第9話

文字数 1,789文字

 自分の居場所を探して、永劫ともいえる長い時間を彼女はさすらい続けた。
ガラス越しに手を合わせたとき、それが浩介に伝わってきた。それでようやくわかった。リンの、深い淵のような暗い瞳のわけが。不思議で儚げな雰囲気のわけが。それも当然だったのだ。リンにあるのはただ、絶望的な孤独だけだったのだから。
 浩介だけがそれを知ってしまった。知ってしまった今はもう、浩介の心は、以前よりずっとずっとリンのことを想っていた。
 だけど同時に恐れた。
 だってリンの、深い孤独と絶望を知ったからといって、それが何だっていうんだ? 俺に何ができる? 俺は偶然リンを見てしまって、その正体を知ってしまった、それだけだ。さ迷える時の旅人。彼女に心から同情する。この同情が、自分を苦しいほど締めつけて離さない、この得体の知れない感情の正体だ。リンの、淋しそうで儚げで、それでいていつも優しく微笑んでいる、そんな顔が離れてくれない理由なんだ。 
 浩介は、何度も自分にそう言い聞かせた。泣いていた。
 翌日。二人は再び、電車の窓越しに向き合っていた。どちらからともなく手を上げる。指先が同時にガラスに触れる。ガラスは氷のように冷たい。けれど昨日のように、渦が巻き起こり激しい衝撃が襲ってくることはなかった。二人の手は、次元の扉を開けたのだ。ガラスの硬質ではない、優しくてやわらかいリンの手のぬくもりを浩介は感じた。
 最初の言葉を口にした。リン、と。
 少女もまた、その名前を口にした。
〝浩介〟
 声は、開いた扉から直接心に響いてくる。浩介は何か次の言葉を言おうとして、唇を開いた。けれど浩介の持っている言葉たちが、急に臆病になってしまったかのように、何も出てこなかった。
 リンが微笑んだ。なんて優しい微笑みなんだろう、と浩介は思った。なぜならその笑みの下に、百万人分の孤独を集めたってまだ足りないような淋しさと、それを隠すことのできる強さを秘めているからだ。
〝リン……きみの過去を見たよ。昨日、手を合わせたときに……その前にも、ちょっとだけ夢で見たけど……それで、きみのこと、わかったよ〟
〝うん。私も、見た。浩介の過去。昨日ね、私のほうにも、あなたの記憶、入ってきたの。でもその前から、あなたと出会ってから、あなたのこと夢に見たりしてた。だから、名前を知ってるの〟
 そうだ。浩介に彼女の記憶が入ってきたのなら、リンにも浩介の記憶が入っていったはずだった。自分のいる場所も忘れて、浩介は思わず身を乗り出した。額が窓ガラスに当たってごつんと鳴った。手を触れ合わせることはできても、頭はだめらしい。リンがくすりと笑った。
〝素敵だった〟
〝……すてき? 何が?〟
〝あなたの、記憶〟
〝俺の記憶? 何で?〟
〝だって、たくさんの人がいるんだもの〟
 リンは、何でもないことのように言った。浩介はその言葉の意味を瞬時に理解した。だから凍りつき、何も言えなくなってしまった。笑う彼女の本当の心が、痛いほどわかったからだ。
 浩介の視線に気づき、リンは慌てて言った。
〝あ、でも、仕事とか、いろいろつらいこともあるんだよね。ごめんね、素敵なんて言って〟
〝……いや〟
いや。つらいのは、きみのほうじゃないか。
 後に続く言葉をのみこんだ。それから、腹の底から声を搾り出した。
〝俺は、……あなたを、かわいそうだと思う〟
 リンの顔が凍りついた。浩介ははっとした。もしかしたら、言ってはいけないことを言ってしまったんじゃないか。だけど止められなかった。そんな自分がいやだった。
 合わせた手が震える。リンの手も、さざ波のように震えていた。浩介はリンが泣くかと思った。けれど逆だった。彼女はまた笑った。名前と同じ、鈴の音のような声で。
〝ね。さっきの、もう一回言って〟
〝え? さっきのって?〟
〝さっきの。私の名前〟
 ずきりと胸が痛んだ。
〝……ね、私の名前を、呼んで〟
〝…………リ、ン〟
〝もう一回〟
〝……リン!〟
 たまらず、もう片方の手で目を拭(ぬぐ)った。リンは笑っている。
〝もう一回〟
〝リン!〟
 嗚咽の混じった声で、その名を呼んだ。リンは笑っている。そして涼やかな笑顔が、闇の中へと消えていった。リンの姿が見えなくなると、浩介は思う存分涙を流した。そして思った。
 もうやめよう、リンに逢うのは。この終電に乗り、過去と未来の交差する瞬間を求めて、少女の姿を探すのは。
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