徳川秀忠、ただ一度の恋
文字数 2,177文字
徳川秀忠は、江戸幕府第二代将軍である。
天下に彼を凌ぐ者など一つもない……はずであったが、彼には二つ、頭の上がらない者があった。
父・家康と、妻・お江である。
秀忠がその女中を見初めたのは、将軍に就任して間もない頃のことだった。
特に器量が優れているわけではなかったが、彼女といるとほっとする。それは、正妻であるお江からは、決して得られないものであった。
お江は織田信長の妹・お市の方の娘で、今は大坂にいる淀の方(茶々)の妹である。秀忠より年長であり、二度の結婚経験を持つお江は、秀忠に対しても終始強気であった。目を吊り上げて秀忠を追い回すような女ではないが、どことなく冷ややかに、秀忠を見下すようなところがある。
別に、側室を持つことを禁じられていたわけではないが、秀忠は何となく、側室を持つことをはばかっていた。将軍の最も大事な仕事は男子をもうけることではあるが、お江はすでに二人の男子を産んでいる。この上側室を持つ、などと言い出せば、あの冷ややかな目を向けられることは必定であった。
だから、秀忠はお静のことを、お江には言い出せずにいたのである。
そのお静が姿を消したのは、三日ほど前のことだった。
「殿さま、どうかなさいましたか?」
「い、いや……」
「ならば落ち着いてくださいませ」
秀忠は内心の動揺をお江に悟られたようで、どきりとした。
落ち着け。
「千が大坂に嫁げば、東西和議も相成りましょう。ようやく泰平の世が訪れます」
「うむ」
「戦が続けば、女は子を産む道具、政治の道具として扱われます。千には哀れなれど、千を最後の、道具とされる女としたいものです」
秀忠は驚いた。あまり自分の意志を口にしない女であったお江が、珍しく本音を口にしたからだ。
「ところで殿さま」
どきり。
「お静と申す女中から、このような手紙を預かりましてございます」
手紙を差し出され、秀忠は心臓が口から飛び出すほど驚いた。
「……お読みにならぬのですか?」
目の前で読め、と言うらしい。秀忠は観念して、手紙を手に取り、開いた。
殿さま
身分の低い女である私などにお情けをかけていただき、身に余る栄誉でございました。
どうやら殿さまのお胤を授かったようにございます。
城中に私がいれば、色々と騒ぎになることでしょうから、身を引かせていただくことにいたしました。
無事にお子が産まれましたら、またご連絡差し上げます。
では、いく久しくお健やかに。
たどたどしいかなで綴られた、短い手紙であった。
読み終えて呆然としている秀忠に、お江が手厳しい言葉を浴びせた。
「殿さまは妾を、どのような女と考えておいでか」
「い、いや……」
「側室を持つな、などと申し上げた覚えはございませぬ。ましてやお子を授かったとなれば、大吉事ではございませぬか。それなのに肝心のそのお女中が城を出てしまうとは、いったい誰が、どのようなことを吹き込んだものやら」
いや全く、お江の言う通りである。
「……何をぐずぐずしておいでです」
「は?」
「早くそのお女中を探し出し、側室としてお迎えするのです。お胤を宿した女中を追放した、とあっては、徳川家の恥です」
全くその通りである。
秀忠は直ちに家臣に申しつけて、お静の行方を捜させたが、その行方はようとして知れなかった。
結局、お静の方から
「男子が産まれた」
と連絡してきて、ようやく行方が知れた。下町の神田に、身を潜めていたらしい。
秀忠はすぐ、お忍びでお静の元を訪ねた。
久しぶりに見るお静は、赤子を抱き、心底幸せそうにしていた。
幸せそうな母子を見て、秀忠はすぐに二人を江戸城に連れ帰ろうとしたが、
「なりませぬ」
お静は、秀忠に見せたことのない厳しい顔で言った。
「上様には、正室の若さまがお二人もいらっしゃいます。そこに庶子を割りこませるのは、お家が乱れるもとにございます」
ぴしゃりとした正論であった。
「かと言って、私のような身分の者の下で、このお子を養育するわけにも参りませぬ。しかるべきお方に、この子を預けていただけるよう、ご配慮をおねがいします」
「……そちの申すこと、いちいちもっともである。左様いたすことにしよう。だが、そちだけでも……そちだけでも、余の元に戻ってきてはもらえまいか」
秀忠はひたとお静の目を見据えた。
「……ありがたいお言葉、身に染みました。静はそのお言葉だけで、この先の一生を暮らしてゆけます」
「正規の側室になってくれ、と申してもか?」
お静は悲しげにかぶりを振った。
「天下さまの側室など、荷が重すぎて静には務まりませぬ。殿さまのお子を産む事が許された、その喜びだけで、残りの一生を静かに暮らして行きとうございます」
秀忠はがっくりと肩を落とした。
秀忠とお静の子は、武田信玄の次女である見性院に養育され、信濃高遠藩主保科正光の養子となり、保科家を継いだ。
後に秀忠の跡を継いで将軍となった家光は、弟の存在を知って呼び寄せ、幕閣の一員に加え、会津二十三万石の藩主とした。後の保科正之である。
会津藩は幕末にも幕府への忠義を貫き、動乱に巻き込まれていくこととなるが、それはまた別の話である。
天下に彼を凌ぐ者など一つもない……はずであったが、彼には二つ、頭の上がらない者があった。
父・家康と、妻・お江である。
秀忠がその女中を見初めたのは、将軍に就任して間もない頃のことだった。
特に器量が優れているわけではなかったが、彼女といるとほっとする。それは、正妻であるお江からは、決して得られないものであった。
お江は織田信長の妹・お市の方の娘で、今は大坂にいる淀の方(茶々)の妹である。秀忠より年長であり、二度の結婚経験を持つお江は、秀忠に対しても終始強気であった。目を吊り上げて秀忠を追い回すような女ではないが、どことなく冷ややかに、秀忠を見下すようなところがある。
別に、側室を持つことを禁じられていたわけではないが、秀忠は何となく、側室を持つことをはばかっていた。将軍の最も大事な仕事は男子をもうけることではあるが、お江はすでに二人の男子を産んでいる。この上側室を持つ、などと言い出せば、あの冷ややかな目を向けられることは必定であった。
だから、秀忠はお静のことを、お江には言い出せずにいたのである。
そのお静が姿を消したのは、三日ほど前のことだった。
「殿さま、どうかなさいましたか?」
「い、いや……」
「ならば落ち着いてくださいませ」
秀忠は内心の動揺をお江に悟られたようで、どきりとした。
落ち着け。
「千が大坂に嫁げば、東西和議も相成りましょう。ようやく泰平の世が訪れます」
「うむ」
「戦が続けば、女は子を産む道具、政治の道具として扱われます。千には哀れなれど、千を最後の、道具とされる女としたいものです」
秀忠は驚いた。あまり自分の意志を口にしない女であったお江が、珍しく本音を口にしたからだ。
「ところで殿さま」
どきり。
「お静と申す女中から、このような手紙を預かりましてございます」
手紙を差し出され、秀忠は心臓が口から飛び出すほど驚いた。
「……お読みにならぬのですか?」
目の前で読め、と言うらしい。秀忠は観念して、手紙を手に取り、開いた。
殿さま
身分の低い女である私などにお情けをかけていただき、身に余る栄誉でございました。
どうやら殿さまのお胤を授かったようにございます。
城中に私がいれば、色々と騒ぎになることでしょうから、身を引かせていただくことにいたしました。
無事にお子が産まれましたら、またご連絡差し上げます。
では、いく久しくお健やかに。
たどたどしいかなで綴られた、短い手紙であった。
読み終えて呆然としている秀忠に、お江が手厳しい言葉を浴びせた。
「殿さまは妾を、どのような女と考えておいでか」
「い、いや……」
「側室を持つな、などと申し上げた覚えはございませぬ。ましてやお子を授かったとなれば、大吉事ではございませぬか。それなのに肝心のそのお女中が城を出てしまうとは、いったい誰が、どのようなことを吹き込んだものやら」
いや全く、お江の言う通りである。
「……何をぐずぐずしておいでです」
「は?」
「早くそのお女中を探し出し、側室としてお迎えするのです。お胤を宿した女中を追放した、とあっては、徳川家の恥です」
全くその通りである。
秀忠は直ちに家臣に申しつけて、お静の行方を捜させたが、その行方はようとして知れなかった。
結局、お静の方から
「男子が産まれた」
と連絡してきて、ようやく行方が知れた。下町の神田に、身を潜めていたらしい。
秀忠はすぐ、お忍びでお静の元を訪ねた。
久しぶりに見るお静は、赤子を抱き、心底幸せそうにしていた。
幸せそうな母子を見て、秀忠はすぐに二人を江戸城に連れ帰ろうとしたが、
「なりませぬ」
お静は、秀忠に見せたことのない厳しい顔で言った。
「上様には、正室の若さまがお二人もいらっしゃいます。そこに庶子を割りこませるのは、お家が乱れるもとにございます」
ぴしゃりとした正論であった。
「かと言って、私のような身分の者の下で、このお子を養育するわけにも参りませぬ。しかるべきお方に、この子を預けていただけるよう、ご配慮をおねがいします」
「……そちの申すこと、いちいちもっともである。左様いたすことにしよう。だが、そちだけでも……そちだけでも、余の元に戻ってきてはもらえまいか」
秀忠はひたとお静の目を見据えた。
「……ありがたいお言葉、身に染みました。静はそのお言葉だけで、この先の一生を暮らしてゆけます」
「正規の側室になってくれ、と申してもか?」
お静は悲しげにかぶりを振った。
「天下さまの側室など、荷が重すぎて静には務まりませぬ。殿さまのお子を産む事が許された、その喜びだけで、残りの一生を静かに暮らして行きとうございます」
秀忠はがっくりと肩を落とした。
秀忠とお静の子は、武田信玄の次女である見性院に養育され、信濃高遠藩主保科正光の養子となり、保科家を継いだ。
後に秀忠の跡を継いで将軍となった家光は、弟の存在を知って呼び寄せ、幕閣の一員に加え、会津二十三万石の藩主とした。後の保科正之である。
会津藩は幕末にも幕府への忠義を貫き、動乱に巻き込まれていくこととなるが、それはまた別の話である。