10月25日

文字数 2,924文字

 姉小路通を西に歩を進めると突如視界が開け、広い通りに出た。賑わう排気ガスや自転車の群れが周辺視野を掠めていくが、私の意識対象もまたその群像の中にあった。点滅する交差点を急ぎ足で渡り、その後は少し速度を落とし、一定の間隔をあけつつ、しかし見落とさないように、そして気づかれぬように、手に息を吹きかけて温めた。
 空はいつしか高くなり、南北に続く烏丸通の上で青々と広がっている。銀杏の木は黄色と緑のでたらめ模様を描いていた。圭は通りに面する大きな書店へと入っていった。
 ―ここに自転車を止めないでください―
そう書かれた看板越しにガラス張りの店内を見やると、幸い圭は奥のコーナーへ行ったようだ。…否、見つかることに何ら問題はないのだ。
 自動ドアを潜り抜け、乾燥した本の空気を浴びる。しばらく雑誌コーナーに目を落とし、私は意を決して振り返った。そこに圭が通りかかった。
「えっ」
「あれ、もうおったん」
 圭は曇りなき目をこちらに向けた。切り揃えられた前髪がまつ毛の上で揺れ、黒い瞳が透明に澄んでいる。顔の中心に通るくっきりとした鼻筋と、きめの細かい白い肌が、凛とした造形を生み出しているが、化粧気の無い顔と華奢な体つきが、見る人に幼い印象を与える。
「そう、早く着いて…」
「そっか、ほな行こ」

 圭と私は並んで書店を出た。書店の目の前にある横断歩道を渡り、通りを東に歩く。しばらくすると、左手に赤いレンガ造りの洋風建築が現れた。
「ここ?」
圭はスマートフォンでマップを見て立ち止まる。私は隣に立ち止まって、眼下に広がる圭の前髪が風で1本1本揺れているのをじっと眺めたが、
「いや」
顔を上げて建物の入り口を見ながら否定した。
「ここは別館で、見たいやつはあっち」
そう言って左手を指す。左手には建物に沿って高倉通が延びている。
「なんや、知ってるん」
そう言いながら、圭は左に曲がった。

 赤い洋風建築は灰色の本館と中で連結されているが、2人は高倉通に面した本館の入口から中に入った。中は人でごった返しており、当日券を買う人の列、展示会場に入らんとする列、ただいるだけの人が三者三様の騒音を吐き出していた。
 人気漫画の完結記念展。この2人はこの展示を見るため、久しぶりに会う約束をしたのである。

 「すごい並ぶな。チケットあってよかったわ」
遡ること1週間前、私はアルバイト先で使い道のなくなったチケットを貰った。
「行けなくなって。まあ彼氏とでも行きな」と言って手渡されたのだが、圭を誘った。圭もこの漫画を読んでいたからである。
 2人はスタッフにチケットを見せ、展示会場に入るために列の最後尾へ並んだ。
「誘ってくれてありがとう」
圭が言う。
「いや、この漫画読んでたじゃん、だから丁度良いかなって。全然会ってなかったし」
「確かに、めっちゃ久しぶり。同じ大学でも会わへんもんやな。ずっと一緒に登校してたのに、凄い昔に感じるわ」
そう言う圭を見て、私は昔の感覚を思い出した。しかし昔と言っても、1年も経たない。2人は中高一貫の女子校で友達になった。通学路が被っていたのもあって、中学1年生の頃から仲良くしていた。同じ高校から同じ大学へ進学した2人は春こそ度々会っていたが、新しいコミュニティに馴染み、大学生活を忙しく充実させようと奔走するうちに、少しずつ会わなくなっていた。
「ね、ほんとだね。中学の時もこの漫画の展示見たよなあ」
「懐かし!あれって何記念で展示やってたんやっけ、もう完結とか早いなあ。友達と遠出したんあれが初めてやったかも」
「ほんま?…確かに、私も。もう大学生かあ」
 チケットに印刷された主人公のイラストを見て呟く。思えば、この漫画は圭が紹介してくれたのである。「めっちゃおもろい!」そう言いながら1巻を押し付けられた先には、新しい世界が待っていた。俗にいう「沼」である。最新話が更新されるたびに伏線について語り、ネットで二次創作を吸収し、最新刊を買うために寄り道をした。しかし、漫画本を参考書に持ち替え、制服を永久に脱いだ頃、彼女にとって漫画は、楽しかった思い出となりつつあった。好きなキャラクターで埋められていた写真フォルダは、サークル仲間との写真で上書きされるようになった。
「最終話まで読んだ?」
私が尋ねると、圭は頷いた。
「勿論。読んでへんの?」
「いや。展示見るし、まとめて読んだ。受験とかで読まなくなってたし。やっぱおもろいわ」
「あ、そうなんや」
話しているうちに、展示会場へ行くエレベーターに乗る順番が来たらしい。エレベーター前のスタッフに言われるがまま箱に詰められ、展示会場へ上がった。

 「すごい良かったな!」
ゆっくりと進む人混みの中で展示を見終わったころには、足と首がすっかり疲れていた。2人は博物館近くのカフェに入り、ほっと息をつく。
「ね、ほんまに。漫画の中に出てきた武器とかが三次元であるの嬉しいよな」
「わかる、実在感増した。あと原画めっちゃよかったくない?」
圭は目を輝かせて前かがみになる。多分今から推しメンの話をしようとしているんだ。私はにやりと笑って圭の目を見た。
「お待たせいたしました」
しかし、そんなタイミングで、注文したラテが運ばれてきた。店員さんは慣れた手つきでカップをテーブルに置き、戻っていく。
「それなんだろ?」
店員さんが遠ざかったところで、私は圭に聞いた。圭のカップと受け皿の間に、小さな紙が挟まっていた。
「う~ん…」
圭は表情を変えることなく、ラテをこぼさない様に紙を引き出した。見ると、SNSのIDが書かれている。
「おっと、これは…」
私が横目で圭を見ると、圭は少し口を曲げていた。困った時や、考えている時の癖。
「時々あって、こういうの」
「…ナンパ的な」
「ナンパ…なん?これ」
圭は苦笑いをする。右の口角だけが不自然に上がった。
「まあ…」
私はしばらく黙り込んだ。圭は紙を折り畳んで、財布のレシートを入れている隙間に入れた。家で一緒に処理してしまうのだろうか。知らない人だけでなくても、大学でもこういう感じなのだろうか。
「そー...いや圭って。彼氏いる?」
私は努めて自然に、器用に話の流れを掴んで、発声した。圭の財布のチャックが静かに締まる。
「わたしー?おらん」
「え、そうなの」
驚いて圭を見る。合わさった黒い目は、吸い込みそうなほど私を見ていた。自分にとって、思っていたよりもずっと予想外であり、同時に予想通りの答えでもあった。
「欲しくないんだっけ」
「まあ」
圭は一口ラテを啜った。
「さあちゃんは?」
突然呼ばれた懐かしい呼び方に、なぜだか緊張してしまう。
「あ、いる…」
「やっぱなー…」
圭がふっと笑うと、その前髪も呼応するようにさらさらと揺れる。黒い大きな目と白い肌に感情が宿り、彼女の周りだけがスクリーンの向こうに存在するように思えるのだ。
「どんな人?サークルで?写真とかあるん?」
彼女は急に大きな目を意地悪く光らせて、早口で問い詰め始めた。
「めっちゃ食いつくやん!圭の話聞きたいわ、モテてるんやろ」
私は恥ずかしくなって話をすり替えようとする。何だか圭と恋愛の話をするのは、物凄く恥ずかしいことのように思われた。そんな私を見て、圭は不満げに口を曲げた。
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