第1話

文字数 3,931文字

 秋が深まるにつれて夜は長くなる。まして一人の夜は、なおのこと。

 夜更けにぼんやりテレビの旅番組を見ていたら、不意に「彼」の横顔を思い出した。記憶の彼方に遠ざかっていた面影を求めて、翌朝の始発電車に飛び乗った。もうそこにはいないだろうとわかってはいたけれど。


 ホームに降り立つと、向こうに海が見える。目の前に広がる海原を見つめ、私はしばし佇んだ。時の流れを経ても変わらない風景だった。改札の横には黒猫が背中を丸めて座っていた。

 町を歩くと、商店街も家々も色あせて、時代に置いてきぼりにされているように見えた。とはいっても、この町は海があるだけでじゅうぶんなのだ。あらためてそう思った。

 「サファイア通り」と呼ばれるその道は、特に夕刻になると「感動」という名の素晴らしいプレゼントをくれる。あのころの私は毎日そのプレゼントを当たり前のように受け取っていたのだ。

 駅前から海へ向かってサファイア通りをゆるやかにくだると、その向こうに海が広がる。その坂の途中、ひとすじ入ったところに私の店があった。かつて私はこの町で、紅茶とシフォンケーキの店を開いていたのだ。町の過疎化にストップをかけるため若者に移住を呼びかけていることを知り、古い民家のリフォームにも力を貸してくれるというので、二十代の終りに、子どものころからの夢をカタチにするべく会社をやめてこの町に越してきた。山あいの町で育った私にとって、海辺の暮らしは憧れでもあった。今思えば、私が自分の意志で選んだ、たった一度の挑戦だったかもしれない。古い友だちが店を訪ねてくれるときもあった。物珍しさも手伝ってか、町の人たちでにぎわうときもあった。

 若者への誘致と観光で活気を取り戻そうという町の取り組みだったが、とりたてて有名な神社仏閣があるわけでもなく、観光客も人口も思うほどには伸びなかった。ガイドブックを片手に若い人たちが訪ねてくれた私の店も、4年が過ぎたころには売り上げゼロの日が出てきて、自分が日々食べることにも厳しくなってしまい、けっきょくこの町を去ることになった。


 それから二十年の月日が流れ、その間に、私は結婚と離婚を経験した。今は、一見おしゃれなオフィスに通う、契約社員だ。正直、老後の保障も、ない。


 跡形もないだろうと思ったその店は、かろうじて原形をとどめていた。原形をとどめているからこそ、と言うべきか、流れた歳月を残酷なほどに表していた。土壁にはびっしりと蔦がからまり、毎日磨いていた木枠の窓ガラスはすべて割れ、屋根瓦の一部が崩れて、建物全体が傾いていた。そっと中をのぞくと、荒れはてた空間にテーブルや椅子がほこりをかぶって残っていた。あの時代に体感した匂いや温度、音が鮮やかによみがえる。目を凝らすと、カウンターの向こうでティーポットにお湯を注ぐ私の姿が見えた。

 突然会いたくなったその彼も、若者誘致でやってきた一人だった。年は私より5つ上、職業はカメラマンで、機械や車の写真を撮っていると聞いていた。

 彼はいつもこの坂の途中でカメラを構え、夢中でシャッターを切っていた。彼の撮る写真は色彩が特に美しく、町の観光課のパンフレットにも使われていた。海の色が移り変わってゆくのを一心に撮り続ける横顔は、魅力的だった。ときどき、撮影帰りに私の店に立ち寄ってくれたけれど、極度の人見知りなのだろう、声をかけてもほとんど反応がなく、私から声をかけることは控えていた。

 そんなある朝、散歩の途中で、海に向かってカメラを構える彼に出会った。たいていは挨拶だけで通り過ぎるのだけれど、そこから見える海があまりに美しいので足を止めた。邪魔にならないように彼の少し後ろに立っていたのに、気配を感じたのか、振り向きもせずに彼が私に言葉を投げかけた。
「サファイア通りって名前の意味を知っていますか?」
「サファイアブルーの海……、ですよね?」
 彼は微笑みながら言った。
「ちゃんとこの海、見てますか?」
「見てますよ」
 私はどぎまぎしながら答えた。
「じゃあ」
 そう言いながら彼はこちらを振り向いた。
「夕方の海の色は、何色でしょう?」
「何色って……表現できないほど、様々ですよね」
「そう。海の色も空の色も、瞬間瞬間に変わり、一様ではないんです。それを撮りたくてここへ来たんですけど。なかなか……」
 恥ずかしそうに笑う彼をそのとき初めて見た。
「で、サファイア通りの名前の意味は?」
「サファイアという石は、ブルーが一番知られているけれど、様々な色があることを知っていますか?」
「そうなんですか」
「もしかしたら、最初は単純に青のイメージでつけたんでしょう。でも、この海と空の数えきれない色がまさにサファイア色なんですよ」
 そんな会話をして別れた。海の色についてそこまで深く考えたことがなかったので、小さな衝撃だった。毎日見ていたつもりだったけれど、実は見ていない色や姿があるんだということにも。

 それから間もなく、私はその町を去る決心をした。

 近所の人たちからは野菜や手作りの料理などで毎日助けてもらっていたけれど、店の収入だけでは基本となる生活費が回らなくなってしまったのだ。ぼーっとしていると借金が増えてしまいそうだったから、そそくさと、いなくなるしか道はなかった。
 そのことをなんとなく彼にだけは話しておきたいと思った。

 良く晴れた冬の夕暮れだった。とりわけ美しい風景に出会えるだろうと思ったその日、サファイア通りを歩きながら彼を探した。この風景ももうすぐ見納めかと思うと、今さらながら寂しさが募った。
 思っていた通り、彼は夕陽を見つめながら三脚の前に立っていた。ふと私に気づき小さく手をあげた。彼の方からのそんなしぐさははじめてで、どぎまぎした。
 そのときだった。彼の手からカメラのキャップがぽろりと落ちて車輪のようにころころと転がってきたのだ。それを拾って渡すとき、彼の手に触れた。温かい指の温度を感じて鼓動が早くなり、自分の笑顔が少しひきつっているのを感じた。

「珍しいですね、この時間。もう閉めてきたんですか」
「ええ」
 私は静かに語りかけた。
「ご挨拶に来たんです」
「あいさつ?」
 少しの沈黙のあと、落ち着くために大きく息を吸った。
「引っ越すことにしたんです」
 彼は振り返り一瞬私の目を見つめ、すぐに視線を落とした。
「へえ、そりゃあ、またどうして」
「私って不器用っていうか、要領が悪いっていうか。ふふふ、お店が続けられなくなっちゃって……」
 明るく振舞おうと笑いながら話した。
「そうなんですか」
 いつも表情を崩さない彼が、動揺しているのがわかった。
「それは……残念です」
 さらっと流されるだろうと想像していた私にとって、思いがけない言葉だった。
「私も……、私も残念です」
 言葉とともに涙がひとすじこぼれると、そのあとは堰を切ったように流れた。彼はしばらく無言でカメラを触り、ふと口を開いた。
「これから、どうするんですか?」
「また、会社勤めかな」
 彼は私に向き直った。

「よかったら一緒に……」

 体がフリーズしたように固まった。飲み込んで消えた彼の言葉を聞き返す勇気はなかった。数秒。十数秒。数十秒だったのか。風の音だけがひゅうひゅうと鳴っていた。

「あ、いえ。シフォンケーキも紅茶も美味しかったですよ。今まで出会ったどのお店よりも」
 また涙がこぼれ落ちた。
「ありがとうございます。いつかサファイアのことを話してくださったでしょ。私、あれがすごく印象的で。サファイアの色は本当にたくさんあるんだって」
「そうですか。嬉しいな」
 いつもより笑顔の彼が眩しかった。言葉にできない思いがあふれ、不意に右手を差し出した。
「お元気で」
 一瞬ためらった様子だった彼も強く握り返してくれた。大きな掌が暖かかった。
「元気でね。僕はもう少しこの町にいると思うから、また遊びに来てください」

 それからひと月もしないうちに私はこの町を去った。そして、それきり訪れることはなかった。


 サファイア通りを歩きながら、遠い日の彼とのやりとりを思い出していた。

 サファイアの色は一様ではない。青だけでなく、黄、緑、ピンク、オレンジ、紫、水色、それらの濃淡から黒、無色まで……あらゆる色があると、あの日私は知った。

 海に夕日が沈むとき、海原は様々に色を変えて行く。久しぶりにその風景を目の当たりにして私は立ち止まり息をのんだ。水平線に近い空は金色に輝いている。海が刻々と変化する。真っ青だった空が薄桃色までの濃淡を作り、そして紫がだんだん濃くなり、やがて漆黒に変わるだろう。

 今日は空気が温かく、海が霞んで見える。
 ふと坂の途中で彼の姿が見えた気がした。
 幻影だったのか、ぼやけて、やがて消えていった。

 彼は今どこにいるんだろう。いや、どこにいたって自分の撮りたい「絵」を求めて、ひたすらシャッターを切っていることだろう。

 私は二十年の間、身を置く場所にふさわしい「あるべき色」でい続けることを求められてきた。心のどこかで抵抗しながら、心のどこかで息苦しさにあえぎながら。
 私は、サファイア色に生きていきたい。ときどきに、色を変えながら、しなやかに、鮮やかに。朝日には金色に輝き、夕暮れには刻々と水色、青色そして紫からピンクへとグラデーションを描いて。

「今まで出会ったどの店よりもおいしかったですよ」
 海から彼の声が聞こえた。

 あれからずっと封印していたシフォンケーキをもう一度焼いてみようか。友だちが誘ってくれたウェブショップに出してみるのもいいかもしれない。
 海風が髪をとかしてゆく。サファイア通りを歩きながら、私の心が少しずつ自由になってゆくのを感じた。
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