第1話

文字数 1,367文字

 とうとう買い置きの使い捨てマスクを全部使ってしまった。
 近所のドラッグストアも薬局も、入荷が未定ときている。仕方ないから、国から提供される布マスクを待つしか術はなかった。
 午後三時、郵便配達が来たのを見計らってポストをのぞくと、なぜか白髪の老人がボックスの中に鎮座していた。老人は掌に乗ってしまうぐらいに小さく、お土産物屋の七福神の置物のような奇妙な存在感があった。ポストの扉越しに私の顔を見つけると、私の登場を待ちわびていたかのように、苦笑いを浮かべている。
「ようやく来よったか。待ち疲れたわい」
 老人は長い杖を頼りにして立ち上がると、着物の埃をはらった。
「あなたは、誰です?」
「私は時をかける老人だ。民には仙人と呼ばれることもあるが。今日ここに来たのは、疫病の蔓延で世界中が混乱を起こしていると聞いたから、千年の時空を超えてやってきた。それほどに世界は、疫病の恐怖におののいているのか?」
「良くわからないけど、感染力が強いウィルスだから、とにかく他人との接触を控えて家に籠りなさいと言われているし、不要不急の外出は控えなさいとも言われている。世界中であらゆる産業が停止しているから、経済は停止状態。医療は崩壊寸前。明日の生活さえ見えないまま、日々を過ごしているよ」
「それは難儀なことだ」
 老人は深く思案するように頷き、その長く伸びた白い髭をなでた。
「そういうこともあって、そなたの日の出る国では、民の健康を第一に考え、布マスク二枚を配ることを考えたのじゃな」
「どういう経緯かはわかりませんけど」
「そなたが今、ポストの中を覗いたのは、その布マスクが届いたか確かめに来たんじゃないのか?それで分かったぞ。五臓六腑に染みわたるほど、分かった。私も、その布マスクについて十分に承知しておる。もしかして、そなたの探しているのは、金の糸で織られたマスクか?それとも銀の糸で織られたマスクか?」
 仙人と自称する老人だけに、すでに私の心の内は見透かされていて、どんな答えを言うかも百も承知。悟りのない凡人が口にする答えを、早く耳にしたいと言わんばかりの見下した眼つきになっていた。
「私が今欲しいのは、金でも銀でもありません。洗うと縮むし、最初からゴミや汚れが付着していると評判の悪いマスクですよ」
 私がそう言うと、老人は大きく目を見開き、高らかに笑った。
「これは一本取られたわい。未来の人々は徳というものを忘れ、お金こそがすべてという亡者に変わり果てしまった聞いているから、これは驚きであるぞ。正直者のそなたには、この金のマスクと銀のマスクをあげるとしよう」
 それは後光が射したように黄金色に輝く、今までに見たことのないマスクだった。ただ実用性は皆無に等しいのは、一見しただけでわかった。
「今、私に必要なのは、そんな立派なマスクではありません。不良品が多いと言われている国が配ってくれるマスクです。そんなものでも私には必要なんです」
「どこまで正直者なのだ。ますます現代人を見直した。それならば、その返品になった不良品を、そなたの家にすべて届けよう」
「それ、迷惑です!」
 やれやれ。普通の良品のマスクさえ手に入らない時代なのか。
 私はポストの扉を閉めて、鍵をかけた。内から時をかける老人の私に対する罵詈雑言が、いつまでも、いつまでも聞こえていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み