出帆

文字数 1,237文字



 ピーッピーッピーッピーッ・・・・・・。

 けたたましく鳴るアラームが、
ガラリと現実を連れて来た。

 心地よい眠りから
強制的に別世界へと俺を連行する。

 

 「・・・起きなきゃ・・・。」


 月曜から金曜のルーティン。

 毎朝七時半に起床。


 朝は、本当はうだうだしていたい。

 限界まで、出たくない。

 一分でも長く、布団にもぐっていたい。


 起床時間は多分、
他のサラリーマンよりも遅いだろう。
 時差通勤が推奨されていることを
良いことに、
当面の出勤時間を午前十時にしてもらった。


 俺が居ない。


 電車内も寿司詰め状態ではないし、
それなりに快適ではあった。

 会社内での待遇は悪くない。

 パワハラなども、受けてはいない。

 要するに、会社側には、
何の文句のつけようもない。

 俺は、
職場の環境に恵まれているだろう。


 だけど、俺がどこにも居ない。


 言葉にならないわだかまりが、
頭の上の方で金切声(かなきりごえ)を上げていた。




 電車のドア付近に立つ。

 目の前を素早く通り過ぎる風景。

 どうでもいい、灰色。

 別に見たくもない映像が、
目に飛び込んでは消えてゆく。



 自宅の最寄り駅から会社の最寄り駅への
途中駅で電車が停止した。

 ピンポン。ピンポン。ピンポン。
 チャイムと同時にドアが開く。

 足が酸素を求めて飛び出す。

 電車のドアからホームに踏み出す足を、
俺は止められなかった。





 駅のバスターミナルの五番乗り場から、
海岸沿いのバス停に向かうバスに乗った。


 徐々に、海が見えてきた。

 午前中の日差しに照らされて、
無数の輝きを放つ宝石箱。

 
 海岸沿いのバス停で降りた。

 休日に何度も
バイクで走ったことがある道だ。

 ガードレールのない
海岸への入り口の階段には、
目をつぶっても辿り着ける。



 ズボンの裾を膝上までまくり、
靴を脱いで、
靴下も脱いで、足を浸す。

 波打ち際の砂の上。 

 何も考えない。

 ただ地球を、海を、足で味わう。


 世界中を潤す、
途切れのない水に身体を浸し、
地球の一部となる。
 
 打算を脱ぎ捨てた俺は、
心地よい開放感の向こう側を見ようとした。

 

 いわゆる、
中年という年齢はとうに過ぎた。

 若い頃は、
周囲の期待に応えることが
正義だと信じて生きてきた。

 しかし俺は、
今までずっと、
周囲の期待を裏切るような仕事
に就きたいと思って来た。


 本当の自分は、何者なのか。

 自分が、なりたいもの。

 子供の頃に描いた本当の夢。



 『全てあなたが決めなさい。』


 
 俺の命を、
無条件に受け入れてくれる水面。

 足元から伝わる、生きている実感。

 心臓の鼓動が軽快なリズムを刻む。

 「良かった。俺はまだ大丈夫だ。」


 裸足のまま、海岸沿いを歩く。

 海に遊びに来ている人々が
周囲にたくさん居たが、
俺と深くかかわるような人は、
この中には一人も居ないだろう。

 通り過ぎた一枚の風景。

 通り過ぎれば、
その先にはまた別の風景があるだけだ。

 来年の俺は、
来年、与えられた風景に溶け込む。

 もう今の場所には居ない。




 「これからだ。」

 

 勇気を出そう。

 今度こそ、俺に会いたい。


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登場人物紹介

俺。54歳。

20歳代から真面目に会社勤めをしてきたサラリーマン。

親孝行のために、本心を押し隠して生きてきた。

高校時代には吹奏楽部に所属し、サックスを吹いていた。

ミュージシャンになりたかったが、

裕福ではなかったため、

サラリーマンとして今まで生きてきた。

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