第1話
文字数 1,996文字
一七八九年のある日、森島中良 の元へ一通の文が届いた。
仙臺 の林子平 からだ。
ついに来たかと思い、ざっと目を通し、懐に隠した。
内容は予見通り。林の書いた『海国兵談』の出版費用の出資要請。
中良は己の坊主頭と大きな鼻を片手で擦る。鼻を象になぞらえ万象 と名乗った事もある。
浄瑠璃作家、狂歌師、戯作者、今や家業の医業も行う蘭学者。
『解体新書』の訳者の一人である奥医師・桂川甫周 の実弟。
それが森島中良である。
林子平とは知己である。
強い眼と張り詰めた身が、その生真面目さと頑固さを雄弁に語る侍だった。
二十近く歳上の仙臺の侍を前にし、同じ次男坊でも己とは真逆だなと感じ入ったものだ。
江戸の中良とは違い、林は各地を訪ね、時には己の考えを御上に訴え続けた。仙臺藩医の兄の部屋住みながら勉学を絶やさず、蘭学者 とも交わり、兄の甫周は林の書いた『三国通覧図説』に序文を寄せた。
林は常に状勢を見極めようとし、憂いた。
己とは、違った。
己の師匠は、平賀源内 である。
若い頃は、師のその雑多な知識と猥雑な筆に夢中だった。
師を真似て雑文を書き、浄瑠璃を共作した時には感も極まった。
源内も様々な文筆だけではなく、本草学を中心に海外の書物、道具、雑学など、手の内を惜しみなく見せてくれた。
中良は彼の手中で遊ぶ童 であった。
林とは、違っていた。
『いつまでも浮いてる鞠 なんぞあるもんか』
懐の文を気にする中良の耳に、師のぼやきが甦る。
源内の関わっていた、秩父の鉱山開発が頓挫した後だったか。
『鞠も落ちなきゃ、弾 まんさ』
あれは源内なりの強がりだったか。
『一度落として、弾ませる。上手い話ってのは、そういうモンだ』
その源内は落ち、そのまま転がった。
中良たちの浄瑠璃の方が評判が良かった事で癇癪 を起こし、公衆の面前で罵倒してきた。直後、五十二歳の源内は過ちから人を殺し、獄中で死んだ。
腸 に鉄塊を残すような、後味悪い別れだった。
己も今や三十過ぎ。
林も五十だ。
老いへの焦りもあるだろう。
蘭学者は今、ゆっくりと落ちている。
蘭学を擁護した田沼意次 の失脚、続く松平定信 による蘭学嫌悪の治政の煽りを受けている。
師の発電機 を筆頭に海外の様々な道具や話を紹介した本を書き、御上に献本してきた中良も、蘭学書の出版を続ける事を断念した。
林の苦境は聞き及んでいた。
林は出版に窮して仙臺へ戻り、自らの書の版木を彫っているという。
その傍 ら文を書き、友人知人より集金し、出版するつもりだ。
だが書物の内容を伝え聞く限り、早急なる海岸の防衛と具体策を解いて見せた『海国兵談』は、御上が求める実学の範囲を超えてしまっている。
林は蘭学者ではないが、諸外国を語る意味では蘭学者に近しい。
そして蘭学者が御上の目の敵である昨今、蘭学が、海外諸国の政治情勢を下々が得て、御上の威光を恐れず意見する林のような者が現れる学問と見なされてはならない。
現に中良にこの文が届いた以上、蘭学者が無関係とは言い切れない。
一冊の書物であっても、林の動向次第では、蘭学者にも類が及ぶやもしれぬ。
『鞠も落ちなきゃ――』
林も落とされる。
それでも林は『海国兵談』を世に出すことを諦めまい。
仮に仙臺の地に縛られ、言を封じられ、罪人の刺青を刻まれようとも、己の掲げる書が国を導く灯火 になると信じる男だ。
中良はその様を想い描き、まるで燈臺鬼 だなと古い話を思う。
中国で喉を潰され、身に刺青を施され、生きながらにして頭に火を灯す燭臺 へと変えられた遣唐使の話だ。
蘭学者も落ちる。
兄達の和解 の苦労、悲願の洋書の和解を果たせなかった師の無念、後継者として試行錯誤する同世代の蘭学者たちの熱意。
その全てが、林の執念の一冊がきっかけで瓦解してはならない。
己が見てきた全てが転がっては。
森島中良は一人、座して目を瞑 る。
一人。
己だけでも落ちなければ。
全てが転がる事にはならない。
林の為に金子 を工面する者はいる。
だが己は違うと、御上に示す。
御上も実学たる蘭学の全てを奪おうとはするまい。海外の見聞を囲い込むのが目的やもしれぬ。
それで良い。
己には、師や先人から受け継いだ知識と筆がある。
仮にこのまま蘭学者が滅ぶ世が訪れても、己なら受け継いだ雑多な学で、蘭学を志す者の燈臺 になれる。
後々まで林たちから批難され、文を黙殺した己に罪が刻まれようとも構わぬ。
己もまた、一個の燈臺鬼である。
『いつまでも浮いてる鞠なんぞあるもんか』
中良の懐、林の文のその下、腸 の鉄塊が囁く。
『一度落として、弾ませる。上手い話ってのは、そういうモンだ』
森島中良が林子平の文を黙殺した後の一七九三年、林子平は仙臺で死去。
同年、蘭学に圧力をかけた松平定信も失脚。
森島中良が、皮肉にも、その松平定信を藩主と仰ぐ白河藩に出仕するのは、その二年後の事である。
ついに来たかと思い、ざっと目を通し、懐に隠した。
内容は予見通り。林の書いた『海国兵談』の出版費用の出資要請。
中良は己の坊主頭と大きな鼻を片手で擦る。鼻を象になぞらえ
浄瑠璃作家、狂歌師、戯作者、今や家業の医業も行う蘭学者。
『解体新書』の訳者の一人である奥医師・
それが森島中良である。
林子平とは知己である。
強い眼と張り詰めた身が、その生真面目さと頑固さを雄弁に語る侍だった。
二十近く歳上の仙臺の侍を前にし、同じ次男坊でも己とは真逆だなと感じ入ったものだ。
江戸の中良とは違い、林は各地を訪ね、時には己の考えを御上に訴え続けた。仙臺藩医の兄の部屋住みながら勉学を絶やさず、
林は常に状勢を見極めようとし、憂いた。
己とは、違った。
己の師匠は、
若い頃は、師のその雑多な知識と猥雑な筆に夢中だった。
師を真似て雑文を書き、浄瑠璃を共作した時には感も極まった。
源内も様々な文筆だけではなく、本草学を中心に海外の書物、道具、雑学など、手の内を惜しみなく見せてくれた。
中良は彼の手中で遊ぶ
林とは、違っていた。
『いつまでも浮いてる
懐の文を気にする中良の耳に、師のぼやきが甦る。
源内の関わっていた、秩父の鉱山開発が頓挫した後だったか。
『鞠も落ちなきゃ、
あれは源内なりの強がりだったか。
『一度落として、弾ませる。上手い話ってのは、そういうモンだ』
その源内は落ち、そのまま転がった。
中良たちの浄瑠璃の方が評判が良かった事で
己も今や三十過ぎ。
林も五十だ。
老いへの焦りもあるだろう。
蘭学者は今、ゆっくりと落ちている。
蘭学を擁護した
師の
林の苦境は聞き及んでいた。
林は出版に窮して仙臺へ戻り、自らの書の版木を彫っているという。
その
だが書物の内容を伝え聞く限り、早急なる海岸の防衛と具体策を解いて見せた『海国兵談』は、御上が求める実学の範囲を超えてしまっている。
林は蘭学者ではないが、諸外国を語る意味では蘭学者に近しい。
そして蘭学者が御上の目の敵である昨今、蘭学が、海外諸国の政治情勢を下々が得て、御上の威光を恐れず意見する林のような者が現れる学問と見なされてはならない。
現に中良にこの文が届いた以上、蘭学者が無関係とは言い切れない。
一冊の書物であっても、林の動向次第では、蘭学者にも類が及ぶやもしれぬ。
『鞠も落ちなきゃ――』
林も落とされる。
それでも林は『海国兵談』を世に出すことを諦めまい。
仮に仙臺の地に縛られ、言を封じられ、罪人の刺青を刻まれようとも、己の掲げる書が国を導く
中良はその様を想い描き、まるで
中国で喉を潰され、身に刺青を施され、生きながらにして頭に火を灯す
蘭学者も落ちる。
兄達の
その全てが、林の執念の一冊がきっかけで瓦解してはならない。
己が見てきた全てが転がっては。
森島中良は一人、座して目を
一人。
己だけでも落ちなければ。
全てが転がる事にはならない。
林の為に
だが己は違うと、御上に示す。
御上も実学たる蘭学の全てを奪おうとはするまい。海外の見聞を囲い込むのが目的やもしれぬ。
それで良い。
己には、師や先人から受け継いだ知識と筆がある。
仮にこのまま蘭学者が滅ぶ世が訪れても、己なら受け継いだ雑多な学で、蘭学を志す者の
後々まで林たちから批難され、文を黙殺した己に罪が刻まれようとも構わぬ。
己もまた、一個の燈臺鬼である。
『いつまでも浮いてる鞠なんぞあるもんか』
中良の懐、林の文のその下、
『一度落として、弾ませる。上手い話ってのは、そういうモンだ』
森島中良が林子平の文を黙殺した後の一七九三年、林子平は仙臺で死去。
同年、蘭学に圧力をかけた松平定信も失脚。
森島中良が、皮肉にも、その松平定信を藩主と仰ぐ白河藩に出仕するのは、その二年後の事である。