第1話

文字数 2,463文字

俺は今、闇の中を歩いている。
前も後ろも判らない。右も左も判らない。
只、カチカチという時計の音が聞こえるだけ。
その音が、俺に進めと囁きかける。進まねばならぬと、そう思わせる。
それだけが俺の仕事のように、生きがいのように、ひたすらに足を運ばせる。
どこを進んでいるかは判らぬが、先に進んでいるような気がする。
そう思いたいだけなのかもしれない。この歩みが無駄ではないと思いたいだけなのかもしれない。
それでも、この足を動かしていれば、いづれは何処かにたどり着けるような気がする。
せめて、何か道標になるようなものはないのか。
丁度、そうもの寂しく思っている時だった。
つま先に何かが当たる。
はて、と思い足元を見ると、泡が湧き上がっては弾け、湧き上がっては弾けを繰り返していた。
弾けた泡からは、もう終わりそうな豆電球のように、切れ切れの光を放つかげろうが生まれてくる。
彼らは微睡んでいるようにふらふらと浮遊し、ほんの数秒で明かりを消して地に落ちる。
生まれては飛び立ち、飛び立ってはふらつき、ふらついては地に落ちる。
それを繰り返し、繰り返し。
彼らは、一瞬だけ空を飛ぶために生まれてきたのだ。
俺がその姿に見惚れていると、目の前にそのうちの一匹が飛んできて、足元に落ちた。
俺はそれを掬い上げようと手を伸ばしたが、既にかげろうは地の底に沈んでしまった。
嗚呼、なんと健気なのだろう。
彼らの一生はこうも儚く終わってしまうのだ。
かろうじてその身を光らせ、暗闇の中に自らの命を刻もうと、力の篭らない翅で精一杯羽ばたいている。
嗚呼、なんと健気なのだろう。


俺は今、闇の中を歩いている。
あとどれ程歩けば良いのだろうか。終わりの見えない恐怖に苛まれる。
只、カチカチという時計の音が聞こえるだけ。
いつの間にか、かげろう達は消えていた。
酷く寂しい。たとえそれが得体の知れない何かであろうと、何かが傍にいるという事実が俺を安心させてくれていた。
どうせ消えてしまうなら、最初から現れなければいいのに。
俺は悪態を吐いてやろうと、大きく息を吸い込む。
そして、かげろう達を口汚く罵る言葉を吐き出した。
だが、声は出なかった。変わりに口から白い霧がかったものがふわりと現れた。
俺があっけに取られていると、霧に目が、鼻が、口が、彫られていく。
「よお」
霧は親しげに話しかけてきた。
お前は誰だ、そう尋ねようとした時だった。
「お前は誰だ?」
霧は俺より先に、そう尋ねた。
答えようとして、頭が凍りつく。
お前は誰だ?こんなに簡単な問いは無い。
それなのに答えられない。
そうだ、俺は誰なんだ。俺は一体全体、どうしてこんな暗闇を歩いているのだ。
名前は?歳は?仕事は?友はいるのか?恋人はいるのか?家族はいるのか?
何も判らない。
俺は何なのだ、俺は、俺は…
「そんなこと、どうだっていいじゃ無いか」
霧はそう言った。
俺が何者かなんてどうだもいい。
確かにそう言ったのだ。
「お前がいれば世界は回る、お前が居なくても世界は回る。お前がいて喜ぶ者もいれば、お前が消えて喜ぶ者もいる。お前が生み出す物もあれば、お前が消えて生まれるものもある。」
だからどうした。いきなりなんなのだ。馬鹿馬鹿しい、意味のない禅問答だ。
「馬鹿馬鹿しいか?ああ、確かにそうかもな。だが、そんなものなんだ。何だって、そんなもんなんだ。意味なんて、何も無いんだ。産み落とされて、歩みを進めて、いずれ壊れる。それだけなんだ。意味なんて、何にも無いんだ。」

俺は今、闇の中を歩いている。
もうどれほど歩いただろうか。時間すら判らない。
ただ、カチカチという時計の音が聞こえるだけ。
歩みを進めようと前に出す足が、だんだんと重くなっていく。
底無し沼の中を歩いているような、そんな感覚に囚われる。
右足を上げると、何かが纏わりついてきて地に戻そうとする。それを堪えて一歩踏み出し、次に左を持ち上げる。
するとまた、何かが左足に纏わりついてきて、地に押し戻そうとする。
そんなことをもう何度繰り返しただろうか。
俺の力はだんだんと弱くなっていき、何かが纏わり付く力はだんだんと強くなっていく。
いい加減、もう疲れた。
これが、俺の精一杯なのだ。
かげろう達より頑張ったじゃないか。
彼らがなんとか命を刻みつけようと光るように、俺も必死に歩みを進めてきたじゃないか。
それを、何もない暗闇で、一人孤独に苛まれ、カチカチという音に囁かれ続け。
こんなにも長く、こんなにも長く。
かげろう達より頑張ったじゃないか。
どれほど歩いたのだろうか、と後ろを振り返る。
目と鼻の先はもう闇に包まれている。
始まりの地点も定かではない。
距離なんて到底判らなかった。
それでも、霧が言っていたじゃないか。
俺に意味はない。
歩みを進めようと、止めようと、そこに意味はないのだ。
俺が歩き続ければどこかに辿り着くかもしれない。だが、辿り着いたからといって、それがどうなんだ?
どっちでもいい、どうでもいい。この世の全てはいてもいなくても、あってもなくても結局の所変わりはしないのだ。
霧が言っていたじゃないか。
ああ、俺はもう疲れた。
少し横になろう…
ほら、またかげろう達が現れた。
泡から生まれては消え、生まれては消えを繰り返す。
明滅する光を放ち、ゆらゆらと力なく飛ぶかげろう達が。
霧のヤツも笑ってやがる。
何処か懐かしい、品の無い顔に、ニヤニヤが張り付いてやがる。
俺の横たわった体から、重油のような極彩色の液体が流れ出る。
それがかげろう達の死体と溶け合って、そこから細い茎が何本かするすると背を伸ばす。
伸びきった茎はゆっくりと頭を大きくし、凛とした白百合が咲いた。
何本も、何本も。
霧は相変わらず、口を震わせて笑ってやがる。
いつのまにか時計の音は止み、その代わり霧の笑い声が暗闇に響く。
ケタケタ、ケタケタ。
ああ、もう疲れた。ゆっくり休もう。


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