エピソード1【初登校】

文字数 10,341文字

 サムライ魂(大和魂)とは、高潔で誇り高く極めて純粋で穢れることない魂である。
サムライ魂を持った人間は何者にも屈することなく立ち向かっていき、自己犠牲を厭わない。
明治政府が始まり、消えたといわれるサムライ。
百五十年以上が経ち、陰湿なイジメやネットによる誹謗中傷、パワハラ・モラハラがはびこる現代の日本にサムライ魂を持った人間はいるのだろうか。
政治家は保身に走り、多くの大人が自らの生活のためにしか生きていないこの時代。
時が経った日本に生まれ育った人間には、すでにサムライ魂は存在しないのだろうか。
否、日本で生まれたならば誰でも必ず心の奥底にはサムライ魂が眠っているはずである。

 桜が散り、青葉が色づき始める五月中旬。都心から少し離れた東京都府中市の都営団地の一室から、男女二人の学生が母親に見送られて出てきた。
女学生の方は少々大人っぽく紺のブレザーにグレーを基調としたチェックのスカート、黒髪ロングで髪を後ろでポニーテール風に束ねている。
男子学生は黒髪の丸刈りで、服装は女学生と同じブレザーにグレーのズボン姿。二人はこの日から都心にある名門の中高一貫校「白尾学園」に編入する、姉の大和冴羅と弟の大和雷武だ。
自宅がある府中市の都営団地から歩いて九分のところに京子線円川駅があり、そこから電車で片道五十分かけて学園の最寄り駅である白尾駅に向かう。
団地を出て片道一車線の通りに出たところで、弟の雷武が姉の冴羅に話しかけた。
「今度の学校は、どんな学校なんやろうな?」
「・・・」
 冴羅は答えないが構わず雷武は続ける。
「ねぇ、姉ちゃん。今度の学校どんな学校なんやろな?」
「・・・」
 二人が通る道は車が走る車道の両端に一段高くなった細い歩道がある通りで、ガードレールもあるため二人並んで歩けない。
 後ろを歩いている雷武は声が届いてないのかと思った。
「ねぇ!姉ちゃん!今度の学校どんな学校なんやろなぁ?」
 冴羅は立ち止まり、くるりと雷武の方に振り向いて口元は優しく微笑んでいるが目には殺気を含んだ何ともいえない表情だ。
「聞こえてるから大丈夫だよ~。っていうか関西出身じゃないよね?ちゃんと標準語を話そうねぇ~」
 冴羅はサッと前を向いてスタスタと歩き始める。雷武は若干不満げにブツブツ言った。
「姉ちゃん不機嫌だな・・・生理か?あっ生理かぁ・・・女の人は大変だな・・・」
 冴羅が再び立ち止まり、さっきより若干口元を引きつかせている。
「生理ではありません。っていうか生理とかそういう言葉を公共の場で使うのはやめましょう。特に学校で女子の前では控えるようにね」
 そう言って、雷武のほっぺたを強くつねった。
「はひ。ごめんなひゃい・・・」
 雷武はつねられたほっぺを手でさすりながら、不満そうに冴羅の後を付いていく。
駅までの道のりは基本真っ直ぐなのだが、途中に小さな商店街を通る。
 二人が商店街に差し掛かる頃、冴羅が歩く速度を落として雷武と横並びになった。
「雷武さ、百円玉ある?あったら貸して欲しいんだけど」
 雷武はすぐに財布の中を確認した。
「無いや・・・千円札ならあるけど・・・」
「あっ、じゃあ大丈夫。私もお札ならあるから」
 雷武は冴羅の目が若干血走っているのを見逃さなかった。
「そういえば、姉ちゃん今日朝コーヒー飲んだ?」
「それがさ、コーヒー豆切らしちゃってさ、飲んでないんだよね」
 雷武はすべてを悟り、今日のこの学園までの道のりは、あまり刺激しないようにしようと固く誓った。
二人は商店街を抜けて京東線の円川駅から電車に乗った。ここから約五十分かけて地下鉄市日谷線の白尾駅に向かう。途中都心にある乗降客数が世界一となったことのある古宿駅で乗り換えて向かうのだが、古宿駅からは人が多く電車内はひどく混雑する。円川駅から古宿駅までは比較的電車内は空いていて、冴羅と雷武は座ることができた。
 古宿駅までの車内、冴羅が隣に座る雷武に話しかけた。
「今日から通う学校は名門の進学校なんだって。だから色々粗相がないように気をつけようね」
「そ、そうなんだ・・・了解」
「どうしたの?何か急に素直になってない?」
「え?いや、そんなことないよ。いつも通りです。はい」
「そう?」
 電車が古宿駅のホームに滑り込み、駅のホームは通勤・通学ラッシュで人でごった返していた。大和姉弟は人の多さに驚き、戸惑いながら地下鉄小江戸線のホームへと急いだ。小江戸線で四駅目の市日谷線が通る三本木駅まで行き、そこから市日谷線で一つ目の白尾駅へと向かう。
 歩いている途中、心配になった雷武が冴羅に話しかけた。
「姉ちゃん!どこかでコーヒー買って飲めば?」
「そうだねぇ・・・でもこの人だかりじゃ、ちょっと無理だね」
 スタスタと歩く冴羅の後ろを不安そうな雷武がついていき、二人は迷路のようになっている人の隙間をぶつからないよう上手くすり抜けながら歩いていった。
小江戸線に着くと、人込みのなかにちらほらと大和姉弟と同じ制服を着た学生たちがいた。二人は意気揚々と電車に乗り込んだが、電車内は混雑で押しくらまんじゅう状態。二人で一緒に電車に乗り込んだ大和姉弟だったが、押されるなどして電車が出発するころには引き離されてしまった。
身長が低い雷武は通勤目的のサラリーマンに囲まれ、上からだと完全に埋もれていた。汗と整髪剤と加齢臭のなかで雷武は窒息死寸前かと思いきや、意外と涼しい顔をしている。
何年か前に発展途上国のスラム街に行った経験があり、その時の殺人的な臭いに比べるとこの程度の匂いにはビクともしない鼻になっているのだ。
一方で冴羅はというと同じく多くのサラリーマンに囲まれていた。目の前に一人だけ同じ制服を着た同い年くらいの女学生がいる。
 電車が動き出して少し経ったころ、冴羅はその女学生に話しかけた。
「もしかして、白尾学園に通っている方ですか」
「・・・」
 目の前の人から声を掛けられたにもかかわらず、その子は答えない。冴羅は疑問に思い、もう一度声を掛けた。
「その制服、白尾学園の人ですよね?」
 女学生は眉間にしわを寄せて冴羅ではなく、どこか空間を見ているようで話を聞いていない様子。冴羅は何かおかしいと思い彼女の顔から視線を下げると、男の手が彼女の下半身を弄っているのが見えた。
目の前の同じ制服を着た彼女は、痴漢に遭っていたのだ。
冴羅は「あっ」という声を発した。
小さい声だったがちょっと離れたところに埋もれていた雷武は、その声に反応。
冴羅の声質と今朝コーヒーを飲んでいないことに嫌な予感がした雷武は押しくらまんじゅうのなか何とか冴羅の近くに行こうと、もがき始めた。
痴漢の現場を目撃した冴羅は、とりあえず手から肘、肩、顔へと目で追い痴漢をしている男の顔を確認。すると髪をオールバックにし高級そうなネクタイとスーツを着た、いかにもエリートといった感じの三十代の男で、すました顔をしていた。
そのすまし顔を見た冴羅は怒りによって、すぐさま鬼の形相に。目の前にいる同じ学校と思われる女学生が、一見常識があり真面目そうな顔をしたサラリーマンによって弄ばれている。恐怖のあまり女学生の顔は青ざめ若干震えもしている。
再び痴漢をしている男に目線とやると、男は一瞬ニヤリとした。
その瞬間、冴羅の怒りのリミッターが外れた。
一方冴羅の近くに行こうと、もがいていた雷武は人の隙間から冴羅の顔を確認しヤバいと思い「姉ちゃんあかんで」と言おうとしたが、押しくらまんじゅうのなかにいたため、声が出せなかった。
リミッターが外れた冴羅はブレザーの内ポケットに忍ばせてあったコンパスを抜いて強く握り、女学生の下半身を弄っている男の手の甲を思い切り刺した。
男の顔が歪み、電車内に「ぎゃっ!」という声が響いた。痴漢に遭っていた女学生は何が起こったのか分からないといった表情だ。
電車は三本木駅のひとつ前の駅に到着し、男はそそくさと降りようとしたので冴羅は男の肩を掴もうとしが上手く掴めずに逃してしまった。
 電車は走りだし、やっとの思いで冴羅の元に到着した雷武が言った。
「姉ちゃん。何があったん?」
 冴羅はそれには答えずに、目の前にいる女学生に話しかけた。
「大丈夫ですか?」
 何が起きたかわからずに呆然としていた女学生は、冴羅の声で我に返り言った。
「あっ、ごめんなさい。大丈夫です」
「ねぇ、姉ちゃん何があったんって」
 雷武が再び割って入ったため、混雑するなか冴羅は若干切れ気味に言った。
「なんでもないよ。っていうかだから標準語にしなさい!」
「なんでもないことないじゃん。姉ちゃんがキレる五秒前の『あっ』が聞こえたもん」
「もう一度言います。なんでもありません。以上です」
 雷武は冴羅の迫力に押し切られた。
「はい。ごめんなさい」
 電車は三本木駅のホームにすべり込み多くのサラリーマンやらOLが降りるなか、大和姉弟と女学生の三人も電車から降りて市日谷線に乗り換えた。
 車中冴羅は痴漢に遭っていた女学生に話しかけてみた。
「私、今日から白尾学園に通うんですよ」
 女学生はショックがまだ消えていないらしく返事をしない。雷武が構わず割り込んできた。
「あっ、僕もなんです。よろしくお願いします」
「ちょっと雷武。黙ってなさい」
 冴羅が目の奥を殺気立たせて言うと、雷武は従わざるを得ないといった感じで「わかりました」とひとことだけ言って、黙り白尾駅に着くまで三人は無言で過ごした。
電車が白尾駅に着き三人は改札を出て階段を上り、大通りへと出た。
白尾学園は大通りを左に二十メートルぐらい行ったところの交差点を右に渡り、そのまま五分ほど歩いた通り沿いにある。
三人が大通りに出ると、多くの白尾学園の生徒が歩いていた。
友達とワイワイ騒ぎながら登校する者や一人教科書を手にして何か考えながら登校する者などさまざまだ。
 そんななか冴羅が雷武に離れて歩くように指示し、再び女学生に話しかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
 女学性は半分ボーっとした感じだったが、今度は冴羅の声に気づいた。
「え?あっ、大丈夫です」
 冴羅はコンパスを出し、差し出して言った。
「多分もう大丈夫だと思うけど、もし次もやられたらこれで・・・」
「え?」
 差し出された血の付いたコンパスに女学生は驚いた。
「もしかして、これで?」
「ああいう輩は、このくらいやらないとわからないから。はい」
 女学生は若干戸惑いながらコンパスを受け取った。
「あ、ありがとうございます」
 女学生は軽く会釈をして前を歩く同級生と思われる人達に紛れていった。
大和姉弟は初登校のため教室には向かわず、校長室に向かった。その途中にも雷武はしつこく電車内で何があったのか聞いたが、冴羅は一切答えなかった。
 校長室に入り校長とそれぞれの担任に挨拶をしてそれぞれ教室へと向かった。
二人が編入した白尾学園は中高一貫校。雷武は中学三年生で冴羅は高校二年生のため、校舎は別々になる。二人はそれぞれ担任の後について教室へと入っていった。
 冴羅が編入するのは二年四組。
教室に入ると皆が一斉に冴羅に注目した。担任に紹介され冴羅は簡単に自己紹介をしたが、既にほとんどの人が聞いていない様子。進学校のためか注目したのは初めだけで自己紹介に入るころには多くの生徒が目の前の教科書に集中していた。
冴羅は指定された窓際の一番後ろの席に向かい、席に着こうとふと隣の席を見ると、見覚えのある女生徒がいた。朝出会い、痴漢に遭った女学生の新垣紗菜だ。
紗菜は軽く会釈をし、冴羅も朝のことは何も触れずに「よろしくね」とだけ言って席に着いた。
授業が始まり昼休み午後の授業と進むなかで冴羅はそれなりにクラスメイトと話して仲良くなったが、紗菜の浮かない表情と何かスマホにビクビクしている感じが気になっていた。
 すべての授業が終わり、帰りのホームルーム中に冴羅は紗菜に聞いてみた。
「どうしたの?なんか元気ないようだけど・・・」
 紗菜は下を向き、スマホを見ながら答える。「何でもない。大丈夫です・・・」
 ホームルームが終わり、紗菜はさっさと教室を出ていってしまった。
冴羅は追いかけようとしたが担任に呼ばれたり他のクラスメイトに呼び止められたりして足止めを食らった。
その後やっと一人になり、そのまま帰ってもよかったのだが、紗菜のことが気になって紗菜を探そうと急ぎ足で校舎を出た。すると校庭の隅にあるベンチに一人で座る紗菜を見つけた。紗菜は体を丸くして、スマホを眺めたまま固まっている。
冴羅は紗菜の隣にちょこんと座ったが、紗菜は気づかない様子。ふと紗菜をスマホの中を覗き込んだ冴羅は「あっ」という声を上げた。その声に反応した紗菜は、すぐにスマホを膝の上に伏せた。冴羅が目にしたのは何のサイトかはわからなかったが「自殺」という文字だった。
紗菜は黙って立ち上がり、その場から去ろうとした。
 冴羅は紗菜の腕を取った。
「私たちは今日知り合ったばかりで信用も何も無いかもしれないけど、同じクラスで、しかも席も隣同士。これも何かの縁だと思うの。何か悩んだり困っていることがあったら遠慮なく言って。お金はないけど、できる限りのことはするから・・・」
 紗菜は突然の言葉に驚き目を丸くしたが、しばらくすると顔を歪ませポロポロと涙をこぼし始めて再びベンチに座った。
「実は、私脅されてて・・・」
 沙羅は朝のことを思い出した。
「え?あ、もしかして朝の痴漢男?」
 紗菜は一つうなずく。
「あの人、実は知ってる人で・・・」
「え?誰?もしかして、ここの学校関係者?」
 冴羅が殺気立って聞き返したが、紗菜は涙ながらに慌てた様子で言った。
「あっ、違くて、SNSで知り合って・・・」
 詳しく聞くと、その男とはSNSで話が合って実際に会うようになり、始めはカッコいいと思って何度かデートしたが、ある日恥ずかしい写真を撮られてしまい、それをネタに脅されるようになったという。お金をせびられるのではなく、淫らなことをさせられているらしい。
今日の痴漢行為もその一種で、その男には家だけではなく、さまざまな場所に呼びだされて弄ばれているという。今日この後夜にも複合施設内の公衆トイレに呼び出されているとのことだった。
脅迫され自らの体を弄ばれている生活に疲れて果ててしまい、今日も呼び出された場所に行くか自ら命を絶ってしまうか迷っていると、紗菜は泣きながら話した。
 冴羅はみるみる殺気立った表情になりながらも、さらに詳しく脅されているネタについて聞いた。
するとSNSのダイレクトメッセージに一枚だけ写真が送られてきたため、おそらくスマホに保存されているかもしれないとのこと。冴羅はどうしたものかと考えたが、なかなか案が浮かばず黙って考え込んでしまった。
そこに雷武が何人かのクラスメイトと一緒に目の前を通り、雷武は冴羅に気付いたが表情を見て歩きながらひとこと「姉ちゃんコーヒー飲んどきぃー」とだけ言って去っていった。
冴羅は未だに関西弁をしゃべる雷武に少々苛立ちながらも、朝から大好物のコーヒーを飲んでいないことに気づいた。
売店で缶コーヒーを買いに行ったが、あいにく売り切れており仕方なく紅茶を二本買った。ベンチで人形のように固まっている紗菜にも差し出して飲み、なかなかコーヒーにありつけないイラつきからか、普段思いもつかない考えが冴羅の頭に浮かんだ。
 冴羅はその考えをもとに、気になったことを紗菜に聞いた。
「あのさ、その男ってさパソコンって持っているかわかる?」
「え・・・家にはなかったと思うけど・・・」
 冴羅は「了解」とひとことだけ言って、スマホを取り出しどこかにメールを送った。しばらくしてメールの返信が来て確認し、紗菜に言った。
「よかった。写真はまだネット上にバラまかれてないみたいだから、今日カタを付けちゃおう」
「え?」
「大丈夫。私に任せて。目には目を歯には歯をだよ」
 冴羅はウインクをして立ち上がり、紗菜の手を引いて歩いていった。
待ち合わせは白尾駅から一つ目の三本木駅近くにある超高層ビルを含む都市型複合施設内の男女共有の多目的トイレ。二人は早めに待ち合わせ場所近くに着いたので、施設内の喫茶店で細かな打ち合わせをすることにした。
冴羅は施設内でタオルを二本買って喫茶店に入った。冴羅はやっとコーヒーが飲めると思い、注文しようとしたが今コーヒーを飲むと作戦が失敗すると直感的に感じたので、ここでも紅茶を頼んだ。
 冴羅が考えた作戦はこうだ。
待ち合わせの多目的トイレに冴羅が先に入って待ち伏せし、二人が入ってきたところ男を襲って縛り上げ、スマホを取り上げて中の写真とSNSのアカウントを削除し、男の恥ずかしい写真を撮って終わりというシンプルなもの。
 話を聞いていた紗菜は話の途中から疑問が膨れ、冴羅が話し終わると同時に聞いた。
「っていうか、襲って縛り上げたりとか、そんなことホントにできるの?」
 冴羅はわりとあっさりとした感じで答えた。
「大丈夫だと思う。私のお爺ちゃんは古武道から現代風の戦闘術を生み出した人で、いろいろ教えてもらってるし、今日コーヒー飲んでないから・・・」
「え?コーヒー?」
「あいや、何でもない。気にしないで。とにかく大丈夫だから安心して」
 紗菜はホントに大丈夫なのかと半信半疑といった気持ちもあったが、それよりも心強さを感じ心から「ありがとう」と言った。
冴羅と紗菜が知り合いだと後々問題になるかもしれないから、トイレに入って男が襲われたら紗菜にはすぐに逃げるように指示し、落ち合う場所を施設の近くにある小さな公園に決め、その後はお互い緊張のためか、あまり言葉を交わすことなく時間が過ぎた。
そして、午後六時を回ったところで紗菜のスマホに男からメールが入った。
今駅を出たところということで、二人はすぐに会計を済ませて、待ち合わせの多目的トイレへと向かった。
トイレの場所は複合施設内の地下駐車場にある。
二人はエレベータで地下まで降りてトイレに向うのだが、地下二階から四階までが駐車場となっており各階にトイレがある。
待ち合わせの場所は地下三階にある多目的トイレの前。紗菜も初めての場所だったらしく二人で迷ってしまって焦ったが、何とか男が来る前に到着することができた。
早速冴羅はトイレの中に入り、引き戸の脇に待機し戸を閉めた。カギはかけずに待つ。
冴羅は鞄の中から何かあった時のために常に持ち歩いているフラッシュライトとカッター、結束バンド出してライトが点灯するかを確認。
カッターと結束バンドをブレザーのポケットに忍ばせ、ライトを右手で握った。
しばらくすると、足音が聞こえ紗菜と男が合流したらしく何かをしゃべったあとすぐにトイレ内に入ってきた。
引き戸が開き、二人が入ってきたときには男が紗菜に無理やりキスをしようとしていた。
緊張して待機していた冴羅は、その光景を見た瞬間に緊張がほぐれた。
冴羅は「あっ!」という声を出し、男が驚いて冴羅を見た瞬間にフラッシュライトを目に当てた。
これは海外の軍でもおこなう技で、いきなり目にフラッシュライトを当てられると一瞬目の前が真っ暗になる。続いて冴羅はひるんだ男の目を手の甲で強く払った。これをすることによって、目つぶしと同じ効果がある。男は「ぐわっ」と叫んで目を手で覆い、後ずさりした。ここで紗菜は軽い悲鳴をあげながらトイレから出ていった。
冴羅は、今度は両手をお椀のようにして、男の両耳を強く叩いた。こうすると三半規管がきかなくなり、大抵の人間はひざまずいてしまう。
ここを強く叩くと目と耳と鼻から出血して危険だと教えられていた冴羅は、手をお椀のようにして加減したのだ。
案の定、男はダメージが強くひざまずき、冴羅はすかさずポケットに忍ばせていた結束バンドを出して男の両腕を後ろに回して両手首を結束バンドで思い切り絞めあげた。
その後、両足首も結束バンドで絞め、騒がれないようにタオルで口元を縛り、見えないように目もタオルで縛って終了。
冴羅は祖父から習って、弟子たちとは練習していたが実戦は初めてだったので実際に上手くいったことに喜びを感じた。
ウーウーとうめきながら横たわる男。
 冴羅は早速、男の背広からスマホを抜き取り、男も耳元で言った。
「スマホのパスコードを教えてください」
 男はウーウーというだけだった。冴羅は気が付いて、口元のタオルを少しずらした。すると男はいきり立っていった。
「ふざけんなお前!女か?こんなことしてただで済むと思ってんのか?この野郎!」
 冴羅は男の言葉遣いにタガが外れ、再びタオルを口に当てて思いっきり縛り、ボールペンを、目を縛ってあるタオルに強く押し当てて言った。
「大声を出さないように。今度出したら命もらうよ。今何をしているかわかる?ボールペンを目に押し当てています。このまま思い切り突き刺せばボールペンが脳に達して死にますよ。もう一度だけ言います。スマホのパスコードは?」
 男は「死ぬ」と聞いて失禁した。
冴羅がタオルをずらすと「678527です」とだけ小さく答えた。
冴羅は口元にタオルを戻して縛り上げ、失禁した男の姿を自分のスマホで撮影。そして男耳元で「警察とか行ったら許さないから」と言って、もう一度男の両耳を叩いてから両手足の結束バンドをカッターで切り、自分の鞄を持ってトイレから出た。
 冴羅は紗菜との待ち合わせに向かう途中、男のスマホを開きすべてのSNSを開いてDMをすべて削除した後にパスワードを必要としないものだけアカウントの削除の手続きをした。
 施設を出て敷地内の小道を行くと小さくてオシャレな公園がある。ここが落ち合う場所。冴羅が公園に着くと、紗菜が不安そうにスマホを握りしめてベンチに座っていた。
 冴羅が近づき、冴羅に気づいた紗菜は一目散に駆けよってきて一息飲んで聞いた。
「ど、どうだった?」
 冴羅は男のスマホを出して、ニコリと笑って言った。
「バッチリ!SNSのDMは全部消してパスワードがいらないのはアカウント削除しておいたからさ。あとはスマホのフォルダに残っている写真だけ。私は見てないから自分で確認して削除しな」
 紗菜がスマホを受け取り、フォルダを確認すると驚きの声をあげて言った。
「私のほかにもこんなにいる・・・」
「え?ほんとに?」
「ほら・・・」
 紗菜がスマホを見せた。
「ほんとだ・・・最低だね・・・とりあえずさ、自分の写真だけ削除しなよ」
「うん」
 紗菜は自分の写真を削除したあと、このスマホをどうするのか冴羅に聞き、冴羅は考えがあるらしく即答した。
「この件に関して紗菜はなにも関与してないことにしたいから、そのスマホは私が預かるよ」
「え?でも、これどうするの?」
 冴羅は得意そうに答える。
「うん。ちょっとした考えがあるんだよね。ほら、紗菜のほかにも被害に遭っている人がいるからさ。お仕置きしないとね」
「そうなんだ・・・」
 紗菜はスマホを冴羅に渡し、二人は帰宅するために駅へと向かった。
 途中、紗菜は思い出したかのように冴羅に言った。
「あの、大和さん、今日はほんとにありがとう・・・」
「え?いやいや、当たり前のことしただけだよ。あと、私も紗菜って呼んじゃったから次からは  冴羅って呼んで。出会ったばかりだけど、私はもう大事な友達だと思っているから」
 紗菜は恥ずかしそうに言った。
「うん。ありがと」
 二人は三本木駅から小江戸線に乗って古宿駅まで向かい車内で連絡先を交換した。そして、電車が古宿駅に着いて二人は別れ、それぞれ家路についた。
 冴羅は京東線の乗り場に向かう途中で自分のスマホを出して家に電話をし、母に帰宅時間を伝えたあと、兄である武に代わってもらい、ある頼みごとをした。
電話を切ったあと、安心したのか急激にコーヒーを欲し、今日一本目となる缶コーヒーを買って駅のホームのベンチに座って飲んだ。コーヒーの香りとほのかな苦みが冴羅の心の体を癒していく。
一息ついた冴羅はちょうどホームに滑り込んできた電車に乗った。口と鼻にはコーヒーの香りと味かかすかに残っている。そのとき自分のコーヒー豆が切れていることを思い出し、三本木の喫茶店で買っておけばよかったと後悔した。
 自宅の最寄り駅である円川駅に着いたのは午後八時過ぎ。冴羅はコーヒー豆を買い忘れた自分に肩を落としながら帰宅した。
家に着くと真っ先に雷武が出向かえた。何やら手を後ろに回してニヤニヤしている。冴羅は不機嫌そうに「何ですか?」とだけ言って、自分の部屋に入ろうとした。
 雷武はそれを遮り聞いてきた。
「姉ちゃん、コーヒー豆買った?」
 冴羅は痛いところを突かれて、さらに不機嫌な感じで「買ってないけど何か?」とだけ言って雷武をどかそうとした。
 すると雷武は後ろに持っていたコーヒー豆を出していった。
「これ。買っておいたよ」
 この瞬間、冴羅は喜びを爆発させて雷武に抱きついた。
「何もう!ホントに良い子だね雷武は!ありがとう!」
 冴羅は雷武にコーヒー代とプラス五百円のお小遣いを上げて、ご機嫌そうに部屋に入っていった。
着替え終えた冴羅は、リビングに行く前に武の部屋に寄り痴漢男のスマホを渡しながら言った。
「これなんだけど。お願いできる?」
「全然大丈夫だよ。了解」
 その後、冴羅は母親が作っておいてくれたカレーライスを食べて、食後に大好きなコーヒーを嗜み一息ついた。
 編入して初登校の日にしては、だいぶハードな一日となった。しかし、冴羅は一家のモットーのひとつ「人のために生き続けることが、人間にとっての究極の幸せである」という言葉通りの行動が出来たことに満足していた。

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