第1話

文字数 1,998文字

 始発電車を待つ駅のホーム。寒さに体が震える。おまけに今日は潮の香りが強い。海風が街に吹き込んでいるのだ。酒に酔った頭が痛む。傍らの吉野は涼しい顔で缶コーヒーを啜っていた。
「吉野、お前酔ってないのか」
「最近酒に酔わなくてな」
 昨夜は幼馴染の四人で酒を酌み交わした。吉野の快気祝いだった。二か月前、大型バスに乗っていたこいつは事故に遭った。崖から転落した上に、山の深さや悪天候も重なり救助活動は困難を極めた。乗客乗員に生存者はいなかった。ただ一人、吉野を除いて。
亡くなった方々を偲び、また吉野の無事を祝って大いに酒を飲んだ。二軒目を出たところまでは良かった。誰かがカラオケに行こうと言った。
「吉野、体調は大丈夫か」
本人に確認したことは覚えている。大丈夫。ありがとう。そう言って白い歯を見せた。
流石に徹夜でカラオケはきつい、とこめかみを揉む。
「俺達も三十路を越えたからね」
「上杉と武田は漫喫で寝てから帰るってな」
「首や腰を痛めそう」
 俺は既に腰が痛い。カラオケのソファで寝てしまったからだ。昔は平気で朝まで遊べたのに、近頃は体がついて来ない。そう言えばデコも広がってきた。
「禿げる前に結婚したい」
「何だよ急に」
 笑い声は滑り込んで来た電車にかき消された。冷たい風が顔に当たる。
 車内は外と対照的にむせかえるほど暖房が効いていた。寒暖差で調子が悪くなりそうだ。窓を少し開ける。始発で客は一人もいないし、これくらいはいいだろう。
 電車が動き出す。腰を下ろすと倦怠感が襲って来た。寝過ごしそう、と呟く。
「こら。お前は俺より先の駅で降りるんだから面倒はみられないぞ」
「家まで送って」
「病み上がりの人間に頼むことじゃないな」
 その言葉に吉野へ向き直る。
「やっぱり体調悪いんか」
 んー、と生返事をした。もしかして無理に付き合っていたのか。必要以上に優しいこいつは、よく自分を押し殺して他人に合わせていた。一晩中、我慢していたのではないか。不安が募る。
「体は平気」
 吉野は缶を軽く振った。水音が微かに響く。
「でも落ち着かないんだ。あれからずっと」
 言葉を切った。促すのも気が引けて、黙って待つ。窓の外では徐々に陽が差し始めていた。街が、空気が、濃い紺色に染まっていく。
「事故に遭った時さ」
 唐突な再開に、おう、と相槌を打つ。
「生きている人もいたんだ。食料を分け合い、怪我人の手当てをして、互いを励ました。皆、懸命に生き延びようとした。でも皆死んだ。最後まで残った俺は、誰も助けられなかった。やがて俺も動けなくなった。目が見えなくなった。耳が聞こえなくなった。あの時俺も死んだはずだ。病室で目覚めて最初に思ったのが、何故、だった。どうして、どうやって俺は生き残ったのか。わからない」
 言葉が見付からない。なすすべなく幾人もの死を目の当たりにした。それはどれほどの重みか。友に俺は何を言えばいい。
「お前だから話した。ちょっと気が楽になったよ。ありがとう」
 そうして、誰にでも話せることじゃないからなと吉野は笑った。胸の痛む笑顔だった。しばし悩んだ後、口を開く。
「亡くなった人には悪いが、俺はお前が生きていて嬉しい」
 吉野は目を丸くした。息を一つつくと俺の肩に手を置いた。
「ありがとう」
 その時、凄まじい地響きが起こった。急ブレーキがかかる。バランスを崩した俺は床に倒れた。
「何だあ」
 叫びが口を突く。顔を上げると仁王立ちした吉野が真っ直ぐに外を見ていた。視線を追う。
 朝日を背に、巨大な物体が立っていた。
 あっちは海岸だ。海から来たのか。そもそもあれは何だ。二足歩行のトカゲ。ただし身の丈は百メートル以上。
 怪獣。
 トカゲは頭をもたげ咆哮した。空気が震える。そして街へ前進を始めた。
「やめろ」
 思わず叫ぶ。そこにはたくさんの人がいる。俺達の友人もいる。死ぬ。殺される。皆、踏み潰される。やめろ。やめろ。
「田端ぁ」
 唐突に名前を呼ばれた。背中を軽く叩かれる。
「俺、思い出したわ」
 吉野が電車の扉に手をかけた。掴んだところがひしゃげる。素手でこじ開けると、勢い余って外れた扉が線路に落ちた。
「生き返った理由も、これからどうしなきゃいけないのかも」
 吉野が外に踏み出す。しかし地に降りることは無かった。
「酒に酔わなくなったのがどうしてなのかも」
 宙に浮かんだ幼馴染は、こちらへ振り返った。
「今度こそ、助けてみせるよ」
 吉野、と伸ばした俺の手は飛び立つ友に届かなかった。

 突如現れた怪獣は、こちらも突然現れた謎の巨人に葬られた。戦闘は海辺で行われ、人的、物的被害は出たものの巨人が怪獣の進行を止めなければこの数十倍にのぼったとみられる。
 吉野に何度も連絡したが、応答は無い。住んでいたアパートも引き払われていた。これから世界に起こるかもしれないこと。彼の身に起きたこと。それらを思い、彼の心身が無事であることをひたすらに願う。
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