母さん』と呼ばずに『麻子さん』と呼んでいる。 
 新しい家族との関係は良好だ。休みの日には二人でショッピングに行ったり、日帰り旅行にも行ったりする。でも時折、今朝の麻子のすっぴんや(くし)の通されていない髪を見ると、違和感を感じる。 

 文香の思い描く家族にそぐわない麻子。
 だが文香はそれを隠していた。上手く隠していた。
 
 だから父も弘樹も気付いていない。勿論(もちろん)、麻子も。 
 でも、文香は気付いていなかった。 

 上手く隠しても、当事者は敏感に()ぎ取るものなのだ。 

 「おっと、大丈夫かい?」タクシーの後部座席からおりる時にバランスを崩し危うく転びそうになった麻子を父は受けとめた。 
 土曜日の夜、麻子の四十の誕生日を外で祝って帰宅したところだった。 
 仕事柄、酒には強い筈だが新しい家族に誕生日を祝ってもらった事が嬉しかったのか、その日の麻子は酔いが回るのが随分と早かった。 
 「大丈夫よ」鼻にかかった甘い声で言ったものの、独りでは歩けず父に抱きかかえられる様に二階の寝室への階段を上って行く。 

 みっともない、飲み過ぎて乱れるなんて 文香は思わず目を背けた。 
 麻子のはいた酒臭い息で部屋の空気が(けが)れた気がした。 

 翌朝、父は接待ゴルフで朝早く出かけ文香はソファーで新聞に目を通していた。 
 スリッパの音をさせ弘樹が階段を下りて来た。文香は壁の電波時計に目をやった。 
 「八時か」 
 食卓の上にいつも麻子の用意している朝食のトーストとコーヒーはなかった。また寝坊しているのだ。 
 寝起きが悪くて無口な弘樹がダイニングテーブルの横に突っ立っているのを見て文香はソファーから立ち上がりキッチンに向かった。 
 「今日は休みだから私が朝ごはん、作るわ」
 四十分後、ドタドタ、けたたましく麻子がすっぴんにボサボサ頭で階段を下りて来た。 
 「ちょうど良かった。ご飯が炊ける所よ」文香は麻子に笑いながら声をかけた。 
 テーブルの上には大根と玉ねぎの味噌汁と甘い厚焼き玉子、きゅうりとワカメの酢の物とハムが並んでいた。 
 「弘樹、もうテーブルについて」文香はソファーに腰掛けている弟に声をかけた。  
 「ああ」コーヒーを飲みながらテレビを見ていた弘樹は眠気もすっかり失せたようで「おはよう」と義理の母に挨拶をすると立ち上がった。 
 「姉さんの作った朝食、久しぶりだな」 
 「食材を用意していなかったからあまり作れなかったけど・・麻子さんも座って。朝ごはんにしましょう。ウチは以前は毎朝、家族みんなで食卓を囲んでいたのよ」 
 「・・・・」麻子は黙ったままダイニングテーブルの横に突っ立っていた。 
 「どうかした?」文香は不思議そうに麻子を見つめた。 
 「あっ、嫌いなメニューがあった?」 
 麻子はまるで固まってしまった様に突っ立っていた。そして・・ようやく(しぼ)り出したように言った。 
 「イヤミ?」 
 「えっ?」 
 「朝寝坊のアタシの為に作ってくれたんでしょ。しかも・・これ見よがしに手のこんだ和食だこと」 
 「・・イヤミなんかじゃないわ。これは前からで」 
 「ふーん、そうかも知れないけど鼻につくのよ。その『私達、完璧です。麻子さんとは違うんです』っていう態度」 
 「・・・・」 
 「なにさ、人の事、見下して。でもね、全然、完璧なんかじゃないんだから。ねぇ、弘樹くん」 
 「なんだ?」弘樹は怪訝(けげん)そうな顔をした。 
 「スゴイじゃない。大賞。稀代(きだい)の才能なんて注目されちゃって。いいわね、やっぱり持つべきものは金持ちの父親よね」 
 「一体、何が言いたいの?」文香は思わず声を荒げた。 
 「(にぶ)いわね。大賞を受賞できたのはお金を積んだからだって言ってるのよ」 
 「ウソだ」弘樹は言った。 
 「ウソじゃないわ。じゃあ、特別に教えてあげる。そもそも美大に受かったのもお金のお陰なんだから」 
 「ウソだ。ウソだ」 
 「うるさいわね、ウソじゃないわ。だってアタシのお店で手引きしたんだもの」麻子は勝ち誇ったように言った。 
 「あー」 弘樹は悲鳴のような叫び声をあげた。
 
 そしてセンターテーブルの上にあったガラスの灰皿をわしづかみにすると、彼女めがけて振り下ろした。 

 弘樹の白いシャツは飛び散った麻子の血で汚れていた。
 
 「ウソだ、ウソだ、ウソだ」呪文のように繰り返しては倒れている麻子の横をウロウロと歩き回っている。 
 文香は二階から駆け下りて来ると弘樹の腕を痛い程につかんだ。 
 「いい?玄関の鍵をかけて誰も家に入れちゃ駄目。大丈夫だから、無かった事にすればいいんだから」
 彼女はそう言うと家を飛び出した。
 手の中には自室の机の引き出しから持ちだして来た、あの不思議なガラス玉が握られていた。 
 
 麻子の死を無かった事にするのだ。文香は公園に走りながら考えていた。 
 麻子の死を無かった事にして弟を救うのだ。 

 その時、ずっと脳裏に焼き付いて離れない麻子のすっぴんやボサボサ頭が思い出された。
 また、あの女と家族になるのか・・ 
 『理想の家族』とは程遠いあの女と、これからずっと同じ屋根の下で家族の真似事を続けるのか・・ 
 いやだ、いやだ、いやだ

 そしてある事に気付いた。 

 文香は考えて、考えて、無かった事にする為にガラス玉を噴水に投げ入れた。  


 文香が食卓につくと父も慌てて椅子に座った。 
 「今朝の玉子はどっちだ?」 
 「厚焼き玉子よ」 
 「ああ、うまそうな匂いだ」
 文香は頷きながら思っていた。 
 やはり、これで正しかったのだ。

 あの時、公園に走りながら文香は思ったのだ。 
 とるに足らない人間の麻子は自分の理想とする家族にふさわしくない。 

 そして気付いたのだ。 
 絵の才能のない弘樹、それもまた『とるに足らない人間』を意味するのだ。 

 あんな子を産む為に母は命を落としたのだ。
 あの素晴らしい母の命と引き換えに弘樹はこの世に生を受けたのだ。 
 そんな事があってはならない。 
 そんな不条理があっていいものか。 
 とるに足らない弘樹は文香の理想とする家族にふさわしくないのだ。 

 文香はガラス玉を噴水に投げ入れながら叫んだ。 
 「母の妊娠を無かった事にして下さい」  


 食卓についている父はもどかしそうにキッチンを見て声をかけた。 
 「おーい、母さん、早くおいでよ、一緒に食べよう」 
 「二人ともお仕事があるんだから私の事を待っていなくてもいいのに」

 母が笑いながら温かい味噌汁を盆にのせて持って来た。 
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