2020年7月3日

文字数 954文字

 ここ数年、北関東民のわたしの手帳には毎週のように東京ゆきの予定が記されていた。
その予定のほとんどを「アソビ」が占めており、周囲にはおよそ実りのないものとして認識されていた。
実りがあろうがなかろうが、往復4時間の道のりは期待と充足で満ちていた。
それが2019年の末、対岸の火事のように思っていた出来事がすぐそばまで迫っているのを知る。
春一番の吹く銀座の街を歩きながら、頭の中で手帳をめくる。
向かい風の中でうまくページを繰ることができずに、日常ごとどこかへ吹き飛ばされてしまう気がした。

 それからほどなくして自宅と職場の片道5分・2キロがわたしの世界になった。
リップに替わってアルコールがポーチに入り、ピアスのかわりにマスクが顔周りを飾った。
妹は推しとのハイタッチ会という千載一遇のチャンスをものにしていたが、それも中止となりSK-Ⅱの使用をやめた。

やるかやらないか、いくかいかないか。
いまなのか、いまじゃないのか。
自分で決めたいのに決められないもどかしさ。
いやしかし、ずるいわたしは、「やらなかった」を「やれなかった」に変換したこともあった。
トレーダーのごとく昼夜情報を追う日々。
そうこうするうちに季節が変わって自粛解除という一報が入る。
「いまや!」
暇を与えていた手帳を呼び戻す。
これはもはや博打だ。

久しぶりの東京は、人出の少なさをのぞいては以前と変わらぬように見えた。
もたつく足を、リハビリのごとく都会の速度に合わせていく。

水を得た魚は、もとい浮足立った女は夏の香りを手に取り贈り物に決めた。
箱にかかったサテンのリボンが歩調に合わせてさらりとゆれる。
落ち合った友と横並びに座り、今じゃなくてもいい話ばかりする。
小籠包の立ち昇る湯気が光の粒になってゆく。
表へ出ると、降り出した雨でくるりと巻いていたはずの髪はばらけた。
でも、いい。
傘から滴る雨粒が、じっとりした空気が、わたしのからだを、細胞を、膨張させていくようだった。
このまま夜に溶けてもいいと思った。

 しかしきっちりと朝を迎えたわたしは、あの日を宝物のようにして片道5分・2キロの範囲で今日も生きている。
会いたい人がいて、大切にしたい人がいる。
世界が変わっていくのなら、わたしも変わっていかなければ。
また心から安心して笑いあえるその日まで。
いまはここで。
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