蜘蛛。

文字数 945文字

山手線にのって、日暮里から巣鴨まで向かう通勤電車の途中、隣に女の子が座った。ごく普通の今時の女子大生っぽい彼女は、特筆すべく違和感もなく、座席で文庫本を読んでいた。
シックな黒のセーターと、ベージュ色のタイトスカート。薄化粧だけど、それだけで充分なくらい綺麗な横顔をしていて、思わず大理石の石像みたいだとか思った。
もっとも、そんな女の子はどこにだっているし、現時点の彼女は、明日にならずとも、下車したらそれで忘れてしまえる程度の存在でしかなかったのだ。
僕は彼女とは反対に座っているおばさんの悪趣味な香水の匂いにたえずいらいらしながらも、愛用のアタッシュから文庫を出して、読み始めていた。
その時だ。
彼女の膝上に小さな蜘蛛がいることに気づいた。
蜘蛛は埃と見間違えてもおかしくないほど小さかった。黄色くて足がたくさんあってゴキブリみたいに俊敏なやつ。僕の実家のトイレに巣をつくっていたこともあったやつだ。
そこで何故だか、僕はその時、妙な恐怖を覚えたのだ。
それは自分に振りかかるであろう恐怖とか単純なものではなくて、何かこう形にならない子供の頃に忘れてきたような恐怖だった。
 
蜘蛛は彼女の膝を越して、胸の上を小気味よく走って、左肩の周囲に到達すると、水を打ったように動かなくなった。
周囲の乗客たちは蜘蛛の存在に気づかない。気づいているのはどうやら僕だけみたいだった。蜘蛛の住処になっている彼女だってそんなことには気づいていないのに。
「あのう、すいません」
誰かが話しかけて来たと思ったら、若い会社員だった。
「席をもう少し開けていただけますか」
気づけば、僕は彼女の蜘蛛を避けるばかりに中途半端に席の隙間を開けていたらしいのだ。あと一人ぐらいは入る余裕がある。僕は赤面して、香水の匂いのする方向に身体をずらした。会社員は軽く一礼して、席に座り込んだ。

彼女はどうなったのだろう。僕の位置からでは彼女の持つ漫画しか確認できなかったので、あの蜘蛛がどうなったかなんか、もうわからなくなっていた。
電車ががたんと落ち付きなく揺れた。あ。蜘蛛はどうなったのかな。
会社員さんは蜘蛛の存在に気づいただろうか。
彼女は蜘蛛を見つけた時、どんな顔をするのだろうか。
活字を追っている暇もない。
注射の出番を待ってるみたいな昼下がり。
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