第1話

文字数 1,989文字

 夕陽が店内に差し込む。
 客が帰り、ドアベルがカランコロンと鳴った。
「……ん……」
「おはようございます」
 ノートパソコンに突っ伏していた先輩が身体を起こす。レジに小銭を収めた後輩が声をかけた。
「あ……寝てた?」
「ばっちり」
「……ごめん」
 先輩は両手で自身の顔を覆う。
「寝ててええですよ」
「……お店は……?」
「帳簿以外は」
「……あと、やっとくからあがってええよ」
「自分も書いてたんで」
「……そっかぁ……あぅ……」
 ノートパソコンの画面を見て先輩は小さく悲鳴をあげた。
 突っ伏していたせいか、hという文字がテキストエディタのウィンドウいっぱいに広がっていた。
「あ……気づいてたんですけど、さすがに……」
「大丈夫、私が悪いから……」
 先輩はタッチパッドを操作し、大量のhを選択していく。
「カフェオレ、飲みます?」
「……自分でやるからええよ」
「入れさせて下さい。練習したいんで」
「……そっか」
 後輩はカウンターに立つと鍋に水を入れ沸かし始めた。
「どうです、原稿?」
「んー……ぼちぼち……」
「明日でしたっけ、締め切り」
「せやねん」
「……黙ってたほうがええですか?」
「ええよ、どーせまだ脳動いとらへん」
 後輩はカウンターにあるコーヒーミルに一杯分のコーヒー豆を入れスイッチを入れた。店内に響く回転音。少し粗目の粉が排出される。
 小さな瓶にドリッパーを置く。
 互い違いに折ったコーヒーフィルターをはめると、粉を入れ、カップに乗せた。
「……そんな手際よかったっけ?」
「どしたんですか、今更」
「こんな見いひんからさ。普段」
「毎週やらせてもらってましたから」
「そっかぁ」
 先輩はタバコを取り出すと火をつけた。
「……しんどない?」
「なにがですか?」
「……色々……これからとか」
「んー……週1ですし、原稿書かせてくれましたし、ええ気分転換なってましたよ」
「……それならええんやけど」
 お湯が沸き、鍋からコーヒーポットに移す。ポットに温度を馴染ませると、少しだけ粉にお湯をかけ、蒸らす。
 水分が粉に浸透し、色が変わる。
「こん時が一番緊張します」
「そうなん」
「どーしても、腕ぷるぷるするんですよね」
「運動足りてへんで」
「……大学行ってるか、ゲーセン行ってるか、ここ来るか、ですからねえ」
「……大学かぁ」
 少しずつお湯を注ぐと、徐々にコーヒーの香りが店内に広がる。
「……どうすんの? これから?」
「……どーしましょうね。まあ学生なんで、とりあえず講義受けて……」
「……ゲーセンバイトとか?」
「ゲーセンも厳しいっすからねー。なかなか」
 さらにお湯を注ぐ。白かったカップが徐々に黒く染まる。
「原稿がお金になりゃ一番ええんですけど」
「……ごめんなあ」
「なにがです?」
「……自分のことばっか優先して」
「……そうですっけ?」
「もうちょいこっちの仕事やってたら……ここ、無くならんですんだんかなあ」
「……それは、なんとも……」
「……なんも言えんよね、ごめん」
 ドリッパーをどけ、温めていたミルクをゆっくりと注ぐと、スプーンを置いたソーサーにカップを乗せた。
「どうぞ」
「ありがと」
 タバコを置き、両手でカップを持つ。数度息を吹きかけるとゆっくりと口に含んだ。
「どうです?」
「……ええんちゃう?」
「ダメな反応じゃないっすかー!」
「いや問題とか全然ないんやけどね」
「……まだまだっすねえ」
「沼やから。コーヒーも」
 自分の分のコーヒーを持つと、後輩もカウンターの隅に座った。
「そっちはどうなん?」
「え?」
「原稿」
「あぁ」
 後輩は目の前のB4のノートと、その上に転がっているボールペンに視線を落とす。
「なんとも……うなってばっかで……サラサラ書けたらええんですが」
「まー、うならず書ける人、いないから……多分」
「……だといいんですけど……」
 後輩もコーヒーを一口すする。
「……んー……家でもやってるんですけどね……」
「…………」
「どしたんですか?」
「……ごめんなぁ……そこまでしてもらってんのに」
「……先輩」
 後輩は身体の向きを変え、先輩を真正面から見る。
「罪悪感とかあるなら、忘れて下さい」
「……」
「自分は所詮、バイトっす。ここ無くなってもなんとかなります。それに……」
「……それに……?」
「……コーヒー教えてもらったり、原稿読んでもらえたり、一緒に働けたり……それだけで自分は……満足でした」
「……ほんまに?」
「……そうじゃなかったら、家でコーヒー入れたりしないっす」
「……いや、それはよくわからんけど……」
「……うぅ……」
 後輩は数度頭をかくと、体勢を元に戻し、コーヒーを飲んだ。
「……無駄じゃないっす。ここの時間」
「……そう?」
「物書きにコーヒーはつきもんです」
「……まあ、そうかも」
「……美味いコーヒーに、おもろい文章書くんで……ここ無くなっても……会って下さい」
「……ん」
 喉の奥を鳴らした先輩の吐息が店内に霧散した。

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