第1話

文字数 1,943文字

「ねえパパ」色づく山々を満喫したハイキングからの帰り道、9歳になる娘がぽつりとつぶやいた。「ママにはもう二度と会えないのかな」
 妻は2か月前に交通事故で亡くなっている。さんざんかすみには言ってきかせたはずなのだが。「何度もそう言ったじゃないか」
「でもママにはまた会えるって聞いたもん。真奈ちゃんのママがそう言ってたもん」
 詳しく聞いてみると、友だちの母親が転生などというたわごとを吹き込んだようだった。困ったものだ。たとえ娘を元気づけようという意図があるにせよ、これは容認しがたい。
 とはいえわたし自身、頭から否定しているだけで厳密な非存在証明をしたわけではない。どれほど突拍子のない仮説でも検証してみるのが科学である。ザックを下ろし、紙と鉛筆を取り出す。
「ちょっと待ってなさい。いま検証してみるから」

 転生を科学するにあたり、まずは作用機序を確定させねばならない。ここでわたしは死後に魂が天国へ召され、次の生を待つというありそうもない流れより説得力のある理論を提供したい。まずは脳の計算能力から見ていく。
 脳内の神経細胞 およそ1,000億個 ……①
 大脳のシナプス数 およそ125兆 ……②
 ①、②の連結状態を1秒間シミュレートするのにペタフロップス級の演算能力を誇るスーパーコンピュータ〈京〉が5分以上もの時間を要した事例から、脳は宇宙最大の計算機であると結論できる。
 次に転生をどう考えるかであるが、要するに彼女が生きていればよい。とはいえ妻を生き返らせるには熱力学の第二法則を破らねばならない。火葬された肉体は大部分が燃焼して熱エネルギーへ変換され、空間に散逸している。これらが再び凝集して一人の人間に組み上がるにはエントロピーの減少をともなわねばならない。
 S=k logW
 これをどう覆すのか? 結局はWの取りうる値が減ればいいわけだ。量子論の多元宇宙解釈によれば、事象は観測されるたびに分岐しているのだという。これは1秒ごとに無限個の宇宙が誕生していることを意味する。そのなかには(事実上0に近いけれども)Wの値がわずかに減少する宇宙もあるはずだ。そうした宇宙を連続で観測できればいずれ妻の生きている世界に到達できるだろう。
 これは一見不可能のように思えるけれども、ここでペンローズの量子脳仮説が真価を発揮する。脳が量子コンピュータ並みの演算力を有しているのは①、②から明らかである。さらに宇宙が無数にあるのだとしたら、それらを並列接続してエントロピーの減少する宇宙へ現実が収束するよう働きかければよい。ここまでくれば、あとは無限の計算力を結集するだけだ。
 わたしは念じてみた。〈よその宇宙のわたしたちよ、力を貸してくれ!〉
 もちろんなにも起こらなかった。

「なあかすみ」紙から顔を上げ、娘と正面から相対する。「ママは――」
 続けられなかった。言下に否定するには娘の瞳に宿った期待が強すぎたのだ。
「会えるんでしょパパ。ねえそうなんでしょ」
 宇宙は広い。途方もなく広い。宇宙空間が絶対零度近くまで冷え込むのもそれが理由だし、妻が生き返らないのもそうだ。物質は一度散逸したら二度と戻らない。けれども待ってほしい。地球は閉鎖系である。水素やヘリウムならいざ知らず、動物の主要な構成要素である炭素は重いので、そう簡単に地球外へ脱出したりはしない。炭素は地球内で循環しているのだ。
「ママはどこにいるの。ねえったら」
 人体に含まれる炭素量=18% ……③
 妻の生前の体重=52 kg ……④
 ③、④より 52×0.18=9.36 kg ……⑤
 地球上の炭素量=750,000,000,000トン ……⑥
 ⑤、⑥より 地球と妻の炭素比 0.0000000000000133 ……⑦
 これは限りなく小さな存在比である。しかし――。
「ママに会いたいよう」娘はついにぐずり出した。「ママに会いたい」
 世界人口(2020年現在) 7,700,000,000人 ……⑧
 ⑦×⑧≒0.00010241 0.00010241人という単位は存在しないので、端数を切り上げて整数に直すと 1人
 上記の計算結果は世界のどこかにかつて妻を構成していた炭素を取り込んだ人間が、少なくとも一人はいるという意味になる。
 目頭が熱くなった。娘の肩に手を置いてやり、優しく語りかける。「かすみ、ママは生まれ変わってるよ。広い世界のどこかにね」
「ほんと? じゃああたし、大きくなったら旅行にいって、ママに会いにいこうっと」
 すっかり元気を取り戻した娘と手をつなぎ、われわれ親子は山を下りた。
「ねえパパ、パパも一緒にママを探そうね。約束だよ」
「約束する」わたしは悟られないよう涙を拭い、指切りをした。「約束するよ、かすみ」
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