第1話

文字数 2,245文字


彼女は部屋で一人キャンバスに向かい合っていた。
「生きていたんだよね、、、。でも、もう描けない。」
彼女は目の前にあるキャンバスに何も描けずに、筆を置いた。




2020年12月28日
私は、仲の良い友達が集まる忘年会に向かうため、居酒屋が並ぶ道通りを歩いていた。
仕事が終わり、もう後は、年を越すだけだからか、この道を歩く人たちの足どりは軽く、皆が浮かれているように感じる。

もう、来年で十一年目になるのか、、、、、、。

彼が死んでから、十年ほど経つ。
彼とは、大学で出会い卒業するころに付き合いを始めて、三年交際し結婚した。
私は大学まで、誰とも付き合ったことがなかったので、彼は私にとって最初の人だった。
けれど、結婚してすぐに彼は私の日常から突然いなくなった。事故で死んだのだ。
私の世界から彼だけが消えた。本当に、突然だった。
何が起きたのか整理もつかず、彼の死体を見ても実感が湧かず、心が何かに握り潰されたかのように、苦しくなったのは彼が灰になった時だった。
その時、私は彼が死んだあと初めて泣いた。涙を流すのに二週間かかった。
当時は、辛くて立ち直るなんて無理なのではないかと思ったが、人間は案外生きていくために気持ちを切り替えることはできるらしい。
彼が死んだあとも何も変わらない生活を送っていた。
朝起きて、仕事に行って、友達と遊んで、帰って好きなテレビを見て、眠くなったら寝る。それまでと何も変わらない毎日。彼がいないことを除いては。
日々に忙殺される中、私はこのまま彼を忘れていくのが怖くなった。
だから、毎年一つずつ彼を絵に描くことを決めた。
彼は写真に映るのが、あまり好きではなかったため、彼のことを撮った写真は少ない。
その少ない写真を見れば、彼の顔をすぐに見ることができるけれど、自分の記憶の中だけにある彼の表情を残しておきたかった。忘れたくなかった。
だから、描いた。
一年かけて一つ彼を描いた。
そんなことをしているうちに、気づけばもう三十後半になろうとしている。
私生活では恋愛なんてする気はおきず、仕事だけに集中していたので、いつの間にか仕事上の地位だけは高いところまで登ってしまった。あの日から私の心は何も変わっていないのに、外側だけどんどん変わっていく。

「遅れてごめん。」
私が居酒屋に着くと、今日、集まる予定のメンバーはほとんど揃っていた。
6人ほど席に座っている。
「お、○○来たよ~。とりあえず、ビールで良い?」
入り口側に座っていた亜希子が私に気づき、声をかけた。
「うん。それでお願い。」
私は靴を脱ぎ空いている席に座る。
それと同時に先ほど頼んだビールが来た。
「よし。じゃあ全員揃ったことだし、改めて乾杯~。」
こうして、一年に一度大学の同級生たちと集まっているが、皆何も変わらないように見える。一年ほどの月日では人はそうそう変わらないのかもしれない。
「いや、それにしても私たち来年で三十後半だって、、。そろそろ独り身じゃ悲しくなってきたな。」
そうだ。ここにいる全員が独身なのだ。元々この集まりには、もっと多くの同級生がいたのだが三十を境に結婚し子供ができて来られない人が増えた。
それ以降、ほぼこの六人での集まりになっている。
今日は、年齢を重ねて体力が落ちたことや、一年の間に起こったこと、大学時代の思い出など話してこの会はお開きになった。
もう、終電ギリギリまで飲むという無謀なことはしない。
健全な時間に解散した。
終電過ぎまで、飲み明かす人が多いのかこの居酒屋が密集している道はにぎわっている。
反対に駅は閑散としていて、静かだった。
先ほどまで居酒屋の中にいたので、より静かに感じる。
違う路線を使っている友達とは改札前で別れ、私は路線が同じ亜希子と2人改札を通った。
静かな駅のホームを歩いていると、酔いがさめてくる。
電車を待っている時、隣にいた亜希子が思い出したように話し始めた。
「そういえば、もう来年で十一年経つんだね。」
亜希子は彼の名前こそ出さなかったが、あの事故のことを言っているのはすぐに分かった。
「うん。」
「辛いと思うけど、忘れるのも一つの手だと思うよ。」
亜希子を含め大学の同級生たちは、私の前で彼の話題に触れるのをずっと避けてくれていた。
だから、なぜ今さら、亜希子がこの話題を出したのか少し不思議だった。
ちょうどその時、電車がホームに到着し自然と話す話題は変わってしまった。

「ただいま。」
誰もいない家に私の声だけが響く。
荷物をリビングに置くと、すぐにキャンバスが置いてある部屋に向かった。
まだ、十枚目が仕上がっていないのだ。
背景も身体も描き終わっているのに顔だけ輪郭を描いたまま進んでいない。
筆を持ってキャンバスの前に座る。
静かな部屋で、彼との記憶を思い起こす。

「ダメだ。わからない。」

彼を忘れないように、絵を描いていたのに。
私の記憶の中にある彼がぼやけている。
後ろから光があたり、まるで逆行で写真に映っているかのようだ。
輪郭は見えるのに表情がわからない。

「生きていたんだよね、、、。でも、もう描けない。」

あんなに忘れるのが怖かったのに、忘れてしまった。
涙が静かに流れる。
私は筆を置いてしまった。





彼女はどこかで本当は気づいていた。
二枚目、三枚目、四枚目と年月が経つほど、彼女が描いた彼の表情がぼやけていることに。

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