第1話 永田町

文字数 1,158文字

 会社のある虎ノ門から、ずんずん坂を上がっていくと永田町がある。16時を過ぎてすぐ、発作的にオフィスを飛び出してから、10分も歩けばもう別の街にいる。このことは、鬱々とした気分にとらわれ、心身にまとわりつくザワザワ感から逃れたいと焦る現在の湊にとり、いくらか救いであった。特許庁の横を抜け、内閣府下の交差点で信号の変わるのを待つとき、向こう側に見えた警備いかめしい永田町は、どこか日常と乖離していて天界のように映った。
 官邸を左手に見て、内閣府、議事堂の横をゆく。真っ直ぐ伸びる歩道には銀杏が植えられ、時々、地面にぶち撒けられた実の感覚を靴底で知った。
 坂の終わりが近付き、東京メトロ永田町駅の青い看板が目に入ると、湊はほうと息を吐いた。信号を渡れば、すぐに僕は解放されるのだ。その期待感が、彼の鼓動を加速させる。点字ブロックの最前部で立ち止まり、車両用信号機に付けられた「国会図書館前」の標示を見て、さらに気持ちが昂る。歩行者用信号が青に変わった瞬間、倒れるように飛び出し、横断歩道を渡り切る前に右折をし、入口へと急いだ。しばらく進んで左に向き、本館入口の自動ドアに正面に捉えたとき、
「もう大丈夫」
 という安心感がどっと溢れてきた。国会図書館に着いたぞ、という喜びが、一瞬、彼の思考の霧を払い、清涼な気分にさせた。
 社会人になって数年、なぜか無性に心も体も国会図書館を求める衝動に襲われることがある。これまでは、うまく仕事を調整し、半日あるいは終日の有給休暇をとって向かっていた。しかし、今日はどうしてもダメだった。15時頃、オフィスで左隣に座る上司に
「今日は定時で一旦抜けて、国会図書館に行ってからまた戻ってきます」
 と宣言をし、俺も国会図書館好きだよ、と笑う上司にゆるされて、16時の勤務終了後、憑かれたようにすぅっとここに導かれてしまった。
 ロッカーに荷物をしまい、登録利用者カードの挟み込まれた財布をゲートにタッチし、カウンター近くの空いているPC席に陣取った。オンラインシステムから、貸出の申込をした。本がカウンターに届くまで時間があるから、デジタルで閲覧可能な上林暁の『聖ヨハネ病院にて 病妻物語全篇』を端末上でプチプチと眺めた。
 一番はじめに載っていたのは、「明月記」という短篇だった。「病妻物語」と冠されているとおり、精神を病んだ妻と主人公とのやりとりが出てくる。読み進めるうちに、湊は胸がつかえるような不安感を覚えた。今の僕にはよくないテーマだったかしら。苦く思いながらも、瘡蓋を剝がすような気持ちでクリックする手が止まらない。読み終え、一呼吸置いたとき、突然全身の力が抜けた。
「融ける」
 咄嗟に思い、廊下に飛び出した。人のいないベンチに倒れるように座る。ほどなく、湊の身体はどろりと液状化した。
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