第1話

文字数 1,932文字

私たちは皆、鍋を抱えて生きている。

鍋の中身は、グツグツ煮えている。
これまでの人生で積み上げてきた経験や学んできた常識、人間関係や生活のルール、そして、そんな風に言うには大袈裟すぎる日常の些細なこと。
昨日食べた夕食。回覧板を回す順番。10年飽きずに食べてきたお菓子。初対面の相手にふさわしい話題。まずかった缶チューハイ。道路は青信号で渡ること。一昨日言われた容姿への侮辱。葬式に合った服装。初めて買ったCD。小学6年生の時の担任の誉め言葉。祖父母の食の好み。昨夜8時の課長からの叱責。空が青く見える理由。高校卒業の日の家族からの「いってらっしゃい」
そんなものたちが全て混ざって煮えている。

たまに鍋をひっくり返したくなる。
どこかに置き去りにしたくなる。
中身だけじゃなく、鍋本体から全て替えたくなる。
でも、なかなかそれができない。
その重さにも温度にも色にも匂いにも、心底うんざりしながら手放せない。
なぜならその鍋こそが、自分そのものだと思っているからだ。

でもたまに、「捨てた人」に触れることがある。もしかしたら、そう見えるだけかもしれないけれど。

創作物で言えば『月と6ペンス』の画家。
主人公はどうしてかその画家に惹かれる。
最低な人物だと評価しているのに。
画家の周りにいる女たちも、自殺するほど彼を愛してしまう。
良い恋人となるに当てはまる条件など、何1つ持っていないのに。

実在の人物では、例えば、2年半以上逃亡し続けた殺人犯。
殺人後に自らの手で自分の鼻や唇を整形手術して、無人島で生き延び、全てから逃げ続けていた男。
彼には逮捕後もファンクラブが存在し、会員が多数いたという。

または、児童連続殺人事件を起こした犯人。
それから、テロ事件を起こした宗教団体の幹部や実行犯たち。
事件当時はもちろんのこと、未だに人々は、彼らの起こした事件や人間性を話題にする。
彼らをインタビューし、その生い立ちを追い、心理や行動の基を考察した書籍が多くの分野で出版され、現在も取り上げられる。

そして、記憶に新しいのは、自宅アパートでインターネットを通じて知り合った人を次々殺害し、死体をその部屋で処理していた連続殺人犯だ。
彼は獄中で結婚相手を募り、インタビュアーに取材料やお菓子をせがんだと言う。
ネット上では、彼の言動に関する話題で度々大いに盛り上がった。

彼らは、それまでの人生で大事に抱えてきた鍋を丸ごと捨てたように思える。
手ぶらに見える。
もちろん『鍋を捨てた人』の中でも特異だからこそ、私のような一般人が認知したのだし、決して彼らを羨ましいとは思わない。
でも私は、どこか彼らに惹かれる。
思わず関連記事や書籍や番組を見てしまう。
世界的にも、有名な犯罪者には熱狂的なファンがつくと言う。
もちろん犯罪者だけでなく、偉人と呼ばれる人や名も無き人の中にも、『捨てた(orように見える)人』はいるだろう。
私たちは、彼らに惹かれた結果として、怒りや憎しみ、嫌悪といった負の感情をおぼえたり、一部のファンのように憧れや崇拝の気持ちを抱いたりするのではないだろうか。

ワイドショーで、彼らはこんな発言をした、こんな態度だったと逐一取り上げるのは、私たちが興味を持つからだ。彼らの鍋の中の見えなさに。
何がきっかけで中身を全て捨てたのか、あるいは鍋ごとどこかに置いてきたのか、それはどこなのか、もしくは元々何も入っていなかったのか。空っぽの鍋だけを持ってこれまで生きてきたのか。


私たちにもっと身近なのは『鍋の中身を減らした人』だ。
突然仕事を辞めて生き方を替えたり、家族も故郷も捨てて交際相手と蒸発したり、細かいところでは服の趣味が180度変わったような人たち。
鍋の中身をガバッと減らして、新しいものをどんどん入れたり、再び少しずつ足している人。

私はそれにすら憧れる。
中身をカバッと減らす勇気が私にはないからだ。
きっかけがないし、とてつもない不満がある訳でもないし、せっかくこんなに長い間煮詰めてきたんだし、と言い訳をしながら、よっこらよっこら鍋を抱えて生きている。
既に、このまま煮詰めたら、こんな感じの味が完成するんだろうなと予想できてしまうのに。

今、自分が抱える鍋とその中身に、重大な不満はないと思いながらも、中身を軽くした人が羨ましい。
変なものを入れて失敗したくないと言いながらも、全く新しい味を足した人が妬ましい。


私があと何年生きられるかは知らないが、突然ゲテモノを鍋に放り込むようなことが、私の身にも起こるかもしれない。
それに怯えながら、そして、どこかで期待しながら、時には憧れの彼女や嫌いな彼に鍋の中身を一口わけてもらいながら、鍋は今日もグツグツ煮たっており、私はひいひい言いながら、その鍋を持ち続けている。
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