地図を持たずに天国へ行こう 2
文字数 2,012文字
目を眇めると、淡く揺らぐ黒い睫毛たちが視界に映る。肩には艶のある長い髪が、束になって垂れ下がっている。
他人事のように語っているが、全て私の容姿のことだ。
──私はこんな姿だっただろうか。
──こんなに綺麗だっただろうか。
思わず顎に手を寄せる。すると何の抵抗もなく肌を滑る指先に、矢張り私は違和感を持たずには居られなかった。
(私はもしかすると、記憶を失っているのではないか?)
先程までの混乱していた状態が嘘のように、私は極めて冷静に、自分を観察していた。だがしかし、何かが分かったということもなく、時間だけが過ぎていく。
あるのは違和感だ。
目が覚めると、知らない部屋に閉じ込められていたことも。目の前の少女が、訝しげに私を見詰めてくるこの状況も。
記憶を失っていると仮定しても、自分の姿形を、丸っ切り忘れてしまうことがあり得るのだろうか。
よしんば事例があるのだとしても、私が感じているこの『違和感』の正体は分からずじまいであろう。これは半ば確信に近いものなのだ。
(忘れているのではなく、違うのだ)
この体が。この状況が。
私には受け入れられない。
「……先生?」
震えるように声に、私はふっと意識を戻した。そして新たな悩みが出現する。
──この娘には何と云えば良いのだろう。『私』を誰かと結びつけている少女に対し、誤解を与えずに今の状況を伝えるのは、並大抵のことではない。そして私は、それを行う弁論術も、言いくるめる為の技術も、何一つ持ち合わせていない。ただただ、なす術もなく逡巡するのみだった。
だが、次の瞬間。少女の口から飛び出してきた言葉は、私を驚かすに充分足りるものだった。
「やっぱり……。先生じゃないんですね」
少女は《やはり》と云ったのだ。混乱しているだけかも知れない私という者に対して、『やはりお前は違う人間だ』と。
誤解のないように云っておくと、彼女は薄暗い部屋の所為で、私と『先生』の顔を見間違えてしまった──という訳ではない。
彼女の言動からは、『先生の筈なのに先生ではない』というある種、戸惑いのニュアンスを感じ取れたからだ。
(或いは後悔……だろうか)
不思議なことに彼女は、おかしいと思いながら──そんな筈はないと、少々の拒否感を示しながらも、強い確信を持って私が『先生』ではないと判じたようであった。
これはよくよく考えると大きな矛盾であったのだが、動揺していた私は、そこまで辿り着く余裕が無かった。
「先生が……云ってました。実験をするから……その後の自分も…よろしくって」
「──実験? ど、如何いう……」
「だから。安心して下さい。私のことは…信用して…良いですよ?」
私の勇気を絞って繰り出した質問は、声が掠れていて、しかも微声だったので無視される結果となった。
一応何か云ったかな、という程度には気にかけてもらえたようなので、コミュニケーションを取る際には、それ程苦労しないだろうと安心する。実際、彼女の喋っている途中に、私が割り込む形で質問したので、独り言だと思われたのかも知れない。それはそれで寂しい奴だが──
「ちょ、ちょっと待って。まず『先生』って誰なの。あと此処はどこ?
……それに僕は君のことを知らないよ。なのにいきなり『信用して』何て云われても……僕には判断が付かない」
「あっ、……ご、ごめんなさいっ」
顔を赤くして謝る少女を見て、私は漸く自分が混乱していたことに気付いた。
後先考えずに、矢継ぎ早に質問をするのは悪い癖なのかも知れない。尤も、ついさっき目覚めたばかりの記憶喪失者に、癖も何もあったものではないのだが。
しかし、そうは云っても『君のことを知らない』というのは悪手だったと思わざるを得ない。今は仮定として記憶喪失なのだから、過去に知り合っていたのかも知れないじゃないか。相手に一方的に忘れられるのは、結構なショックの筈だ。
仮令 気にされていないのだとしても、今現在、頼れる相手が目の前の少女しか居ないのだから、分からないという判断は一番最悪だ。此方が選べる立場に無い以上、上からの高圧的な態度は止めた方が良いだろう。
「いや、ごめん。本当は此方から頼むべきことなのに。君が信用して良いと云っているのに、拒否するのは間違っているよね。
改めてお願いします。今は如何いう状況なのか、教えてくれませんか?」
「い、いえ…。確かに先生は…色々と混乱しているでしょうから。先に自己紹介するべきだったんです。
私の名前は六笠 叶 です」
彼女はそう名乗った。続けて、
「先程の先生の質問……。答えると、此処は病棟です。
そして『先生』は、私たち患者の話を聞くカ ウ ン セ ラ ー です」
他人事のように語っているが、全て私の容姿のことだ。
──私はこんな姿だっただろうか。
──こんなに綺麗だっただろうか。
思わず顎に手を寄せる。すると何の抵抗もなく肌を滑る指先に、矢張り私は違和感を持たずには居られなかった。
(私はもしかすると、記憶を失っているのではないか?)
先程までの混乱していた状態が嘘のように、私は極めて冷静に、自分を観察していた。だがしかし、何かが分かったということもなく、時間だけが過ぎていく。
あるのは違和感だ。
目が覚めると、知らない部屋に閉じ込められていたことも。目の前の少女が、訝しげに私を見詰めてくるこの状況も。
記憶を失っていると仮定しても、自分の姿形を、丸っ切り忘れてしまうことがあり得るのだろうか。
よしんば事例があるのだとしても、私が感じているこの『違和感』の正体は分からずじまいであろう。これは半ば確信に近いものなのだ。
(忘れているのではなく、違うのだ)
この体が。この状況が。
私には受け入れられない。
「……先生?」
震えるように声に、私はふっと意識を戻した。そして新たな悩みが出現する。
──この娘には何と云えば良いのだろう。『私』を誰かと結びつけている少女に対し、誤解を与えずに今の状況を伝えるのは、並大抵のことではない。そして私は、それを行う弁論術も、言いくるめる為の技術も、何一つ持ち合わせていない。ただただ、なす術もなく逡巡するのみだった。
だが、次の瞬間。少女の口から飛び出してきた言葉は、私を驚かすに充分足りるものだった。
「やっぱり……。先生じゃないんですね」
少女は《やはり》と云ったのだ。混乱しているだけかも知れない私という者に対して、『やはりお前は違う人間だ』と。
誤解のないように云っておくと、彼女は薄暗い部屋の所為で、私と『先生』の顔を見間違えてしまった──という訳ではない。
彼女の言動からは、『先生の筈なのに先生ではない』というある種、戸惑いのニュアンスを感じ取れたからだ。
(或いは後悔……だろうか)
不思議なことに彼女は、おかしいと思いながら──そんな筈はないと、少々の拒否感を示しながらも、強い確信を持って私が『先生』ではないと判じたようであった。
これはよくよく考えると大きな矛盾であったのだが、動揺していた私は、そこまで辿り着く余裕が無かった。
「先生が……云ってました。実験をするから……その後の自分も…よろしくって」
「──実験? ど、如何いう……」
「だから。安心して下さい。私のことは…信用して…良いですよ?」
私の勇気を絞って繰り出した質問は、声が掠れていて、しかも微声だったので無視される結果となった。
一応何か云ったかな、という程度には気にかけてもらえたようなので、コミュニケーションを取る際には、それ程苦労しないだろうと安心する。実際、彼女の喋っている途中に、私が割り込む形で質問したので、独り言だと思われたのかも知れない。それはそれで寂しい奴だが──
「ちょ、ちょっと待って。まず『先生』って誰なの。あと此処はどこ?
……それに僕は君のことを知らないよ。なのにいきなり『信用して』何て云われても……僕には判断が付かない」
「あっ、……ご、ごめんなさいっ」
顔を赤くして謝る少女を見て、私は漸く自分が混乱していたことに気付いた。
後先考えずに、矢継ぎ早に質問をするのは悪い癖なのかも知れない。尤も、ついさっき目覚めたばかりの記憶喪失者に、癖も何もあったものではないのだが。
しかし、そうは云っても『君のことを知らない』というのは悪手だったと思わざるを得ない。今は仮定として記憶喪失なのだから、過去に知り合っていたのかも知れないじゃないか。相手に一方的に忘れられるのは、結構なショックの筈だ。
「いや、ごめん。本当は此方から頼むべきことなのに。君が信用して良いと云っているのに、拒否するのは間違っているよね。
改めてお願いします。今は如何いう状況なのか、教えてくれませんか?」
「い、いえ…。確かに先生は…色々と混乱しているでしょうから。先に自己紹介するべきだったんです。
私の名前は
彼女はそう名乗った。続けて、
「先程の先生の質問……。答えると、此処は病棟です。
そして『先生』は、私たち患者の話を聞く