転ー私小説

文字数 627文字

 私が人生に於いて尤も嫌いな時間は、毎夜、私の他には誰も居ない三畳程のこのユニットバスの端で、洗面鏡の前に憐れなXを映し出し、それを唯だ眺めて居る事で有る。

私は今鏡の前に立って居る。
何故で在らうか、人間とは嫌な事を唯只管に日課とする生物で有る。
一昨日の佐藤に至っては、社内で復たあの黒上司に散々叱られた挙句、夕方には丸菱商社への発注桁を間違え、最早一歩進む度に頭を下げる始末だった様だ。

中々に大変な生物で有る。

 そんな私も通って19年、朝刊の一面を飾らずとも責めてコラムに載れる様な人材にと、そんな心意気を人並には持って居た筈で有ったが、今と成れば社会の歯車か、損得勘定など遠に消え去り、理不尽を受け容れる日々か。

あぁ、私も人間で有る。



と、鏡の前で考える私。
此が又嫌なのだ。此だから私は嫌だ。

 今眼前には私らしき何かが映って居るが、之は私では無い。
今考えて居る私が私であり、思考する私こそが私であり、この私を模写する彼奴は私では無い。

だからこそ、彼奴はXなので有る。
Xが私と成り得たとしても、私はXには成り得ない。



 私は顔を濯ぎ、Xの顔を明瞭には覗かずにユニットバスを後にする。
そして自然の成行か、災厄の前触か、それとも生命の一光か、妙に洒落た間接照明の元で大学卒業祝いの万年筆を手に据える。

七寸程の万年筆は、何故だか通勤鞄より遥か重く感じる。


三日後の友人の結婚式を前に、こうして私の拙文は出来上がる。


之は社会でも会社でも貴方でも無い、私への批評なのだ。

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