完話

文字数 6,879文字

 昨夜の夫の剛の言葉が朝から頭の中で繰り返される。「俺、リストラされるかもしれない。ちょっと覚悟しておいて。」長男の涼介は高校2年生で来年大学受験を迎える。長女の結衣は中学3年生で高校受験を控えている。ふたりとも受験のために塾へ通っている。今リストラされては大変なことになる。由美は病院で栄養士として働いていたが、子育てに専念したくて結衣が小学校に入ると同時に辞めてしまった。保育園まで通わせていたのに、今悔やまれる。現在は栄養士とは関係のないコンビニでアルバイトをしている。その時間に行って仕事するだけなので気が楽なのだ。しかし、リストラされてはアルバイトしてるわけにはいかないかもしれない。また栄養士として仕事が得られるだろうか。栄養士として仕事ができるだろうか? いろんな考えが感情を伴ってグルグル頭の中で渦を巻く。携帯が鳴って、やっと自分との会話から解放された。

「お母さん、何?」
「由美、転んじゃって、足が痛くて立てない。携帯がそばにあったから、何とか電話できた。」

 怯えたような、震えてるような声で由美の母が言う。2階から降りる時に何故か最後の段を抜かしてしまって転んだらしい。そしてその時に足を捻ったようで、痛くて立てないと言う。母はふた駅ほど離れたところでひとり暮らしをしている。今の時間なら車で20分ぐらいで行ける。
「じゃあ、今から行こうか。」
「そうしてくれる?」
 だんだん年老いていく親は、もうひとりの子供のようだ。涼介、結衣、母。母はひとりで生活できるから安心していた。今も特に心配していない。とにかく行ってみることにした。

 母はどうも骨折かヒビでも入っているようだった。車に乗せて救急へ連れて行くことにした。それにしても、腕を抱えてあげても立つことができず、おんぶも抱っこも無理である。
「救急車呼ぼうか?」
「そんな大袈裟な! 近所の人が何事かと思うわよ。」
「でも歩けないんでしょ? 私だって、お母さん抱えられないじゃない。」

 救急隊によると骨折の可能性が高いらしい。病院に着いてしばらく待たされ、レントゲンを撮ると、やはり骨折だった。そのまま入院して手術をするかどうか検討しましょうと医者に言われた。由美の頭の中の会話の話題がひとつ増えてしまった。こんな時に骨折してと母を恨む気持ちが湧き上がってしまう。今日は仕事が休みの日でよかった。明日だったら頭がパンクするところだった、と自分と会話しながら母の家に電車で戻り、入院に必要なものをバックに入れて今度は車で病院に行った。

 剛はその晩は早く帰宅してきた。夕食の支度をしながら由美は母が足首を骨折したこと、救急車を呼んだこと、そして入院することになったこと、自分はそれに振り回されたことを家族に話した。涼介はまだ自分の部屋にいた。「結衣、お兄ちゃん呼んできて、そろそろご飯だろうし、話したいことがあるから」と父親に言われ、結衣は素直に呼びに行った。涼介も素直にすぐに降りてきた。
「お父さん、もしかしたらリストラされるかもしれないんだ。もうふたりとも大きいから、隠さずに言うよ。でも、まだ決まったわけではないから。リストラされてもすぐに仕事探すから、あまり心配しないようにな。」
 由美は自分に相談もせずに子供たちに知らせるなんて、と険しい表情でふたりの様子を見た。ふたりとも驚きと戸惑いが混ざったような顔をしていた。
「さっ、ご飯できたから、結衣ちゃん、手伝って。」
 4人はしばらく無言で夕食を食べた。沈黙を破ってくれたのは結衣だった。
「おばあちゃん、手術するのかなあ。」
 受験を控えてるのにいろんなことを心配させてしまってると感じた由美は胸がキュンとした。結衣は中学受験に失敗していて、今度の高校受験にあの経験が不安として出てきているようなのだ。
「まだ手術するかどうかわからないの。でも、今は病院にいるから安心して。」
 結衣を落ち着かせるために言った言葉だが、実際は由美自身にかけた言葉かもしれない。

 翌日、結衣は学校帰りに入院中の祖母に会いに行った。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「あら、結衣ちゃん。学校帰り? 電車に乗って来たの?」
「うん。おばあちゃん、足の具合は?」
 結衣はベッドに寝ている祖母が笑顔で迎えてくれたのでほっとした。そして祖母は上半身を起こそうとし始め、結衣はすぐに手を貸した。
「ありがとう、結衣ちゃん。」
「ねえ、おばあちゃん。お父さんねえ、リストラされるかもしれないんだって。」
「ええっ。それは大変だ。そんな時におばあちゃん転んじゃって、ごめんね。」
「おばあちゃんは謝る必要ないよ。私、志望校を私立じゃなくて公立に変えようかな、、、。」
「そんなことしなくても大丈夫よ、きっと。あまり心配しちゃダメよ。」
 結衣が帰った後、その心配は祖母の体にあった。足首の痛みよりも痛い。そんな大変な時に由美に迷惑をかけてしまって、剛にだって迷惑をかけるだろう。歳をとっていくのは嫌だ。

 結衣は病院から家に帰る途中で猫を見かけた。その猫は以前飼っていた黒猫のメイに似ていると思った。人懐っこそうで、結衣のところへやって来て、結衣の足に体を擦り始めた。結衣がしゃがんで手を近づけると今度はその手に顎を擦り始める。かわいい。飼いたい。抱き上げるとずいぶん重く、太った猫だと思った。涼介はもう帰宅していて、自分の部屋の窓から重たそうに猫を抱えて帰って来た妹を眺めていた。玄関のドアが開いた音を聞いて下に降りてみると、太った黒猫がニャアと挨拶した。
「どうすんの、その猫?」
「飼いたいんだけれど、、、。」
「お母さん、いいって言うと思う?」
「そこを何とか。」
「オレ、知らねえ。」
「メイに似てない、この子?」
「黒いだけじゃない?」
 
でも人懐っこさはよく似ていて、確かにメイを思い出させる。撫でると頭を手のひらまで背伸びする。ゴロゴロと喉も鳴らし始めた。それにしても太った猫だ。
 「お兄ちゃん、私、志望校を聖イグネシアスじゃなくて都立にしようと思って、、、。」
 猫を撫でながら、結衣がボソッと言った。
「何で? リストラ?」
「それもあるし、落ちるの怖い。それに本当に聖イグネシアスが私にあってるのかなとも思い始めて、、、。」
 涼介は、今はあぐらをかいている自分の膝の上でくつろぎ始めている黒猫を撫でながら考えていた。
「オレはさあ、大学受験をやめようかと思ってて。」
「ええっ! それはヤバイよ。お母さん、悲鳴をあげるよ!」
「大学行って会社入ってリストラされる時代なら、行かなきゃダメっていう考えは古いんじゃない? 専門学校でも結構理科系のところあるし、もっと実践的なところに行く近道なんじゃないかなっていう気もしてきてるんだよね。」
「前から考えてたの?」
「まあね。何かさあ、大学、大学っていう雰囲気に馴染めないっつぅか、どこかオレと違うなあっていう違和感? そんな感じ。」
「私も、中学受験失敗したじゃん。あれキツかったんだけれど、でも、負け惜しみじゃなくて、あそこに行かなくてよかったとも思うんだよね。私に合ってなかったんじゃないかって、そんな感じ? でさあ、聖イグネシアスも似たような私立じゃん。レベルは高いよ。でもどうかなって考えちゃって。私も大学より、お母さんみたいに栄養士の資格取って病院とか施設とかで働く方が楽しそうと思えてきて、、、。」
 黒猫はそんなふたりの会話を聞いてるような聞いてないような、しかし自分はここの家にしっかり受け入れてもらっているといった態度で涼介の膝で寝始めていた。

 剛はその晩、一杯だけと言われ同僚とビールを飲みに行った。お互いリストラの危険があるふたりだ。慰め合ってるわけではない。スパイのように相手の様子を探っているわけでもなかった。ただ、チェスボードの上の隣同士のポーンのような、そんな気持ちだった。「リストラ」という単語は2度ほど会話に出たが、後はたわいもない話で終わった。一杯だけで店を出た時、まるでチェスのゲームが始まったような心境だった。

 剛が帰宅が遅れたためひとりで夕食を食べていると、涼介と結衣も下の食卓へ降りて来た。結衣は見たことのない大きな黒猫を抱っこしている。
「何、その猫!」
「飼いたい。」
「受験でしょ。猫と遊んでいる暇ないわよ。」
「じゃあ、オレが飼う。」
 結衣はこの時ほど兄の愛情を感じたことはないと思った。剛は自分のリストラのことで不安にさせてると思い、飼わせてやればいいと由美に言い聞かせた。しかし、会話はそれだけでは終わらなかった。涼介は大学受験を辞めたい、結衣は志望校を変えたいと言い出してきた。由美の頭の中で竜巻が起こったように感じる。剛も予想もしてないふたりの話に戸惑ってしまった。竜巻は由美の頭の中だけではなく、ここ食卓のテーブルを中心に渦を巻き始めているようだ。この竜巻から火でも吹き出してもおかしくないくらい、それぞれが発散している熱を4人は感じていた。
「とにかく、リストラされるとは決まったわけではないんだから、落ち着いてくれ。風呂に入る。」
 穏やかな剛が、顔を熱らせて席を立った。由美は後ろ姿の剛の頭から煙が立つのを見たような気がする。

 仕事中が一番頭が静かかもしれない。それでも、昨夜の会話が頭を離れることはなかった。リストラされたら道を変えなければいけないのは自分だ、と由美は思った。あの子たちにはそのまま受験に挑んでもらいたい。私は違う職を探すから、そのままの道を進んで欲しいと祈るように自分の頭の中で会話していた。いつの間にか仕事の終わりの時間がきていた。今日は仕事をしていたんだろうか? 挨拶をして店を出ると、店の前で品の良さそうな年配の女性が小さな悲鳴をあげた。
「大丈夫ですか? どうされました?」
「痛い。足を挫いたみたい。」
 母と同じような年代の、でも裕福そうな女性だ。手を貸して立たせてあげたが、痛みは強そうだった。
「うちの母が、つい最近階段を踏み損ねて骨折したんですよ。」
「あら、それは大変でしたでしょう? でも私のはそこまでじゃないと思います。でも痛いわ。あなた、もしよかったらそこのコーヒーショップで一緒にコーヒーでも飲んでくださらない? 腫れが出るかどうか見るまで、一緒にいてくれませんかしら?」
 裕福な、お上品な人は変わったことを言うなと思いながらも見捨てる気にもなれず、彼女の言うようにコーヒーショップに入った。席に座らせると、「これでカフェラテを買ってきてくださる? 12オンスのを。あなたはお好きなのを買ってちょうだい。何か食べるものを買ってもよろしくてよ」と言って1万円札を由美に渡した。そして、それを気まずく受け取った由美が席を立ち上がる時、「お店の人に氷をもらっていただける?」とも言われた。12オンスのカフェラテをふたつ頼み、氷を紙コップにもらい席に戻った。「ありがとう。食べ物はよかったの? ここのスコーンは美味しいのよ」と言ったが、お腹は空いていないと答えたくさんのお釣りを渡した。「すみません。いただきます」と言ってカフェラテを啜った。「いいえ、こちらこそ。お忙しいでしょうに。本当にお付き合いありがとう」と言って、痛みのある足をベンチシートに乗せ紙コップに入った氷を当て始めた。お上品そうなのに、そんな彼女の大胆な行動に由美は驚いた。
「お子さんはいらっっしゃるの?」
 何てことだろう、全く見ず知らずの女性に自分の今現在の状況を話し始めてしまっていた。夫のリストラの可能性、母の入院、大学受験を辞めると言う長男、高校の志望校を変える、しかもランクを下げると言い出した長女、そしていいとも言ってないのに飼う羽目になった太った黒猫。
「大変なことが一遍に起こってしまったのね。それはそれは、頭が痛い時ですわね。」
 由美は返事をしようとしたがため息しか出なかった。
「カオスの中から何が生まれると思います? フェニックスよ。あなたのおうちの今の状況はカオスに似てるみたいね。でもそこからフェニックスが生まれてきますわよ。ようく、見ていて。必ず良いことが起きるから。」
 フェニックス。お金のある人はこんな優雅なことを言うんだ。こんな人生を歩んでみたかった。羨望が由美の体中を埋め尽くした。

 羨望で埋め尽くされた体は麻痺しているようで、家に辿り着いてもまだ自分の体が戻ってない。中に入ると、泣きそうな不安げな結衣が突っ立っていた。「どうしたの?」と麻痺から戻っていない由美の体が硬直し始める。「ミーがいないの」と結衣は顔を崩しながら泣き始めた。どうもミーというのはあの太った黒猫のことらしい。猫がいなくなったなら、問題はひとつ片付いたことになる。フェニックスだろうか。
「結衣、オレの部屋に来てみろよ!」
 涼介が2階から叫んだ。結衣は涙を拭きながらゆっくり階段を登っていった。「ミー!」何だ、いたのか。「お母さん、来て! ミーが赤ちゃん産んでた!」と聞こえたと同時に頭がくらくらした。フェニックスどころかまた問題が増えている。カオスが膨らむ。猫がさらに4匹増えたことに剛の頭の中も何か渦が回っているような気がした。親猫の「ミー」は飼ってもいいから子猫は誰かに貰ってもらいなさいと強く父に言われ、中学3年生の結衣は素直に妥協した。来週の由美の仕事休みの日に獣医に連れて行って、診察をしてもらい、貰い手を探してもらうことにした。その間、結衣はチラシを作って近所に貼っていった。
 獣医に連れて行く日、結衣と由美が箱に子猫を、早速飼い猫として買ってもらった猫用のキャリーバックにミーを入れて車に乗り込もうとした時、名前は知らないがよく見かける年配の男性が声をかけてきた。
「子猫がいるんだって?」
「ええ、ほらここに。」
「4匹か。もう貰い手がいるの?」
「いえ、まだ。今から獣医さんのところへ行って、診てもらいついでに預かってくれないかしらと思ってるんですけどね。」
「うちの妹が欲しいって言って、4匹いるかわからないけれど。ちょっと待って、今聞いてみる。」
 男性はその場で携帯で妹に電話しているようだった。
「4匹いるなら全部預かるって。」
「本当ですか?」
「うちの妹が老人ホームを始めて。猫とか犬とかはいい癒しだからいないかなって言ってたんだよ。4匹ならどうにかなるってさ。開いたばかりでスタッフが足りないんだけれどね。栄養士さんとかいないって言ってたよ。」
「私、栄養士の資格あるんですけど。昔病院で働いていて、もう何年も前ですけれど。」
「えっ、本当? じゃあ、妹を連れて来る時までに履歴書用意しておいてよ。私の電話番号を教えとくね。」
 この早い成り行きに由美は戸惑いを感じたが、悪くない。実際にその妹に会うと、気さくで老人ホームというよりも老人を対象にしたシェアハウスのようなものだから、適度な栄養を考えられる人を探していたから由美はピッタリだと言われた。来月から出勤することになった。仕事内容には猫の餌も入っていた。結衣が時々子猫たちに会いに行ってもいいかと聞くと、その女性は喜んで、なら子猫の世話のボランティアを時々してくれと頼んできた。受験なのにと由美は眉をしかめる様な気持ちだったが、新上司に対して何も言えなかった。

 由美の母は手術をし、今は回復中である。由美の新しい仕事を喜び、自分もそのシェアハウスに住もうかと、冗談なのか本気なのか、そんなことを言い始めた。由美に毎日会えるし、結衣も時々来るなら嬉しいというのは本心からだろうと由美は感じていた。そして、剛は結局リストラは免れた。由美は、それなら今まで通りふたりとも塾へ通ってそれぞれの受験に挑むべきだと主張したが、ふたりの子供は、特に涼介はすでに腹を決めたというように断固として理系の専門学校進学を譲らなかった。結衣も聖イグネシアスへは行く気がしないと言い張る。祝いの食事のつもりが半分言い合いになってしまい、ふたりが膨れっ面で2階に上がった後、剛と由美は疲れ顔でビールを飲んだ。ビールを由美のグラスに注ぎながら、「ふたりの言うようにしてやろうよ。まだまだ俺達の羽の下で育つ時期だけれど、すぐに巣立つ日が来るぞ。その準備と思ってやろうよ。涼介の言うように、もう絶対大学に行くべきっていう時代じゃないかもしれない。結衣だって、中学受験を失敗して彼女なりに知恵を養ってるんじゃない?」と言ってきた。譲れない。譲りたくない。由美はすぐには夫に賛成できなかった。フェニックス。あの子達がフェニックスなんだろうか。それともこの親子4人はフェニックスで、ここはフェニックスの巣なのだろうか? もう何年も前から飼われているような態度のミーがテーブルに乗っかってきた。ミャアと言いながら由美の顔をじっと見ている。よく見ると、なんてかわいい顔。それに綺麗な目。ブルーの目の中にオニックスのような光る瞳。ミーもお父さんに賛成なの? この猫は何もかも見えてるみたいだ。

 
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