第1話

文字数 1,833文字

 元の職業ニート。
 今の職業は社長。
 高層ビルの最上階に用意した社長室で、俺は社長椅子にふんぞり返る。
 
「社長、例の件ですが」
 
「えー、あー。上手い感じにやっといて」
 
「かしこまりました」
 
 俺がやることは何もない。
 頭の切れる秘書が持ってきた仕事も、俺の優秀な部下たちが勝手にやってくれる。
 俺が手を動かすのはせいぜい、判子を押すのと会食の食事担当だけだ。
 
「社長、先方の方がいらっしゃいました」
 
「待ってました! 今日の飯はどこだっけ?」
 
「洞窟亭です」
 
「いいねー。俺、あそこの料理好きなんだよな。魚が美味しくて」
 
 容易されたリムジンに乗り込んで店へ向かう。
 秘書が先方の社長と呼んでいた男の話相手は、優秀な部下がかってでた。
 移動時間も貴重な商談の場で、店につく前に契約が締結されたこともあるらしい。
 まあ、上手くやってくれてるんなら問題ない。
 
「美味い! さすが、洞窟亭!」
 
 俺は、宝石のように輝く魚料理を貪り食らう。
 新鮮なサラダに、濃厚なスープ。
 前菜もメインも、ケチのつけようがない味だ。
 
「では、契約ということで」
 
「はい。よろしくお願いします」
 
 先方の社長と優秀な部下が、がっちりと握手を交わす。
 料理にはほとんど手を付けていない。
 俺の皿は、もう空っぽだ。
 
「少し、もらっていい?」
 
「全部差し上げます」
 
 俺は難しい話を続ける二人の横で、優秀な部下の料理を食べ始めた。
 美味いの二週目だ。
 
 
 
 幸せな生活だ。
 決して、手放したくはない。
 
「社長、お客様です」
 
「誰かにいい感じにやらせといて」
 
「……今回ばかりは、社長でなければ」
 
「ええー」
 
 俺は渋々、社長椅子から立つ。
 作りかけのジグソーパズルを机に放置したまま、応接室へと向かう。
 社長の俺でしか駄目な相手、誰だろう。
 
「どーも」
 
 面倒くさそうに開いた応接室の扉の先には、頬が痩せこけた女性が座っていた。
 いるはずのない人物を前に、俺は固まる。
 
「うわあああああ!?」
 
 そして、応接室から逃げ出した。
 なんで、どうして母ちゃんが。
 この世界に、いるはずがないんだ。
 
「あんた! 待ちなさい!」
 
 母ちゃんは、鬼の形相で追いかけてくる。
 
「警備! 警備はどこだ! 取り押さえろ!」
 
 必死に廊下を走りながら叫ぶも、社内は人っ子一人いない静寂に包まれている。
 
 消えてしまった。
 母ちゃんに出会った衝撃で、俺のイメージが崩れてしまったんだ。
 
「逃げるな!」
 
「逃げるだろ!」
 
 さっきまでいたはずの高層ビルは消えてなくなり、いつのまにか野原を走っている。
 社長に相応しい高級なスーツも消え、身に着けているのはファストファッション店で母ちゃんが買ってきたセール品のTシャツだ。
 
「なんで、なんで来たんだ! 楽しくやってたのに!」
 
「このアホタレ! 妄想の世界に囚われることが、幸せなわけないでしょう!?」
 
「幸せだよ! 少なくとも、外の世界なんかより!」
 
 受験に失敗した。
 就職活動に失敗した。
 告白に失敗した。
 人生の節目節目で、俺はことごとく失敗してきた。
 
 だから逃げ込んだ。
 くぐれば思い通りの世界に連れて行ってくれると噂のトンネルに。
 
 トンネルの先には理想があった。
 ニートじゃない、社長の俺がいた。
 志望校に合格し、就職活動に成功し、最愛の人への告白に成功し、この世で一番と思える幸福に包まれている俺が。
 
「嘘おっしゃい! 日記見たよ! あんたは馬鹿だけど、馬鹿なりに頑張ろうとしてたんじゃないか! 今までの努力、捨てていいのかい!?」
 
「うるさい! 努力なんて無駄だったんだ!」
 
 過去を振り返ることを止めた。
 都合のいい前だけを見た。
 
 今も、追いかけてくる母ちゃんを振り返らず、前だけを見て逃げている。
 果てのない草原を。
 
 その時、空間が歪み、目の前にトンネルの入り口が現れた。
 
「え、ちょ!?」
 
 トンネルは、思い通りの世界に行きたいと望む人間の前に現れる。
 
 前にトンネル。
 後ろに母ちゃん。
 
「違う! 望んで、ない!」
 
 日記に書いた内容が頭の中を駆け巡り、俺はそのままトンネルをくぐってしまった。
 
 
 
 
 
 
「ご飯できたわよー」
 
 オンボロアパートの部屋で、俺は目を覚ます。
 眠っていたようだ。
 
 どうやら、現実世界を望んでしまったらしい。
 俺の理想の世界から、俺は追放されたんだ。
 
「寝てるのー?」
 
「今行くー!」
 
 味噌汁の、いい香りがする。
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