エピローグ

文字数 5,066文字

 窓を叩く雨音で目を覚ました。俺はベッドの上で一人だった。もう何年ものあいだ俺は一人だったのに、一人の朝を迎えるのが随分と久しく感じられた。
 部屋の中は薄暗かった。相変わらず窓を叩き続ける雨粒の音が、俺の頭の中を掻き乱していた。ガラスを伝って雨粒が流れ落ちる様は、俺の心中の様相を呈しているようだった。
 キッチンへ向かい、ガスコンロのスイッチを操作する。火花を散らす耳障りな音が部屋の中で反響した。一度の操作で点火できず、三度目でやっと火が灯る。
 コンロの上にある鍋を覗き込んだ。ワカメがだらしなく浮かんでおり、はっきりとは見えないが底には豆腐が沈んでいるはずだった。コンロの火に熱せられて底から湧き上がる黄土色の対流を、ただじっと見ていた。昨日までの出来事は夢だったんじゃないかと、どこかで疑う自分がいた。あいつのいた確かな証拠が、今こうして目の前にあるのに。目で見て、鼻で香りを感じているのに、実は俺の妄想だったんじゃないかと、どこかで思っていた。現実と妄想の境を俺は見失っていた。
 冷蔵庫を開けて、取り出した容器からおにぎりと唐揚げを皿に移し、レンジで温める。おにぎりは少々小ぶりで、自分の手を重ねると小ささがさらに際立った。
 温まった味噌汁を碗に注いで、一口啜る。香りと共に、この五日間の記憶が俺の中に広がった。そうだ。夢ではない。小さくて、しっかりしていて、意外と甘えたがりで、寂しがりな少女は、確かにここにいた。俺が疑うわけにはいかなかった。否定するわけにはいかなかった。
 俺にはまだやらなければならないことがある。
 朝食を終えるとグレーのパーカーを羽織り、玄関を出る。外は相変わらず雨が降り続いていて、玄関前にできた水たまりは風に吹かれて水面が波紋のように靡いていた。傘立てからビニール傘を一本抜き取り、傘を開きながらアパートの出口へ向かって歩を進めた。
 目的はアパートから出ることではない。アパートの敷地に入ってすぐのところにある、二階へと続く階段。俺がまだ一度も足を踏み入れたことのない領域だった。
 階段に足を乗せて体重をかけると、金属の軋む音が鳴る。よく見ると全体的に錆びて茶色く変色した階段は部分的に穴が開き、向こう側の地面が透けて見えていた。抜け落ちるのも時間の問題だろう。普段利用しない俺にとってはどうでも良いことだった。用事を済ます、今この時だけ保ってくれればそれでいい。
 ミシ、ミシと音をたてながら階段をゆっくりと登っていく。長いことこのアパートに住んでいるが、普段見ない高いところからの景色は新鮮だった。もし引っ越すことがあれば、次は二階に住むのもいいかもしれない。そんなことを考えながら最後の一段を踏み締めた。階段を登りきって、さらに奥に進んだ先の突き当たり、俺の部屋の真上、そこが目的の部屋だった。
 扉の前に立つ。扉の横のインターフォンの上には、マジックで「河部」と手書きされたネームプレートがかかっていた。
 
 紫外線で黄色く変色した、インターホンのボタンを押し込む。来訪者を告げる音が、微かにではあるがドア越しの俺の耳にまで届いて来た。
 十秒程経過しても反応がなく、再度インターホンを押そうと手を伸ばしかけたところで手を止めた。ドアの向こうで人の動く気配がする。ドアスコープでこちらの様子を窺っているのだろうか。だとしたら、部屋の主は大変困惑しているだろう。突然の来訪者が正体不明の見知らぬ男だったら、誰だって警戒する。
「下の部屋の者です。神沢と申します。少しお話ししたいことがありまして」
 身分を明かしてもなお反応がないため、続けてドアの向こうに呼びかけた。
「サヤさんのことでお話があります。母親である、あなたに」
 ドアの向こうで息を飲むような気配を感じた。
 サヤ曰く、この時間あのクソ親父はどこかに出かけているのだという。クズな人間が毎日のルーティンで行く場所など大体見当がついているが、それはともかくとして今ドアの向こうにいる人間は母親以外にあり得ないはずだ。
 たっぷり一分ほど待っただろうか。錠の解かれる音がすると、ゆっくりと扉が開いた。扉の隙間からは、痩せ細り正気の抜けた様子の女性が顔を出した。
 サヤの年齢から考えるに恐らく三十代半ばくらいだろうと予想していたが、出てきた女性の容姿は四十代かと思わせるような印象を受けた。酷くやつれ、目の下の黒々とした隈のせいで実年齢よりもかなり老けて見えているようだ。
「…とりあえず、入ってください」
 出て来た女性が扉を開け放ち、扉を押さえたまま半歩ほど身体を退いた。こんなに容易に招き入れてもらえるとは思っていなかったため少し困惑したが、周りに聞かれたくない内容であることを警戒したのだろうか。もしかするとそれは俺の考えすぎで、雨が降っているからというただの気遣いだったのかもしれない。
「娘についてのお話とは、なんでしょうか」
 蚊の鳴くような声とはまさにこのような声を言うのだろう、耳を澄ませなければ聞き逃してしまいそうだった。
「サヤさんが亡くなったことは…ニュースで拝見しました。サヤさんは生前、話し相手としてよく僕の元を訪れて来ていたもので、大変驚きました」
 これはもちろん嘘だ。しかし、この五日間の出来事を全て正直に説明したところで信じてもらえるとは思っていないし、不審者として警察を呼ばれてしまうのは目に見えている。とにかく、でっち上げでも話を聞いてもらうにはこうするしかなかった。嘘も方便だ。
「そう…なんですか…。それでは…あの子がどういう生活をして来たのかも…?」
「はい。全て聞いています。大事にしたくないという彼女の要望で、そのことは僕は誰にも喋っていません」
 自分で言っていて胸が痛くなった。もし仮に生前のサヤからそんな話を聞いていたら、間違いなく警察沙汰にしているし、なんなら俺自身が乗り込んでクソ野郎に掴みかかっていたかもしれない。真下の部屋にずっと住んでいながら気づくことができなかった自分に、ずっと腹が立っていた。
「最初のうちは、私も止めようとしていました。でも私一人で止められるようなものではなく…。それに、庇ったところで暴力が長引くだけなので…最近は見て見ぬふりを続けていました…」
 彼女は焦点の合わない目で、ぼんやりと俺の胸のあたりに視線を彷徨わせながら喋り続ける。
「どうにもならなかったんです。どうにかしようとしても、ダメだった。だから…」
 いずれこうなることは予想できていた。そう続けようとしたのか、言い切る前に途中で言葉を止めた。余計なことを言いそうだと思ったのか、彼女は口をつぐんでしまった。
「これを見てください」
 彼女にスマートフォンを渡し、画面を見るよう促す。受け取った彼女は画面を覗き込むと目を見開き、その手が震えだした。彼女に見せたのは一枚の写真。サヤと乗った、観覧車で撮ったあの写真だった。
「サヤさんはやりたい事が色々あると言っていました。幼少期に、お父さんとあなたと三人で遊園地に行ったそうですね。彼女はその日に乗れなかったジェットコースターに乗るのが夢だと言っていました。この写真は、そんな彼女を遊園地に連れて行った時のものです」
 その写真の中で、サヤは太陽のような笑顔をカメラに向けていた。恐らくあの男がやって来てからは一度もなかったであろう、本物の笑顔。
「あの子のこんな顔…もう何年も見ていないです…こんなに眩しい顔…っ」
 写真を凝視する母親の目元から涙が溢れ出した。唇を噛み締め、わなわなと身体を震わせている。
「俺は彼女に、他に何かやりたいことはないかと聞きました。彼女は、死んだ父親のオムライスを食べたい、と言いました。昔家族で言ったピクニックをもう一度したい、とも言いました。彼女は…サヤはそんな些細な家族の触れ合いをいつも夢見ていたんです」
 俺のスマートフォンはすでにバックライトが消えて真っ暗な画面を映していたが、サヤの母親は我が子を離さんとばかりに強く握りしめていた。叫びたいのを堪えるようにくぐもった声を上げ、大きく息を吸うと、諦めたようにスマートフォンを俺に差し出してくる。
「ありがとうございます。私は、ダメな母親でした。たった一人の愛しい娘すら自分の手で守れなかった。さっさと二人であの男から逃げ出していれば、こんなことにはならなかったのに…」グッと下唇を噛みしめ「きっとあの子も私を恨んでいると思います」
 彼女は右手で自分の痩せ細った腕を強く握りしめた。白くなるほど爪を立て、その場所からは血が滲み出ていた。
 彼女が自責の念に囚われているであろうことは容易に想像が出来た。そして、そう予想していたのはサヤも同じだったようで、その事だけがサヤの心残りだったようだ。だから俺は今日、こうして母親の元を訪れた。
「サヤさんから、あなた宛に伝言を預かっています」
 俯いていた母親が、跳ねるように顔を上げた。
「伝言ですか…?私宛に…?」
「はい。自分に何かあったらお母さんに伝えて欲しい、と。お伝えしてもいいですか?」
 彼女は視線を落として沈黙した。その表情は不安にまみれ、どこか一点を見つめて何かを考えているようだったが、やがて決心がついたのか視線を上げた。それを了承の念と受け取った俺は、サヤの言葉を彼女に伝える。
「『お母さん、ごめんなさい。あの人が私を殴るのは、私が弱かったから、私が情けなかったからでした。そして、そんな私を守る事ができなくて辛い顔をしているお母さんを見ていて、私も辛くなりました。私の代わりに殴られるお母さんを見て、私も悲しくなりました。私がもっと強かったら、お母さんにあんな思いをさせずに済んだのに。きっと私がいなければ、あの人は暴力を振るうこともなくて、お母さんと楽しく暮らしていたのかもしれない。それでも、そんな私をお母さんは愛してくれました。とても嬉しかった。私はそんなお母さんが今も大好きです。助けてあげられなくてごめんなさい。次もまたお母さんの子供に生まれると良いな』」
 これがサヤからの伝言だった。家庭を崩壊させたのはあの男だが、サヤはその元凶が自分にあると思い込んでいた。そして、そんな元凶である自分を庇って殴られる母親に謝りたかった。自己犠牲の精神。しかも自分が犠牲になっているという自覚がなく、むしろ自分を責めるようなその思いに俺は抗議をしたかったが、これがサヤの想いなのであれば俺には口出しができない。彼女の想いそのままを、母親に伝えることにした。
 母親は呆然とした表情で立ち竦み、やがて膝が震えだして立っていられなくなったのか、崩れ落ちた。
「これが彼女の想いです。サヤはあなたを恨んでなんかいません。むしろ、あなたに対して後ろめたさを感じていました。その想いに対しては、俺からは何も言いません。ただ、あなたにあとほんの少しでも勇気があれば、ただ彼女の手を引いて家を出て助けを求めるだけで、彼女は助かったんじゃないかと俺は思います」
「ああっ…ああああぁぁ…」
 母親は両手で顔を覆い、悲痛な叫び声を上げた。髪を振り乱し、身体をくの字に折り曲げて叫んだ。両手の隙間からこぼれた涙が床に落ち、床に染みを作っていった。
「僕が話したかったのは以上です。僕から警察に何か話したりするつもりはありません。あなたにお任せします。サヤを想う、あなたの心に」
 それだけ言うと、俺は泣き崩れる彼女を残して部屋を出た。降り続いていた雨はいつのまにか落ち着いていて、雲の切れ間からは陽光が差し込んでいた。光が反射して輝いている階段を降り、俺は部屋へと戻った。部屋のテーブルの上には朝に温めた唐揚げの残りを置いたままにしていた。それを一つつまみ、口にした。とても、優しい味がした。
 
 それから二日ほどして、死体遺棄事件の犯人が逮捕されたと言うニュースが流れてきた。画面に映し出されたのは、見知った男女の顔写真。女性の方は執行猶予付きとなったようだ。
 これであいつも報われるだろうか。
 俺は、久しく連絡のとっていなかった、ある番号に電話をかけた。
「もしもし、お世話になっています。お久しぶりです。はい。えぇ。ちょっと次の作品の相談なのですが…死んだことに気付いていない幽霊の女の子と同居生活する話なんてどうでしょうか。えぇ、内容は…」
 
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