やさしい神秘

文字数 2,248文字


 コーヒーを飲みすぎてしまった。
 休日を謳歌してしまおう、と調子に乗って三杯も飲み干してしまったのは、どう考えても間違いだった。
 少し頭が痛い。明日はもう月曜日だから、また同僚に顔色を笑われてしまうかもしれない。
 いつになったらこういう、衝動でやってしまう行動は治るのだろうか。ため息をついて考えながら換気のためにがららと窓を開けると、やけに眩しい月が俺の視界に飛び込んできた。
 煌々と夜に佇むやつは、俺のような無様な人間なんてどうでもいいかのように光を満たしている。まんまるだなあ、もしかしたら今日は満月なのかもしれない。
 子供の頃を思い出す。昔は天体がかっこよくて好きだったから、部屋に月の満ち欠けのポスターを貼っていた。俺も、月のように規則正しくきれいに輝いてみたいなあ。七畳の床に寝転ぶ。もう夏だから、夜になってもベッドが暑くてしかたない。
 がらら。隣の部屋でも窓を開ける音がした。そりゃそうだ。換気しないで部屋に篭るなんて、危険すぎる。隣人はそのままベランダに出て、夜景を眺めはじめた。
 隣人のことはよく知らない。すれ違ったら挨拶をしているだけの関係だ。いつも、帽子をかぶっていて、髪の毛が長くてボサボサで、でも洋服は普通にすっきりしている容貌の、なんてことない男だ。俺だって疲れているからそういう見た目に詮索する気は起きないが、そいつにはなんとなく変なオーラがあって、ぼんやりと気になる存在ではある。
 声かけてみようかな。気になるけれど、でも、そこまでしなくてもいいかなあ。夜の街灯にたかる虫みたいにぐるぐる考えてみてから、俺はすっくと立ち上がった。
「あのー」
 隣人はゆっくりとこちらを向いた。いつもの見た目に、帽子はかぶっていない。そして、……泣いていた。思わずじっとその目を見つめる。きらっと光が入りこんでいる大きな目で、よく見ると目のさめるような明るい紫色だ。俺はなんだかどきりとして動けなくなってしまった。
「ああ、すみません、なんだか」
「あ、いえ、……あのーその目って、」
 男は、ああ、と少しだけ笑って俺をじっと見た。なんというか、アーティストみたいな雰囲気があって、俺が今まで会ったことのないような感じがする。
「隔世遺伝だよ、曽祖父があれなんでね」
 あれ、と言われても……なんだか納得いかなくてもどかしいような気持ちにはなったものの、踏み込んではいけない領域があるだろうと自分に言い聞かせた。そうですか、と軽く返してみて、ようすを窺う。
「今日の月は綺麗ですね、雲もほとんどなくて、まるで太陽みたいだ」
 そういうと、隣人はまた静かに涙を流し始めた。
 俺は今まで会ったことのないようなタイプがこんなにも身近にいたということに心底驚いていた。生い立ちにも何かありそうだし、それを下手に隠そうとしない純朴なところもなんというか、浮世離れしている。俺は、タブーに踏み込むなと警告する自分の親切な理性を勢いで無視して問いかけた。
「あの、いつも、何してるんですか? 曽祖父って、ていうか、なんでここに住んで」
 やばい。口をつぐむのが遅かったかもしれない。隣人は完全に眉を顰めておたくの神経どうなってるんですか、とでも言いたげに首を傾げている。俺はもうダメなのかもしれない。
「……ああ、いいんですよ、あなたのように突っ込んでくるひと、嫌いじゃないので」
前にもそういうひといたんですよ、とおかしそうに笑う。よかった。この癖によって何度も人間関係を歪めた俺は、ふうーっ、と息をついて、それから隣人の寛容さにいたく感謝した。
「とりあえず、長話も夜とはいえ暑いので、よかったら、僕の話をこっちの部屋でしましょう」お口にあうかわかりませんが少し、お茶やお菓子もありますよ、と隣人は少し涙の残った目のまま笑顔をつくった。
 
「え、えっと……」 
 隣人のカミングアウトはあまりにも衝撃的なものだった。曽祖父は月から来た異星人で、人のような形をしていたことと、リープ、と名乗る隣人がその血を色濃く受け継いでいたこと。リープさんはゆっくりと話してくれたが、会社に行って、帰ってちょっと贅沢して買ったコンビニ弁当をかっ喰らって寝るのが日常だった俺にとっては、あまりにもぶっ飛んだ話だったので言葉を失ってしまった。
「ごめんなさい、信じなくても怒らないので、お菓子でも」
 ね、と差し出す手には極彩色のグミが三つ。口に入れるのも躊躇われたが、決心して口に入れると、案外優しくてほのかな甘い葡萄の味がする。俺の顔を見て満足げに口元をほころばせるリープさんは、やっぱり悪いひとではないような気がする。
「でも、信じますよ、なんか、俺が昔考えてた宇宙人と似てて、ちょっと、親近感湧くっていうか」俺って月好きだし、と付け加えると、彼は目をぎゅっとつぶってからあけて真剣なまなざしで俺と向き合った。さっきよりも赤紫っぽい色になっている瞳が夕焼けみたいできれいだ。
 「あの、石原さん、近所のスーパーで三日月パン買ってましたよね。……それ見てたから、僕、この人ならって思ったんです」
ぱっと、リープさんの顔を見るとまた泣き崩れそうで、それを必死に抑えるように眉を顰めて、でも、笑っていた。
「リープさん、俺、リープさんのこと、もっと教えて欲しいんです」ぽろ、とリープさんの涙がこぼれる。彼はふるふると顔を左右に振るようにしてから、頷いた。
「はい、たくさん、……きいてください」
 リープさんは、手のひらを血が出そうなほど強く握りしめていた。
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