第2話

文字数 3,461文字

「一回だけ、とかっていうんですよ」
「そりゃ、浮気だからよ」
「え?」
「何回もあったら浮気じゃなくて、本気よ」私は意地悪をいった。彼をからかってやろうと思った。「ってゆーか、もうそっちが彼氏かな」
「それは人として許せないでしょ」
「別れたらいいじゃん」
「は?」
「人として許せないんでしょ? だったら別れたほうがいいよ」
 アガワくんはムッとする。「ぼくなんかの立場はママにはわからないと思いますよ」といってすねた。
 立場ってなんだ、立場って。
 それに店で飲んでいる時とは違って、アガワくんには変な自信が見える。酒を飲んでいる時にはない、仕事中の緊張感のようでもあったけれど、いつもと違って攻撃的なのだ。
 ムキになるほど彼女に惚れている、と見るなら微笑ましいが、何も悪い事をしていない自分がひどい目に遭った、というストーリーを披露するアガワくんに彼女への愛情は見当たらない。独善的な男の独り語りを聞かされ私はひどく退屈だった。「かわいそうな自分」にこだわるばかりで、女に裏切られた哀れな男は支持するべき被害者だ、という押しつけがましさがうっとうしい。
「ママにも一度きりの関係とかってあるんでしょ?」
 そうだと決めてから尋ねた感じだった。アガワくんは私に過ちを犯した「女」を期待して、彼女の代わりに私を責めるつもりでいるらしい。
 人として許せない「女」が彼の仮想敵である。中世の魔女狩りか、と私は思った。それにしてもスナックのママを一般女性の代役にするのは強引だろう。アガワくんの彼女がいくつか知らないけれど、少なくとも四十代の私より若いはずで、彼女サンも気の毒だと苦笑しつつ、「あるよ」といって、インチキな査問を受ける事にした。
 あ、あ、あ、とアガワくんは池の鯉みたいに口をパクパクする。「あ、そうですか」と声を上ずらせ、「さ、最低ですよ、最低ですね」と大きな声でいう。
「そうね」と私。「で?」
「は?」
「だから、何?」
「そ、それマジで、それっきりですか? ホントに一回だけですか?」
「うん」
「嘘でしょ。そんなん絶対嘘でしょ。また会って、や、やるんでしょ」
「やるって、何を?」
「やるって、そんな」とアガワくんはうつむいた。「そんな事、僕にいわせないで下さいよ」
 そっちが振った話を人の所為にするとはたいした詐欺師だ。私はアガワくんの「テレアポ」の手の内を見た気がした。「ねえ、何? やるって、何を?」
 ねぇ、何よ、と迫ると震える手で水を飲むアガワくんの顔が青ざめている。「やる」話が恥ずかしくて照れたのではない。話が「やる」事に及んでアガワくんはひどく動揺した。
 急に腹でも下したか、体の具合を悪くしたような彼が滑稽で、気の毒にもなってきたけれど、彼の触れてほしくないところに触れられただけでこちらにはもう十分である。
 アガワくんは何より彼女が浮気をしたという事実に傷ついている。彼女に浮気をされたのではなく、彼は彼女を寝取られたか、と当たりをつけて私は彼の傷口に塩を塗り込んだ。
「ラーメン食べに行ったのよ」
「はい?」
「ホテル出てからね」
 事を済ませた男と中華料理屋へ行ってラーメンを食べたと私はいった。「そしたらね『セックスの後のラーメンはうまい』と彼がいって、私もおいしいと思ったの」
 お腹空いてたから。私がそういうとアガワくんは顔を引きつらせて笑う。
 さらに「激しい運動の後だったから」といって追い込めば、ひ、ひ、ひ、とアガワくんが苦しそうに笑った。顔面と声帯に無理をさせて、そんな話を聞かされても自分は平気だと見栄を張っている。
「本当にそれきりなんですか?」
 本当に一回だけですか? とアガワくんはつぶらな瞳に涙を浮かべ、すがるようにいった。彼女にそうあってほしいと心から願っているらしい。
「そうに決まってるわよ」と私。「それに会おうにも、名前も知らないしね」
「えぇ!」
 アガワくんは信じられないといった感じで小さな目を目一杯丸くした。「あり得ないでしょ」汚いものでも見るような目つきになり大きくため息をついた。
 私は、アガワくんの彼女の浮気相手はアガワくんの知っている人、それも友だちと呼べるくらい親しい人だと思った。そうなると彼は彼女ばかりではなく、友だちにも裏切られているけれど。
「誰でもいいんですね」
 アガワくんは自分にいい聞かせるようにいった。特定の男ではなく、相手は誰でも良かった。彼女の浮気が、そんな行きずりの男との関係であってほしかったか。
 結局は彼女に惚れているんじゃないか、と私は思った。
 だったら許してやれよ、とこちらの思いをよそに、「それは人としては許されない事です」頷きながらアガワくんは腕を組み、頑として譲らない。さらに「スナックのママなんかは性に奔放なんでしょ」吐き捨てるようにいって今度は私に当たりはじめた。
 しらふでも酒癖の悪さを見せるアガワくんはすっかり自分に酔っている。人を見下すと傷ついた心とプライドがいくらか癒えたらしく、男の名誉も回復したか、ニヤニヤ笑う余裕も出てきた。
「あの、タキっていう人、ママの男でしょ?」
「違うわよ」
「古い付き合いって感じでしょ」
「そうね」
「あ、ひょっとして、ママのひと晩限りの相手って、タキっていう人ですか?」
「店の客とはしない」
「嘘でしょ」
「嘘じゃない」
「一回はやってる」
「しない」
「絶対やってる」
 アガワくんはしつこく、いい方もだんだんと露骨になり従来の粘り強さを発揮する。喫茶店のマスターがカウンターからこちらのテーブルを見ていた。
 騒がしくてすいません、と私はマスターに目で謝り、アガワくんの童顔に向き直ると、あのね、といって声を落とした。
「名前知ってるじゃん」
「あ」
 目がテンになったアガワくんに、でしょ、といって私は続ける。「それにさ、私が誰か一人、お客さんと関係したらつまんないでしょ」
「そ、そうですか?」
「考えてみなさいよ。女の子が何人かいる店ならまだしも、うちは私一人でしょ」
 うーん、とアガワくんは眉をへの字にした。「確かにママが誰かに独占されてたら、つまんないですね。はじめっからチャンスなしって感じで」
「でしょ。もちろん私目当てに来るお客さんばかりじゃない。どちらかというと、うちってお客さん同士で飲む店だしね。ただチャンスというか、色気がないのもおもしろくないからね」
 そっか、そっか、とアガワくんは頷いた。スナックの女に職務上の節度がある事を意外に思い、納得もしたらしいが、「ママが客とやったら売春みたくなりますね」といい、「でもスナックは飲食店ですもんね」といって今度はうんちくを語り出した。
 スナックは元々はスナックバー。アメリカの軽食の店を模した店で、それが戦後に入ってきた、とネットの知恵袋にありそうなスナックの謂れを得意そうに披露する。アメリカ兵相手の商売だった事を強調し、当時はパンパンと呼ばれる街娼なんかが出入りして、と情報番組のコメンテーターみたいな訳知り顔になってスナックはかつて売春婦のたまり場だったとアガワくんは結論づけた。そして、
「それにしても、女性はいざとなれば売春で稼げるから得ですよね」
 体を使ったら楽に稼げるわけですから、といって、それができる女性をリスペクトする(?)。うらやましいです、と微笑むアガワくんに、私はこらえきれず、吹き出した。
「アハハハハハ」
 もちろん彼の敬意を真に受けたわけではない。アガワくんの声には「女」への憎悪がたっぷり含まれて、本人も自覚のないその悪意を私は心底怖いと思ったのである。
 それにこの時、アガワくんが老人に見えてギョッとした。
「桜」の薄暗い店内ではわからなかったけれど、アガワくんの童顔にはシミやたるみが目立ち、経年劣化じゃない人為的な原因に老化したみたいな顔が薄気味悪かった。
 幼い老け顔で儲け話をされてもあやしくて信用できないけれど、耳に優しい声だけを聞かされたら心地よさを頼りに誰もが信じたい情報だけを寄せ集めインチキに身を任せてしまうのかもしれない。そしてついつい会う約束をして、実際に対面すると不気味な顔に迫られ契約せざるを得なくなって……。
 ハハハハハハ、とアガワくんも私と一緒に笑っていた。「でも今は大変ですよね、夜の街なんかは」
 そういって珈琲を飲もうとした手を止め、「あ」と、アガワくんは声を漏らした。
 マスクの上のつぶらな目が、しまった、といっている。
「夜の街」という言葉が発した本人にも差別的に聞こえたのである。

(つづく、次回最終話)
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