Dear Doctor

文字数 4,694文字

 うだるような真夏の昼下がり。陽光は輝きを増し、眼下の地面にじりじり照り返っている。
 ドクター星守(ほしもり)の執務室の扉が控えめにノックされた。あけ放しの窓から広い中庭を見下ろしていたドクターは「お入り」と言って振り向き来訪者を招き入れる。裸足につっかけたスリッパを室内にさしいれた患者は何も言わずにドクターのもとへ近づくと、立派な木製の書斎机の端に一枚の封筒をそっと置いた。恥じらうように目礼すると、黙ったまま部屋を出ていった。
 ドクターは封筒をあける前に、それを裏返した。「ミチル」と記されてあった。あけると、ていねいに四つ折りされた手紙が出てきた。ドクターは窓枠に腰をあずけ、読んでみる。
 『星守先生――
 突然のお手紙お許しくださいませ。こうして筆をとるまでずいぶん思い悩みました。このことはあたしだけの秘密として永遠にこの胸にしまっておこうと幾度も自分に言い聞かせました。
 けれどもやっぱり、いけません。あたしはどうしても先生に申し上げなくてはなりません。あたしがそれをせずにいるあいだ、先生がほかの方のところへ行ってしまわれるかもしれないことを思いますとあたし、居ても立っても居られないようになってしまいました。
 先生、ああ星守先生。あたし先生を愛しております。ミチルはすっかり先生に夢中です。先生が往診に来られる日を指折り数え、その日が近くなりますとご飯がひと粒ものどをとおりません。お水が一滴も飲めません。ちょうど一週間と二日前、あんまり暑いのであたしが肌着のボタンをすべてはずして過ごしておりましたとき、先生はあたしのその姿をご覧になって「前を隠しなさい」と優しく言いさとしてくださいました。あたしそのとき、身体じゅうが溶けてしまいそうでした。先生のお気遣いがうれしくて仕方ありませんでした。
 星守先生。あたし先生のためならなんでもします。なんでも差し上げます。ですから先生、これからはきっとあたしだけを診てほしいのです。お願いです。ほかの方が先生に診ていただいているのを見ていることが、あたしとっても苦しい。
 愛をこめて
 ミチル』
 ドクターは読み終えた手紙を封筒に戻すと、白衣の裏ポケットに入れた。シガレットに火をつけると長く煙を吸いこみ、窓外へ長く吐き出した。するとふたたび扉がノックされ、ドクターが答えないうちから勢いよく入ってきた患者はスリッパの音高く一直線に窓辺のドクターへ走り寄ると、表彰状を渡すかのように両手で持った紙片をぐいとドクターへ突き出した。ドクターが受け取る間もなくきびすを返し、扉のところまで来てちょっと振り返ると、ぽっと頬を染めた。扉が閉まった。
 ドクターは紙片をひらいた。原稿用紙の枠外に「ユキノ」と大書されてある。
 マス目を埋めたおぼつかない筆跡をドクターは追ってみる。
 『拝啓
 さっき、ほかの人がベッドで何かを書いているのを見ました。ユキノは、その人は先生にレターを書いているんだとすぐ分かりました。だからユキノもいそいでこれを書きます。
 先生、ユキノは先生が好きです。ほかの人よりもユキノのほうが、ずっと先生を好き。元気になったら先生のお嫁さんになることがユキノのゆめ。だからユキノは苦いおくすりを飲みます。いたいのも、がまんします。はやく元気になって、先生とけっこんしたら、ユキノがまいにち先生のごはんをつくってあげる。
 先生、ユキノをお嫁にするって、やくそくしてください。ユキノが大きくなるまでまっているって、やくそくしてください。それから、またユキノといっしょにオリガミでおあそびして。
 先生、大好き。
敬具
星守 洋司(ようじ)様』
 ドクターは読んだ原稿用紙をもとどおり折りたたむと、白衣の裏ポケットに入れた。吸いさしのシガレットをくわえ腕を組んだ。長くため息をつきながら中庭の花壇を眺めるともなく眺めるうち、シガレットはものすごい早さでどんどん短くなる。セミの大合唱が窓から壁をつたい室内で反響を続けている。
 ドクターが灰受けにシガレットを押しつけたとき、落ち着いたスリッパの音が扉の向こうに聞こえた。ドクターが顔をやるとすぐ扉はあき、そこに立っていた患者は一礼して入室すると、悠然と書斎机のドクターへ歩み寄り机の端につと指を置いた。ほほえみを浮かべ懐中から四角い小さなスミレ色の西洋封筒を取り出すと、ドクターへ差し向けた。ドクターが手に取ると扉を振り返り、ゆっくりとそこへたどり着いてからもう一度お辞儀をし、扉を閉めた。廊下を歩むスリッパが遠ざかっていった。
 封筒には何も書かれていなかった。ドクターがあけると、封筒と同じスミレ色をした便箋と押し花が出てきた。
 ドクターは便箋をひらき、染みこませてある香水の甘い匂いをかぐと、びっしりと連ねられた細かい文字へと目を向けてみる。
 『前略
 あたくしは貴方様へお詫び申し上げなくてはなりません。お医者様でいらっしゃる貴方様へ、あたくしのような者が取り急ぎこのようなお手紙を差し上げるご無礼をどういたしましょう。のみならず、貴方様をお慕いするあまり前後をうしなっておりますこのあたくしの浅はかな振る舞いが、あたくし自身の身の破滅へとつながるばかりか貴方様への多大なご迷惑となってしまいかねないことを、つたないこの筆を走らせながらあたくしはどれほどにか恐れているでしょう。
 けれどもあたくしは貴方様へ、今こそ恥を忍びましてお伝え申し上げなくてはならないことがございます。どうぞ、あわれんでやってくださいまし。お笑いになってくださいまし。あたくしは貴方様があたくしの寝ておりますベッドのそばへいらして、あたくしを座らせ、寝巻の下に手をお入れになり、貴方様のあのひいやりとしますつめたい聴診器が病めるこの胸、この背に当てられますたび得も言われぬ動揺と激情のうずにのまれ、うち震えているのでございます。貴方様がご自身の熱い手であたくしの脚をさすってくださいますたび、この身の底からおののいているのでございます。恍惚としてよろこびに酔い、気が遠のくうちにも全身全霊で貴方様を求めているのでございます。
 星守様、これほど恐ろしい告白がほかにございますでしょうか。人の妻でありながら貴方様への想いをつづる身勝手さをあたくし重々承知しているつもりでございます。けれどもほかのおふた方の行為をこの目に見てしまいました以上、ほかにどうしようもなかったのでございます。あたくしの心を焦がし枕を濡らし、袖を引き裂き足もとをふらつかせます貴方様への恋慕の情、それは中庭に咲いておりますあの花々よりも強い生命力をそなえているのでございます。先日あたくしが貴方様とともに花壇からつんでまいりました千日紅(センニチコウ)を、あたくしはひそかに押し花にして大切に取っておりましたが、あたくしがここに申し連ねましたことへの貴方様へのあかしとして同封いたします。千日紅はその花言葉を「不変の愛」と申すのでございます、星守様――あたくしの生涯をかけた覚悟と思し召して、いつもお優しい貴方様のこと、どうぞ受け取ってやってくださいまし。そうでなければどうぞひと思いに燃やしてしまってくださいまし。あたくしの行く末は貴方様次第でございます。
星守様みもとに
イオ子』
 ドクターは便箋をたたむと押し花と一緒に封筒へ戻した。白衣の裏ポケットにあった二通とともに机上に置くと、背後の棚から分厚い黒の綴じ込みを取ってきてページをめくり、三名の患者のカルテをあらためた。研修医を呼び、三名をここへ連れてくるよう命じた。
 しばらくして廊下をこちらへとやってくるスリッパの音が近づき、執務室の前まで来て止まった。ノックのあとに扉があき、患者服を着た先ほどの三名が順に入ってきて横一列に並んだ。ドクターは三名を見つめて言った。
 「さて。何から話そうかな」
 ドクターは思案顔になり、しばし黙したあと、三名へ壁に立てかけてある大きな全身鏡を示した。
 「きみたち、その鏡をごらん。まずはきみたち自身の姿を、それで確かめてごらん」
 六つの目がいっせいに鏡を向いた。そこには手前から、ようやく二十歳(はたち)かそこらと見える学生風の若い男と、四十年配のやつれた中年の男と、三十を過ぎたか過ぎないかとおぼしき血色の悪い青年が映っていた。
 「どうかな」ドクターは言葉を選ぶように継いだ。
 「きみたちからのレターはしっかり受け取った。内容も読んだ。ありがとう。だがそこに映っているきみたちの姿は、どうもそのレターの差出人とはちがっているようだ。というのもきみたちは全員、私と同じに男だからだ」
 六つの目は仰天したらしく、それぞれパチパチとまばたきした。それらは怯えきった三つのまなざしとなってドクターへそそがれた。ドクターはやわらかく手を上げ、
 「怖がる必要はない。なんでもないことだよ。きみたちはそろって似たような症状を起こしているから、同室にしてあるんだ」
 明るく言うと、机から最初の封筒を取った。そして学生風の若者へ言った。
 「ミチルというのは、病気で亡くなったきみのお妹さんの名前だよ。きみはかわいがっていた妹さんをうしなった悲しみから、自分を妹さんだと思いこんでいる。自分の代わりに妹さんを生かしてやっているつもりになっているんだ、きみはそうと認めないけれども」
 ドクターは封筒を置き、次に原稿用紙を取った。そしてやつれた中年の男へ、少し気の毒がる表情になって言った。
 「あなたもそうです。ユキノというのはあなたの娘さんのお名前です。かわいそうに、あなたの娘さんは先だっての事故で両腕をなくし、ショックで口が利けなくなったばかりか、好きだったおままごともオリガミ遊びもできなくなってしまったのです。けれどもあなたは治療の効果で、ご自分がユキノさんではないと無意識のうちに気がつき始めていらっしゃる。その証拠にこのレターには平仮名が目立ちますが、『拝啓』『敬具』、そして私の名前の書きぶりには、本来のあなたがあらわれている」
 ドクターは原稿用紙を置き、スミレ色の西洋封筒を取った。そして最後に残った青年を見た。青年の唇は紫色になっていた。
 「さあ、きみ、落ち着いて」ドクターは声を強めた。
 「イオ子というのは、きみが恋したご婦人の名だ。婦人はさる高貴な方の妻であり、きみはかなわぬ恋に懊悩する日々を送っていたが、婦人は近ごろきみではないほかの青年と心中し、きみはそのことが信じられず、以来自分をイオ子と名乗っている。けれども、きみ。きみのなかのイオ子は、新しい恋を得たのかな」
 青年は肩を震わせ、うつむいた。
 ドクターは三通の手紙を重ねそこに手を置くと、金眼鏡の奥から世にも優しい目つきに三名を見つめ始めた。
 「きみたちの想いはよく分かった。とてもよく伝わってきた。けれどもきみたちのなかから、だれかひとりだけを選ぶというのは私には非常にむずかしい。なぜって、きみたちが自分をだれと認識していても、きみたちが男であっても女であっても、それは私にはさほど重要なことではない。きみたちは皆、私の大切な患者だ。私の秘めたる想いがきみたちのなかにも芽生えていたと知って、担当医である私はじつにうれしい」
 青年がはっと顔を上げた。その唇は赤くふくらみ、目には生気が宿っていた。若者と中年男はほうけたように首をかしげた。
 ドクターはつるりとした自身のあごをなでた。その手で三通を握りしめ胸に抱き、微笑して言った。
 「愛している。きみたち三人を同じだけ愛しているよ。なんと言っても私は、生粋の博愛主義的両性愛者だからね」
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