第1話

文字数 3,287文字

「張り切って行ってらっしゃいませー」、その言葉が今でも耳に残っていて、たまにふと思い出す事がある。不思議だ。ただの風俗店のボーイさんの掛け声であるのだが…。
 当時の私はまだ若く性的にも旺盛で、風俗店も店舗型のお店がまだまだ最盛期にあって、マットヘルスなるものにハマっていた私は、遥々埼玉から池袋などの繁華街に足繁く通っていた。
 そのお店では、記憶が正しければ、1階で受付をして女のコを決めお金の支払いなどを済ませると、2階3階4階と各階へとエレベーターに乗って(当時はビル一棟風俗店という店も珍しくなかった)、その女のコの待つ部屋へと向かうというシステムで、その受付の一階からエレベーターに乗り込むと、ドアの閉まる寸前にボーイさんから、先程の「張り切って行ってらっしゃいませー!!」という掛け声のようなものを投げかけられ送り出されるのである。
 私はその時のボーイさんのその送り出す言葉と笑顔がなぜだか好きで、もちろんビジネス笑顔ではあるのだが、自分がこれからこの上なく下品な事をするというのに、一点の曇りもないほどの笑顔と、どこか場違いな掛け声と、なんだかそのボーイさんとある種の男同士の秘密を共有したような、戦友のような気持ちを抱いて、これから始まる夢ようなの時間に胸をときめかせながら、エレベーターに乗り込んだものである。
 それから10年20年と時が過ぎていくうちに、東京やその他の大都市も様々な国際的なイベントであったり世の中の流れもあり、街の浄化という名のもとに、日本中の様々な繁華街できらびやかなネオンを光らせていた店舗型風俗店などは徐々に姿を消していった。
 もちろん、だからといって人の欲望がなくなる訳ではなく、その受け皿としての風俗業は業務形態などを変化させながら生き延びていていき、今の無店舗型、所謂デリヘルなどが主流になっていくのである。
 そして、そこに私は一抹の寂しさを覚えるのである。あの頃のボーイさん達とのやりとり、風俗案内所のおじさんとの下世話な会話、それは日常生活では決して接点を持たないような人たちとのコミュニケーションの場であり、中には見るからにその筋の人ですよねってくらい凄味のある方もいたりするので、サファリパークに身一つで放り出されちゃったよ感や、ぼったくられて身ぐるみ剥がされやしないかなど、非日常だからこそのそんなスリルや背徳感などもどこか楽しみつつの遊びだったように思う。
 昔はそんなスリルが至る所にあった。性の目覚めと共に迎えた中学生時分には、どのようにしてエロ本を手に入れるかは、友人達との間での中々に大きな感心事や話題の一つであった。今やパソコンやスマホさえあれば、ボタン一つでどの国でも、どんな性癖の画像映像でも誰にも知られずに愉しむ事ができる訳であるが、その当時は心臓をドキドキとさせながら、半ば命がけくらいの決心でエロ本を買うために隣町まで自転車を漕いで本屋に向かったものである。
 その上、お店の人に何か言われたらどうしよう、知ってる人に見られたらどうしようなどと、散々逡巡して決死隊のごとくレジへと向かうのである。(そんな時に培った勇気もあるはずで、それが今現在何事かに少しばかりは活かされていると信じたい。)
 さて、そんなエロ話ばかり書きつけていると、読者にはとんだ色魔と思われてしまいそうだが、誤解されないように記しておくが、筆者は、女性への理不尽であったり強制的な性産業への従事は勿論反対であるし、自分が散々お世話になってはいるものの、やはりAVのような性産業や風俗業などの存在には、どこか微妙な違和感や人間の闇のようなやりきれなさを感じるのも事実である。
 エロ本の事に関しても、特に自分に子どもができてからというもの、コンビニや本屋に普通にポルノ雑誌などが並んでいた社会というのはやはり異常だったのではないかと思ったりもするのである。
 それでも人間の性への欲望がなくなる訳ではないし、寧ろ地下へ潜り込み、善良な市民の皆様の目にはつかない事をいい事に、性産業や風俗はよりアンタッチャブルな存在にもなり得る危険性もあるのではないかと感じてしまう。
 
「都合の悪いもの汚らわしいものは人の目に入らないようにする。」
 時代と共にそういう風潮がより加速している気がするのである。あたかも、下品なもの不潔なもの残酷なものなど世間にはないかのように…。
 例えば、普段我々が食している牛や豚、諸々の動物の精肉だって私達が手に取る時には、ただの肉塊である。しかしその過程では当然肉となる家畜が屠殺され、またそれら一連の作業に従事してくださっている方々がいるのである。  
 だが、我々消費者はそんな段階や工程はなかったかのように食事をし、テレビでも華やかな芸能人達がこの肉は美味いなどと見方を変えれば残酷な食レポをしていたりするのである。 
 とは言え、私は決してそれがいけないなどと言いたい訳ではない。
 私が幼い頃はまだ畜産も身近なもので、私の生まれ育った地域は田舎なのもあり、豚がいる牛がいる、鶏がいる、そういった血や排泄物や体液が混じり合ったような匂いや環境と共に生活していて、その家畜達の命や死も身近なものであり、故に命を頂いているという厳かな意識をどこか奥底では持っていた気がするのである。なので、その頃は頃の環境で良い面もあったのではないだろうかと思ったりするのである。
 
 また、いじめなどの人を傷つける類いの行為も今と昔では様変わりした。
 今やネットなどを使えば匿名で自分はほぼリスクを負うことなく、知り合いだろうが全く会った事もない相手だろうが、簡単に傷つける事が可能となった。
 なので、世の中には表向きはわかりやすい暴力やヒドイ言葉など存在しないかのように、皆涼しい顔で振る舞うことだけ上手になっていくのである。
 しかし、例えばネットなどない世界で面と向かっていじめたとすれば、いじめた側もその相手の泣き顔や困惑する表情などを直視せざるを得ず、殴ったとすればその手は痛むのである。故に、そこには今自分が「人を傷つけている」という認識が良くも悪くもダイレクトに跳ね返って来るはずである。何よりそのいじめているのも殴っているのも、その場で身を晒している自分なので隠れる事もできない。なので、誤解を恐れず言えば、まだそちらの方が自分が悪い事をしているという認識を直に感じられるという点でフェアなのではないかと思うのである。
 もちろん、現代であろうが昔であろうが、いじめのような行為が許されるべきでないというのは大前提であり、その行為がフェアかアンフェアかなんて話は、いじめられた方からすれば堪ったものではないのも当然であり、決して肯定しているわけではない事は断っておきたい。
 
 ここまで幾つか例えを挙げてみたが、筆者は単に昔は良かったななどという結論にしたい訳ではない。
 しかし今も昔も所詮はただの人間、大してキレイな存在なはずないのである。
 それをあたかも世の中も人間の心も洗練されたかのように見せかけ、臭い物に蓋をする技術だけ向上させていき、でもよく見てみればその中身は欲望や嫉妬、憎悪で煮えくり返えっている。私はその表と裏を、まさしく二枚舌の如くペロッと使い分ける人間の言動や心理に、薄気味悪さと居心地の悪さを感じてならないのである。
 
 もし、あなたがこんな文章を書いている私に文句をつけたいと思ったとしよう。
 誰にも知られずに、空調の効いた守られたあなたの部屋という空間から、スマホやパソコンで「あいつウザイ」などと送信すれば憂さ晴らしできる。こんなに手っ取り早く、アンフェアなコミュニケーションがあっていいはずがない。もしそんな発言も表現の自由なのだとしたら、少なくとも私には用はない。 

 さて、もう難しい話はやめておこう。
 
 もし、あの頃のようにボーイさんから「張り切って行ってらっしゃいませー」と声をかけられたとしたら、今の私は恥ずかしがらずに笑顔でエレベーターに乗り込めるだろうか。それが問題だ。〈完結〉
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